うちの総務のいいところは基本的には定時で帰れるところだ。

　終業１０分前を時計で確認しながら美羽は思った。むろん飛び込みや仕方のない残業はあるが、他の部署に比べれば確率は圧倒的だ。自立のための手段として選んだ仕事だが３年経った今もこの選択には満足している。


　女性が多いのは煩わしさと居心地の良さ両方が考えられたが、思わぬ展開ながら恋愛の相談相手とみなされ一目置かれたのはラッキーだった。協調はするが馴れ合いもしない。周囲と一定距離を保ちたい美羽にはベストな状態だ。


　例外は葵ぐらい。もっとも葵自身他の社員とは距離があるし、社内では会うことも少なく接触は大方プライベートだった。それでも誰からともなく葵と仲がいいことは知られていったが隠すことではない。葵との友情は美羽には思いがけない贈り物。誇りたいほどだ。華やかで頭脳明晰、歩くファッションブックみたいな彼女。別段ひどくもないだろうがごく平凡でありふれた自分とは好意的に見ても不釣り合い、異色のとりあわせだろう。いつだか葵にそう言ったら大笑いされた。


「そりゃね。見た目はあなた気にもしないし。それも意図的でしょ」
「そんなことない」
「あなたにいわゆる恋愛相談した人は納得してるわよ。あたしとの取り合わせ」
「どうして」
「インパクトじゃいい勝負よ」


　あれは褒め言葉だったんだろうか。思い出してもちょっと首をひねりたくなるがまあいい。人からどう言われようと、葵は明石がいなくなってから初めて美羽が心底打ち解けられた人間だ。或る意味運命的な出逢いだったと思う。１年前が甦る。





　珍しく残業の夜。やっと帰ろうとした美羽は、社内の喫煙室から苛立たしげに出てきた女性と危うくぶつかりかける。お互い持っていた書類が床にぶちまけあってしまった。
「ごめんなさい」
「こっちこそ」


　あわてて拾った書類の下にメンソールの箱。封は切ってあるのにぴっちり詰まったままなのが不思議でつい相手を見る。喫煙室にいたはずなのに。バツが悪そうに彼女は言い訳した。
「ライター落としたらしくて。誰もいないから」


　きれいな柳眉が寄っているのは欲求不満か仕事のためか。目立つ容姿は情報に疎い美羽でも知っていた。ヘッドハントされたばかりの社長秘書。気苦労も多いだろう。立ちあがるなり葵の腕を取ると引っ張るようにして喫煙室へ連れ込んだのは美羽にしては衝動的だった。
「え？　何？」


　ドアを閉めると面食らってる彼女に、ポケットからごそごそ取り出した物。
「どうぞ」
　差し出されたライターと美羽をぱちくりと見比べたのは、男物のそれが似合わなかったからかもしれない。
「あ、りがとう」


　かなりせっぱ詰まってたようで逆らいもせずメンソールを１本とりだしくわえると、そのライターで火を点けた。グッと吸い込むと嬉しそうにゆっくり吐き出す煙。吸い方がきれいだ。横顔に見取れる美羽へ１本だけ隙間の出来た箱がつきつけられた。
「どうぞ」
「あ、いえ。あたし吸わないんです」
　葵はもう一度ぱちくりと眼を瞬かせた。
「じゃどうしてライター？」
　その場は笑ってごまかしたけれど。


　結局そのあと御礼にと夕飯をごちそうになり、酒になった頃には意気投合。ふたりはかなり運のいい確率で上質の友情を打ち立てることができたのだ。容姿端麗な見かけに反して姉御肌、世話好きという葵の性格に美羽は驚かされた。葵も同じく。
「あなたが例のウサギ神社なんてね。詐欺だと思ってた」
　入社したてなのに早耳だった。


「別にお賽銭とか奉納金取ってる訳じゃないし。噂ばっかりよ」
「火がなきゃ煙は出ない。どうしてそうなったの」
「うーんと最初はあれかな。たまたま三角関係の女性双方から話を聞かされたのよね」
　どっちも同僚の友達。同僚ともそんなに親しくなかったが。


「たまたまねぇ」
「それぞれ別の日に。ところが、ふたりめの話を聞いてる場所にひとりめが来て鉢合わせ」
「修羅場とか？」
「怒鳴り合ってたんだけど。とりあえず双方の言い分をこう整理してあげてたの。そしたらしまいに悪いのは間の男じゃん、てことになって」
「はぁ」
「その場に彼も呼び出して４人で話してたらそのうち、最初の女性がやってられない。いち抜けたって宣言しちゃって」
　葵はすでに笑っている。


「残ったふたりはとりあえずもうちょっとつきあうことにして。こないだ結婚したかな」
「どうしてそうなるの」
「そうよねぇ」
「ねえって」
　笑いすぎて息も絶え絶えの葵に、のんびりと美羽は説明を続ける。
「片思い同士がうまくつきあえたとか、仲違いが仲直りに変更とか」
「全部あなたのおかげで？」
「だからあたしは聞いてるだけなの。みんな自ら答えにたどりつくのよ」


どうにか笑いを納め、じっと美羽をみつめた葵は妙に納得した顔になった。
「そうかもね。あなたってそういうタイプかも」
「どういう？」
「人を安心させて我に返らせて、前に進ませるみたいな」
「・・・当人はずっと迷ってて立ち止まってんのに？」


　葵にというより独り言だ。愚痴る美羽の頭をポンポンと叩く葵。すでにこの時には辛い昔も伝えていたから。
「そこがあなたの面白いところ。触媒・・・巫女？　なるほど神社かな」
　やっぱり褒められてる気はしなかったが。
　以来つきあいは途切れることがない。


　終業の音楽で美羽は我に返った。いけない。いくらヒマな時期だからって仕事中にトリップするなんて。ちょっと反省しつつ片づけ始める。さっさと帰ろう。美羽の部署は皆似たり寄ったりですでに飛び出していく者もあった。
「お疲れ」
「お疲れさ・・・あれ、亀沢さん？」





　呼ばれた名前に、ほぼ全員が一斉に振り向いた。非常ベルでも鳴らしたみたいだと丈がたじろぐ。即座に飛びついてくる女子社員が数名。
「急用ですかぁ？」
「とびこみ？」
「お手伝いしますっ」


　ここにも男性は居るのに自分の部署とは女性の迫力が違う。違うのはパワーの質か？
「亀沢じゃないか。どうした。なんかトラブルでも？」
　苦笑しながら救いの手をさしのべたのは総務部課長。丈の先輩だ。
「いや仕事じゃなくて。もう終業だしプライベートで」
　取り囲んでいる女子社員の表情が一段とすごくなる。噛みつかれそうで身の危険を覚える。さっさと目的を果たしたいが、このサメみたいな顔ぶれの中に彼女が居たらどうしたものやら。逃げるか。


「白兎さんにちょっと」
　固唾を呑んだ口々からうめきともため息ともつかぬ声が漏れた。反応はそこだけ。いないんだろうかと思ったらかなりずれたテンポで。
「はい？　私、ですか？」
　今夢から醒めたみたいな調子だ。居並ぶサメの向こう側で机に座ったまま背筋を伸ばし、顔だけこちらに向けている女子社員と眼があった。


　意外なほど平凡な外見。中肉中背で普通の顔立ち。髪は長いらしいが編んだ三つ編みがぐるりと頭に巻き付けられている。強いて言うとそれが少しだけ巫女みたいな雰囲気を与える。神社ではなくて西洋の神殿の巫女だ。つかつかと丈は近寄った。


「白兎、美羽さん？」
「社内に同姓同名はいません」
　いかにも総務らしい事実を述べる口調だがとまどいがありありと声音に出ている。
「失礼だけど、ウサギ神社って言われてる、白兎さん？」
　いくぶんぼんやりしていた彼女がびっくりしたらしく、瞳が大きくなった。


「亀沢さーん、白兎さんに用なんですか」
「まさか亀沢さんもご相談？」
　丈の包囲網は緩みはしても解けてはおらず興味津々だ。数日の熟慮の末、ことをオープンにするほうが都合がいいと判断していた丈は彼らににっこり告げた。
「ああ。俺も是非御利益に預かりたいと思ってね」


　キャーッと悲鳴がとんだのは丈の返答のためか、笑顔のせいか。気にするまい。当人に向き直ると改めて申し入れた。
「そういうわけで。これから相談にのってもらえるかな。是非」


相手はというと是とも否とも答えずただポカンと見上げてくるだけだった。