吹き抜けが階上まで続くエントランスは空調が効いている。白い外壁は涼しげで外の気温や蒸し暑さなど別世界だ。それを奇異と思わず快適と受け止めるのは人間だけだろう。進化と取るのか退化と言うべきか。


　小難しいことを考えるのは何かがうまくいかない時だ。エントランスを抜けた亀沢　丈　かめざわ　じょう　はホールを進みながら何かとはなんだと考えてみる。仕事は順調、人間関係も良好で問題ない。だとしたら？
　彼の前を女性が横切った。
「おはよう、葵の上」

　日高　葵はチラッと視線を流し辛うじて目礼した。ギリギリ最低限の挨拶はいつものことだ。知らん顔で距離を縮めた丈はエレベーター前で横に並ぶ。
「忙しい？」
「普通です」
　社内でも定評がある。丈の強引さと張り合えるのは葵の気の強さぐらいだとか。


「ぼつぼつ俺にも時間をくれる気になった？」
「まさか」
　確かに。微妙な距離を保ったままでふたりはやってきたエレベーターに乗り込んだ。





　亀沢　丈。入社８年目。
　新入社員の頃からプログラム開発に優れていた。社内での力量は群を抜いており他の者をリードして現在に至っている。甘いとか洗練されたというには遠い粗野で荒々しい雰囲気が地だ。実際仕事では怖れられているのに普段は妙に人なつこかったり優しかったり。そのギャップが魅力でもあるのだろう。


　一方、日高　葵は中途入社だ。社長が自ら秘書としてヘッドハントしてきたという鳴り物入り。才色兼備の四字熟語を体現したような容姿と能力。社内の男性陣は軒並み憧れ、逆に女性陣からは羨望と嫉妬の嵐。「葵の上」というあだ名はどちらからともなくつけられたものだ。理知的で洗練された彼女に似つかわしい。
　そんな周囲はまるで気にせず、葵はあくまでもクールにシビアに仕事をこなし社長の絶大なる信用を得ている。一方で数多降りそそぐ誘いは片っ端からはねつけていた。丈も例外ではない。最初から鼻で括ったような応対しかされず、逆にそれが彼の狩猟本能を煽っている。


　つまりゲームだ。もちろんとびきりの美人はそそることこの上ないが、彼にとっての恋愛の位置づけは仕事の合間の息抜きで彩りでスパイス。不誠実ではなくとも恒久的感情を求めない。それを了解してくれるつきあいしかしない。傷つけたり傷つけられたりはまっぴら御免。日高　葵ならピッタリのはずだ。





　チーン。暑さのせいか電子レンジを思わせる音と共にエレベーターが開く。先に下りた丈は向き直ると葵ににっこり笑った。荒々しさが見事に払拭されてしまう。この笑みにやられた女性は少なくない。
「社長によろしく。連絡待ってるよ」


　ぴくっと片眉をあげたもののたいして表情も変えずに会釈する葵を乗せて、ドアは閉まった。丈は肩をすくめ舌打ちする。ゲームをやる気満々なのに相手が一向に乗ってこない。さすがの彼もいらつき始めていた。






　丈が日高　葵にモーションをかけているのは周知の事実だ。それが実を結んでいないことも同じく。いずれ劣らぬ人気者同士の駆け引きにはギャラリーも多くて、部下にも気軽につっこまれる。そういうことは気にせず愚痴も漏らす上司なのだ。


「ウサギ神社に詣でてみたらどうですか？」
　食事をすませたあと、喫煙室での部下の提案に丈はきょとんと呆けた反応をさらした。彼にしては珍しい。切れ者の上司にも知らないことがあったのかと相手は逆に嬉しげだ。


「知りません？　社内じゃ有名ですよ。縁結びの白ウサギさまって」
「白ウサギって因幡の？　大黒様とか」
　丈の答えは年齢の割に渋い。
「有名って社内でそんなもの飼ってちゃまずいだろ」
　さすがに部下が吹き出す。


「違います。れっきとした人間ですって。総務の女子社員なんですけどね」
「社員？」
「ええ。なんでも彼女に相談すると行き詰まった状態が解消されるとか、相手とうまくいくとか」
「嘘くさいな」
「僕は未体験ですから。又聞きの噂です」
　昼食時の軽い話題だ。話半分で聞き流すつもりだったが。


「でもなんで女子社員が白ウサギなんだ？」
「白ウサギと書いて白兎　しらと　って名字なんです。白兎　美羽」
「ほんとに白ウサギなのか。なるほど」
そりゃインパクトがあると思った。噂の真偽はともかく。


「そうそう。その白兎さんと日高さんが仲がいいんですよ」
　ぼつぼつ腰を上げようとしたところで思わぬ情報に驚く。信じられない。
「ほんとに？」
　葵は中途入社の上、男性社員に人気があるのがネックになって女子社員の受けは良くない。秘書は社内では彼女一人ということもあり今も孤立に近い状態だ。


「ええ。いつもクールなのに白兎さん相手だと笑ったり怒ったりすごくにぎやかだって」
「ますます嘘くさい」
　そんな葵はいまだかつて見たことがなかった。





　午後の始業へとタバコをつぶして戻りながら丈の頭はフル回転していた。聞き流す予定の話に俄然興味が出たのは葵がらみだ。神社云々はともかく、ウサギ嬢が葵と親しいならいろいろ聞き出せるかもしれない。膠着状態を脱するヒントがつかめる。


　その後あちこちでウサギ嬢の噂をそれとなく拾った。総じて彼女に「相談」をしたことがある者はおかげで恋がうまくいったと証言している。根拠はないが聞いた当事者に言い切られたら否定できない。
「彼女のおかげであたし結婚できたんです！」

　やっぱり眉唾だ。金はとってないようだが相談だけでうまくいったりするわけなかろうに。反面、彼女自身について尋ねるとこれがまた口をそろえて。
「変わってます」
　どういう意味だろう。まだ彼女に会っていない丈にすると恐れもあるが興味も増す。


　何より肝心の葵との関係が大当たり、懇意にしているのは間違いない。総務と社長秘書。社内での接触はごく限られるが、終業後連れだって食事をするふたりは何度も目撃されている。丈にすればそれだけで理由は十分。「将を射んと欲すればまず」だ。白兎美羽は脳内でウサギでなく馬に変身しかけている。


　かくして週明け、丈はウサギ神社への初詣を試みることに決めた。