電車の開閉扉のガラス窓は乗り降りする人間の指跡手跡でいっぱいだ。それを通して見える曇り空はあまり芳しくない。目的の駅まであと少し。
　丈の思考の対象はもちろん、これから逢う予定の白兎美羽だ。
　みかけはありきたりだったよな。でも変わってる。


　初めての接触は火曜日。強引に夕食に誘って口説き落とすまでは計算通りだった。なにしろこちらは用意周到に論理を組み立てていたのに対し、相手はまるで予想もしてなかったのだから当たり前だ。ところがそこから微妙に計算をはずれていく。週末に逢うのは計算通りだが。


「公園？」
「三和運動公園ってご存じですか？」
　都内でも広い公園は確か住宅街の中。丈の最寄り駅からだと２０分程度だろうか。
「あたしは徒歩で行けるんです。そこにしません？」
「そこで逢う、ってこと？」


　運動公園と銘打たれているのは、広い園内にアスレチックとかサイクリングコースとか健康的でアウトドアなスペースが備わっているからと聞いている。相談を聞いてもらうため社外で週末会えるかと言ったのは自分だが、彼女の提案は思いもかけぬもの。
「スポーツが好きとか」
　丈の問いに首が振られる。
「ペットの散歩なんです。週末ぐらいしか連れ出せないのでつきあってもらえれば」


　納得した。つまり俺がついでか。デートじゃないのだからとは思うが仮にも女性を誘って二の次にされたのは初めてだ。怒るべきか？　だが頼んだのはこっちだし、そういう扱いが新鮮と感じるあたり自分は結構嫌な奴になりかけてるかもしれない。などとはおくびにも出さず美羽の申し出を承諾し、丈はそこへ向かっているわけだが。
　この空模様だと途中で変更もありえるな。


　電車は目的の駅へつっこんでいく。先頭車両だから見えるスピード感に一瞬酔った。





　改札を下りると公園は目の前だった。大きな時計が待ち合わせの５分前を指している。トントン背中をつつかれ、振り向くと美羽がいた。
「さすが、時間に正確ですね」


　驚いた。ありきたりのはずの見た目が服１枚で変わるから女は怖い。ノースリーブの木綿のワンピースは小花柄のストライプ。胸からフレアに広がるスカートの裾まで１列にボタン。共布のリボンがウエストにまかれうしろで結ばれている。頭に巻き付く三つ編みと妙にシンクロして見える。曇り空だというのに日傘をさして丸っこい籐かごを下げて。プライベートだから不思議はないがこんな格好で現れるとは思ってなかった。


「どうかしました？」
「いや。曇ってるのに日傘？」
「これ雨でも使えるんですよ」
　けろりと彼女は言う。
「あれ。降ってる？」
「いえ。肌が強くないんで日焼け止めは塗ってても帽子や日傘が必需品なんです」
「なるほど」


　うなずいた丈はしかし、もう一度あたりを見回す。
「ペットの散歩じゃなかったっけ」
　てっきり犬か猫。おそらく犬だと思っていた。わざわざ公園まで連れてくるのだから。
「散歩ですよ」
　そう言ったきり美羽はさっさと歩き出す。
「え。おい」
「すみませんがついてきて下さい」


　後を追いながら丈は考える。先に来てもう放したとか。だがリードも持ってないし、目を離すのはまずいだろうに。日射しはなくても蒸し暑さは相変わらずで空気は水分をたっぷり含んでいる。ちょっと動くだけで羽織ったシャツの背中、ランニングの下を汗が伝い落ちる。前を歩く美羽は意外に早足。勝手知ったる様子で広い公園を突っ切っていく。暑さなど気にせぬ涼しい顔だ。どこへ。


　彼女がやってきたのは、どちらかというと自然を生かした造りの公園内で、人工物が目立つ幼児用のスペースだった。今にも降り出しそうな空のせいか誰もいない。砂場、大小の動物の作り物、低い鉄棒、すべり台。並ぶそれらの反対側には川を模した浅い流れがコンクリで作られていた。涼しげだが２，３歳児でも深さはくるぶしくらいしかないだろう。歩み寄った美羽が左手を籐かごに突っ込む。取り出され浅い流れに沈められたそれに、丈は目を疑った。
「カメぇ？」


　ものすごく素っ頓狂な声だったに違いない。丈を振り返った美羽が吹き出した。かまわず丈は流れのそばにしゃがみ込む。
「カメだ」
「はい」
「散歩ってカメだったのか」
「あたし、犬とか猫とかいいましたっけ」
「言ってないが普通思わんだろ。カメとは」
「ですね」
　当のカメは知ったこっちゃないという風だ。流れの中を泳ぎ、いや歩いている。時々首を伸ばして顔を水から出して。


「なあ。これ息継ぎ？」
「この子、泳げないんですよね」
「陸ガメ？　水浴びってこと？」
「いえ。ミドリガメだから立派に水棲、水の中が普通です」
「でも泳げない？」
「水槽から脱走ばかりしてるうちにお座敷ガメになっちゃって。今じゃ深い水に入れると溺れそうなんです。足がつかないのは怖いみたい」


　あまりの情けなさに目を覆ってしばし。丈は手を伸ばすとカメをつかんで持ち上げた。しっぽから水を滴らせながら手足をジタバタもがくカメと顔をつきあわせてみる。結構重い。ミドリガメのイメージよりはずっと大きい。誰だよといいたげに首をもたげてくる。
「へえ。つぶらな瞳だ」
　美羽が笑った。キラキラとした笑いには驚きも含まれている。


「平気なんですね。男性でも苦手な人は多いのに」
「俺もカメだから」
　きょとんとした美羽に横目でにやり。
「かめざわ」
「あ、そうだ」
「名前も忘れてるわけね」
　そう思うと面白くはない。
「覚えてます。意識してないだけです」
「フォローになってない。それにしてもなんでウサギがカメ飼ってんの」
「子どもはそんなへ理屈こねませんよ」
　憮然として美羽が唇を尖らせる。


「そりゃそうか。でも女性の方が苦手だろうに」
「慣れです。ずっと可愛がってたのは弟だったし」
「弟さん、いるんだ」
　持ち上げられて嫌がっているカメを流れに戻しても返事がなかった。振り返ると傘で美羽の顔は見えない。
「白兎さん？」
「今は、いません」
　短い答えと一緒に傘が上がった。今は、ってどこかへ行ってるんだろうか。特に表情のない顔にそれ以上聞けなくなった。


「それより亀沢さん、あたしに何を聞きたいんですか？」
　唐突に話題は切り換えられた。