郊外の霊園は自然に囲まれ緑豊かで心安らぐ反面、どこを見ても似たような光景になる。明石の墓には結納の前と五月の連休の二度来ていたが、広い上にまだ場所がうろ覚えだった。

なんとかたどりついてもそこに美羽の姿はない。墓場に似合いだからというわけでもないが丈の脳裏では再びゾンビがルイルイダンスだ。自信も勘も空振りした丈をあざ笑うが如く。畜生め。今ならありとあらゆる悪口を述べたてられそうだ。

救いは全くの空振りではなかったこと。誰かが今日、墓参にきたことを花と線香の残り香が示していた。美羽に違いない。清楚な百合がうなだれている姿が美羽に重なる。


どこへ行ったんだろう。ここ以外で丈に思いつく場所はひとつだけだ。それも空ぶったら当てがなくなる。捜索願いという単語がよぎる。だがここに来たなら、あそこにいるかもしれない。

居てくれ。
不安があるならひとりで悩まないで俺にぶつけてくれ。

握りしめた拳を開いて両手をそっと墓に合わせた。会うことのなかった義理の弟。君に美羽の話を聞きたかった。彼女の秘密を教えて欲しかった。


俺が行くまで美羽を守ってくれ。
その後は一生俺が守り抜くから。
頼む。


祈り拝んでから丈は墓を後にした。
うなずいたのか首を振ったのか、百合が首をもたげて揺れた。





霊園と白兎の実家と水族館を地図上でつなぐと平べったい三角形だ。近道がなくてずいぶん時間がかかった。美羽にならって出張のあとは式まで有休をとっておいて正解だったといまさら思う。

もう昼か。朝飯も食べずに車をとばしていたわけだ。腹は減ったが気持ちは腹に無関心だ。食べ物より美羽に飢えている。


平日だというのに駐車場を見る限り水族館はかなりの人出だった。中を探そうかとも思ったけれど、違う気がした。いるとすれば美羽はたぶん。車を置いた丈はその足を水族館の先に広がる海岸へ向けた。朝から怪しげだった空模様。雲はどんどん厚く重く、ぽつぽつと降り始めている。

あの日もそうだった。

丈の胸を刺す痛みは相手への確かな思いだ。間違いない、美羽はここにいる。人工浜に沿って延びる歩道は遮るものもなく、空模様のせいか閑散としていた。右をみても左をみても誰もいない。

いないのか。
いや、あれは。


海に向かって左手の彼方にぽつんと影があった。眼を細めると傘だ。丈は走り出した。早く、一刻も早くつかまえなければ。またどこかへ消える前に。

「み、うーっ！」

尖った先が鮮やかなオレンジ色の傘がくるりとこちらを向いた。深緑を縁取った明るい灰色が美羽の驚いた顔を後光のように囲んでいる。高く頭に巻き付けた髪も寝不足なのか本物のウサギみたいに赤い眼も、愛おしくてしょうがなかった。

ああちくしょう。
ライオンもゾンビもまとめてかかってこい。


彼女までの距離を全速力で走りきった丈は有無をいわさず美羽を抱きしめた。彼女の手から風に飛ばされ、浜辺に落ちて転がっていくのは。

「傘」
「あとで１００万本でも買ってやるから」
「どうせならバラの方が」
「余裕だな」
「……怒って、ますよね？」
「いいから黙って」

一週間ぶりの恋人たちを温かな小糠雨が濡らした。腕の中でみじろいだ美羽がほうとため息を吐いて腕を回してくる。ようやく丈も息をついた。

温もりと感触を確かめてしばし、間違いなく美羽だと納得できた丈は、彼女をひきはがし雨にかまわずきっとにらんだ。

「どういうことだ。何も言わずにいなくなるなんて。不安があるならどうして俺に言わない？　日高くんや源には打ち明けたくせに」
「ご、めんなさ」
「電話でも何も言わなかった。俺はそんなに頼りないか」
「ちが」
「気になることや嫌なことがあるなら」

「嫌じゃないですっ」

口ごもっていた美羽が激しく反応した。ぶんぶんと首を振りながら丈の腕を握りしめ訴える。

「嫌だなんて絶対思ってない。丈さんが好きなんです。丈さんと居られれば幸せなの」
「だったら」
「でも」
丈を射抜かんばかりだったまなざしがふっと途切れて落ちる。

「……あの頃もそうだったんです」
「あの頃って」
「明石が、居た頃」

沈黙が下りた。のろのろと美羽は言葉を継ぐ。

「明石がいて両親がいて。友達と勉強とサークルと。忙しかったり失敗したり怒られたり怒ったり、満ち足りてました。今日は昨日の続きで明日は今日の続き。途切れることない幸せの鎖。言葉にしたわけじゃないけど、そういうものだと信じてました」

明石が死んだ、あの日までは。

「初めて、わかったんです。死に理由はないってこと。悪いことをしなくても頑張ってても、清く正しい人でもおかまいなしに、死は訪れるんだってことが」

道の真ん中に突然、避けようもなく現れる落とし穴みたいに。

「事故の加害者は普通の人でした。真面目で勤勉で奥さんがいて子どもが居て。一瞬のよそ見だった。奥さんと一緒に泣いて謝られて、父も母も私も何も言えなかった。責めるなら自分だと思ってたし」

「美羽」
丈の声音に美羽は首をふる。

「わかってます。丈さんと出会ってやめました。丈さんのおかげで」
みつめてくる瞳が震えている。

「丈さんが時計を進めてくれました。家族よりも一緒にいたいと思った初めての人です」
「だったら」
「だから、怖いんです」
言葉が、染みのように色を感じさせる。灰色のグラデーション。

「明石に待っていた落とし穴がもし、丈さんの前にあったら？　こんなに好きになってもし、あんな風に突然消えてしまったらって」

何を言えばいいのか、丈が迷う間に美羽の瞳が声が潤んでいく。

「馬鹿なのはわかってるんです。でも。明石の時は丈さんのおかげでなんとか乗り越えたのに、丈さんに何かあったら耐えられない。考えるだけで怖くて恐ろしくて……逃げ出しちゃったんです」

うつむいた顔。ごめんなさいというつぶやきはごくごく小さかった。儚かった。自分よりも華奢で小さな肩を丈はもう一度抱きしめた。ぎゅっと強く。


笑い飛ばせばいいのかもしれないが、美羽の恐怖は近しい肉親を失った経験からの切実なものだ。大怪我をすれば人は用心深くなる。同じ場所を痛めぬように注意を払わずにはいられない。まして心は臆病になってあたりまえだ。自分だって母の死のあと、無意識だったが女性と深いつきあいを避けたじゃないか。でも。

「隕石が落ちてくるかもしれない」
「……え？」
「地震で日本が沈没したり」
「はい？」
「恐怖の大魔王が遅刻して今頃降臨するとか」
「何言ってるんですか」

「どれでもいい。明日もし世界が終わるとしたら、君は誰といる？」
「丈さんといます」

間髪を入れずとはこのことだろう。迷いなく答える美羽に丈は深い満足を覚える。

「なら、そうしよう」
「……丈さん？」
「明日のことはわからないんだよ、美羽」

丈の胸にちょうどおさまる彼女の頭、その髪をついほどいてしまうのは丈の癖だ。巻き付けていた三つ編みがはらりとおちる。

「君の言うとおり、俺の前に落とし穴があるかもしれないし、ないかもしれない。俺じゃなくて君の前に仕掛けられているかもしれない」
一瞬強ばった美羽の身体からまた力が抜ける。

「もしかしたら世界が滅亡しても、ふたりだけ生き残るかもしれない。病気もせずにそろって１００歳まで生きるかもしれない」
「……丈、さん」
「失うことを怖れて一緒に生きるのを諦めるのは本末転倒じゃないか」
はっと美羽が丈を見上げた。

「いつか、どちらかが先に渡らなきゃならない橋があるだろう。でも、そこに着くまでは一緒だ」
「橋」
「渡ってからも隣を一緒に歩くさ。川の右と左で。生と死はそういうものだと俺は思ってるんだ」
かみしめるように美羽が繰り返す。

「右と、左」
「ああ」
「明石は、向こう岸を歩いてるのかしら」
「たぶん。笑ってるんじゃないか、心配性の姉さんを」


美羽の耳にいつかの明石の声がした。
『橋はそこに行くまで渡らなくてもいいんだって』

いずれは誰もが渡る橋に、いつ、どこで出くわすかは神様しかわからない。だったらそこまでは。

「……丈さんと、歩きたいです」
美羽のまぶたがじわり、熱く潤む。


「黙っていなくなってごめんなさい」
「まったくだ。やっとの思いで出張から戻ったっていうのに、肝心の花嫁が逃亡だなんて」
丈がおどけてみせる。美羽は泣き笑いの顔だ。

「そうそう、白兎のお義父さんは知らないから」
「ほんとに？」
「お義母さんが機転をきかせてくれて。知ってたら俺はきっとノックダウンしてる。結婚式から逃げ出させるなんて何をしたんだーって殴られてさ」

自分で言いながらありえるなとうなずく。
「そしたら私、すぐ帰ります。帰って叫んでます。立つんだ、丈、って」
美羽も笑わせようとしたのかもしれない。だが丈は真面目な顔になる。

「俺もそうだよ、美羽」
濡れて額にはりついた前髪をそっとかきわける。
「いつだって、どこにいたって駆けつける」
「丈さん」
「死がふたりを分かつまで。いつか分かたれたとしても、心は変わらずそばにいる。きっと」

明石くんみたいに。

囁きは膨らんだ風船をつつく針のようだった。不安をためるだけためこんでぱんぱんだった美羽の心が弾ける。丈に抱きついて泣いた。わんわん泣いた。あの、明石を偲んで泣いた日に劣らず激しく。不安が散って萎む美羽の心を、代わりに丈の深い想いが満たしていった。

まだ雨は止まないけれど、雲はゆっくりちぎれつつある。隙間からのぞく陽はまだ高く、美羽の傘の柄に似たオレンジ色を放っていた。



夕刻、白兎家に美羽を送り届けた丈は、安心したののと何も知らぬ温に引き止められて晩御飯をご馳走になった。

「家族水入らずも今日明日だけなのに、お邪魔してすみません」
美味しい料理を堪能したあと、恐縮する丈に温はきょとんとした顔で言った。

「君も家族じゃないか」
「ほんとよねえ」
何を言ってるのかしらとののが笑う。一緒に笑おうとした丈の胸に、こみ上げてくるものがあった。あわてて立ち上がる。

「ご馳走様でした。今日はこれで」
「もう少しいいだろう」
「お父さん、出張帰りなのよ。丈さんも休んでもらわないとヘロヘロになっちゃうわ」
「ヘロヘロはまずいな」
「失礼します」

「丈さん」
なんとか笑顔で辞した丈を美羽が玄関まで追いかけてきた。心配そうな声だ。靴を履きながら背中の彼女に言う。
「いいご両親だな」
「亀沢のお父さんお母さんだって。私、大好きです」

だめだと思った。ごまかそうとしても彼女にはばれる。ばれてもいいさ。ライオンとゾンビが踊りもしないで声援を送ってるのが見える。

振り向きざまに丈は美羽を抱きしめた。たたきが低い分、いつもより彼女の頭が胸元より高くてあごの下だ。泣き顔なんてあまり見せたくないからありがたい。

「みんなで、幸せになろう」

うなずいた美羽の微かな震え。彼女も泣くまいとしてるのだろう。

「みんなで一緒に」

彼女の呟きが、祭壇の前にも劣らぬ誓いに思えた。



結婚式まであと２日。





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