右足を出して左足をそろえる。
左足を出して右足をそろえる。

言葉で書こうが実際にやってみようが、どっちにしても難しくはない。一歩ずつ前に進む、それだけの動作だ。しかし美羽の父・温にとっては、この上なく悩ましく難しく思えてしょうがない。

娘と歩くバージンロード。
失敗は許されないと気負いまくっている。

「お父さんたら。失敗ってどういうの」
妻がのんびりした問いを投げる。

「決まってるだろうののさん、転ぶとかつっかかるとか」
「ドレスの裾を踏むとか？」
「……それ最悪だよ」

「そうよねえ、自分じゃなくて花嫁に恥をかかせちゃねえ」
「ののさん、プレッシャーかけないで」
「あらごめんなさい」


のんきで大らかな妻にはこれまで幾度も助けられてきた。息子の事故死は温のみならず家族の誰にとっても最大の試練だったが、哀しみながらも日々をきちんと追いかけ、立ち止まり沈み込む温をひっぱってくれた妻。感謝してもしきれない。その強さは自分にはないものだ。

とはいえ、彼女の天然ぶりもまた自分にはないもので。

「踏まなくてすむようになるべくゆっくりした音楽にしてもらえば？　雅楽なんてどう？」
「チャペルなんだよののさん。教会で雅楽はまずいよ」
「あら」

「それに、ゆっくりすぎるとかえって合わせづらいんだよ実は」
「ふうん……やってみたの？」
「いや、その」

結婚三十年も過ぎると夫婦は似てくるらしい。やることまでお見通しだ。否定できない問いを温は笑ってごまかした。

さすがに雅楽は試してないが音楽はいろいろ検討した。しかし結論は結婚行進曲というひねりのなさ。定番が一番らしい。それに歩きやすいからといってたとえば甲子園のテーマ曲を流すわけにもいくまい。

温の頭の中で不意に「栄冠は君に輝く」が鳴り響く。タイトルだけなら結婚式にもふさわしい曲なんだが、いやいや。ぶん、と頭を振って思考を戻す。


「そうそう靴だ」
「靴？」
「なんといっても肝心なのは足元だ。この二ヶ月、折りにふれて黒皮の靴を慣らしてきたんだ。当日はほかのと間違えないように頼むよ」
「黒い皮の靴ってほかにないでしょ」
ののはあくまでも冷静に突っ込んでくれる。

「たまに明石のと間違えて出すじゃないか」
「あら」
さすがに決まり悪そうな顔をした。明石のものは昔どおり、家のあちこちに散らばったままだ。責めるつもりじゃないのであわてて言葉を足す。

「あいつの靴が履けたらいいんだが。さっさと僕より足が大きくなって」
「そうだったわねぇ」
ののが振り返った先は見なくてもわかる。リビングにいつでも飾られている息子の写真。

「明石も楽しみにしてるわよ、美羽とお父さんの晴れ姿」
「おいおい、またプレッシャーだよ。ののさんはほんとに気楽だな」
「あら、嫌なら代わってあげるって言ってるでしょ」
「冗談じゃない。僕の役目を取られちゃ困る」

「丈さんのお父様が披露宴の締めの挨拶よね。男の人っていいとこ取りなんだから」
「そういうつもりじゃ」
「こないだも道江さんとね」
「ちょっと散歩に行ってくる」

なにやら不穏な空気を感じて温はとりあえず逃げを打った。妻の言うとおり特に意図したつもりはないが、結婚式で慣例に従うとどうしても父親の方が表に出ることになる。

だからといって娘との晴れ舞台だ。ののには申し訳ないがここは譲れない。となれば誰にも文句を言わせぬほど立派に役目を果たさなくては。花婿に笑われたら末代までの恥だと意気込む。

美羽を嫁に出したら白兎家の末代はほかならぬ温だ。恥は掻き捨てで良い気がするが、そんな事実は置き去りだ。


「右足から、と」

花婿に対する好意と敵愾てきがい　心を微妙に絡めた温は、上手くないステップを下手なスキップに変換する荒技をやってのけながら、練習に余念がなかった。





そんなこととは露知らず、出張先の花婿は周囲に敵愾心を燃え上がらせ、声を荒げていた。

「冗談じゃない、仕様に一行も書いてないですよ。バグとすら呼べない。それをこんな短期間で対応しろっていうんですか」
「か、亀沢くん落ち着いて」
「大体ですね」

遠巻きにする社員たちもひそひそ声になる。
「キレてるねえ、亀沢さん」
「いつもとは違うキレ方だね」
「無理ないって。ほかの人だったらキレるどころか泣いてるよこの状況」
「いやいやいや、下手すると彼も泣きが入るかも」
「それどころか。鬼に変わるぞ」

鬼が振り返った。
「そこ！　しゃべる暇があったら」
「はいぃいい」
「キターーっ」

常に余裕を失わぬ男の鬼気迫る顔つきに、全員が身の危険を覚え、あたふたと意味なく動き回るのだった。





定時に会社を出た美羽は足を止めた。空梅雨気味の今年だが、今日はぐずぐずと雨模様だ。

美羽の傘は深緑を明るい灰色が縁取って、柄と先だけがオレンジ色だ。雨の日こそ明るい気分になりたいとビビッドな差し色を選んだが、今の気分とはかけ離れていた。挙式に向けて、まるで階段を下りるように下降線の気持ちはどうしてだろう。

傘をよけて空を見上げると、濃淡な雨雲の抽象画は心に広がり続ける不安に似ている。落ちてくる縫い針みたいな雨が細くて鋭い。アスファルトに縫い止められてしまいそうで。

怖い。


結婚式まであと８日。





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