白兎美羽　しらとみう　はふと考えた。

カサカサカサ？　ノソノソノソ？
目の前を這っていくミドリガメを表す擬音はなんだろう。


　ペットとしてのミドリガメは珍しくもないがポピュラーでもない、どちらかといえばやっぱりマイナーな方だろうと思う。飼っている家庭の大半は小さな子どもにせがまれたからに違いない。その点では美羽の家も例に漏れず。小学校３年生の夏、夜店で見たミドリガメがどうしても欲しいと母にせがんだのは弟の明石だった。胸がチクッと痛む。


　飼ってみて予想外だったことがいくつか。ミドリガメはずいぶん大きくなること。水棲のはずがいつのまにかカーペットの上を這い回っていたこと。何よりこんなに長生きするなんて。眼を細める美羽の横をカメはやっぱり這っていく。飼い始めて１６年。カメは万年というけれどこの子は寿命はどのくらいなのだろう。あたしは？


　寿の招待状と同封の手紙を読み返す。『絶対来てね。貴佐より』
　文字まで輝いてる。彼女はきっと幸せなのだろう。祝う心は本物なのに、哀しい。





　３年前就職を機に一人暮らしを始めようとした美羽を、大騒ぎして止めたのは父の方だった。淡々とそれを説得した母は代わりに、これはあんたたちの責任よとカメを押しつけた。心配していたのか言葉どおりだったのか、あるいはカメを見たくなかったのか。
　いずれにしても座敷生活に慣れたミドリガメは鳴きもせず、えさを食べる水の中でしか糞尿もしない。手がかからないので文句もない。休みの日にはこうしてひなたぼっこをさせるといい暇つぶしになる。美羽にすれば格好の相棒だった。
　もっとも数少ない友人、日高　葵　ひだかあおい　の意見は異なる。


「そんな言葉もしゃべらないペットばかり相手にしてるから、どっか浮世離れしてきちゃうのよ。彼氏もいないのに恋愛相談されてばかりなんてどうかしてるわ」


　優秀な秘書である葵の言葉に思案はするが長くは続かない。相談と言っても自分は聞いてるだけ。みんな自ら答えを見つけ出していくんだから害はない。得もないけど。ああ、また葵の声が聞こえる。


「そこが問題なのよ。男女問わず恋愛の相談されるんだからチャンスはあるくせに。一人ぐらいものにしたらどうなの？」


　ものにする、ねぇ。寝そべっていた美羽は上半身を起こす。部屋の隅まで行って帰ってきたカメをひょいと手の中に抱え込んでみる。こんな風に誰かを抱きしめるってこと？明石の顔がよぎりブルンと振り切る。じたばたと四つ足でもがくカメを下ろせば何事もなかったかのようにまた６畳間を横切り始める。いいの。今のままで十分。恋なんて。


　再びねそべった美羽の低い視界を休むことなくカメは進んでいく。ガラス窓の向こうは真夏。じりじりと上がる気温はたぶん３０度を越している。週末のあらゆる家事を汗だくですませたあとののんびりした時間。軽くエアコンをかけながらのうたた寝は、美羽をやっと安らかな気分にさせた。カメの這う音はカサカサにもノソノソにも聞こえる。ひねもすのたる海にも似た単調な響きで眠りの底へと美羽を誘った。