その男が《時代屋》に入って来た時、青山鹿乃は店内にいた。

　鹿乃のファッションには彼女なりの規範がある。
　布地は肌触りを重視する。デザインはゆったりしたものを自分なりに着崩したい。小物は鮮やかな色合いでふんだんに使う。
　モードには敏感のつもりだが、取り入れるのは慎重に、自分らしいひねりを加えるなど。

　結果、鹿乃のワードローブは古着屋からの調達が多い。《時代屋》は中でもお気に入りの店だ。商品の質がいいし、布地やデザインも鹿乃と相性がいい。店主と好みが合うのだろう。

　店主の叶は昔のヒッピーみたいな格好をしている。かまいつけないようで清潔感があるのは、衣料品を扱う店主として大事なことだと思う。
　通い始めて四、五年。鹿乃は立派な常連客で、「バンビ」とあだ名までつけられている。

　「ちっちゃくて、くりっとした目が子鹿そっくりだろ」

　小柄なのは欠点だと思っているので、他の人だったら却下するのだが、叶にはそれを許してしまう雰囲気があった。遠縁のおじさんみたいな。
　今夜の叶はしかし、いつになく疲れた顔をしていた。かろうじて微笑んでくれるのは商売っ気というより、性格だろう。
　「バンビか。久しぶり」
　「どうしたの店長、ひどい顔してる」
　「お客さんに言われちゃだめだな。今日は何か捜し物？」
　話題を変えられても鹿乃は気にしなかった。

　「しばらく来られなかったから、何かある？」
　「新規の入荷は来月の予定なんだが。フォークロア調のワンピがあったような」
　「この辺？　これね、ああ確かに好み」
　柄の異なるワンピースを品定めしていたら、別の声がした。
　「店長はいらっしゃいますか。叶さんは」
　「僕だけど」

　男は三十代半ばだろう、細いネクタイにジャケット姿は普通の会社員にはちょっと見えない。四角い銀色のフレームから、眠そうな目がのぞいている。好みだわ。もうちょっときつさが欲しいけど。
　低いセクシーな声に耳をそばだててしまった。

　「那珂と申します。久賀……林子さんを探しているんですが」

　林子と聞いて、鹿乃の耳はさらにダンボになった。
　久賀林子は汝月の友達で、いまや有名なスタイリスト、それも国木田甲斐の専属だ。東京にいるはずなのに。

　思わずかけようとした声を鹿乃は飲み込んだ。叶の目が剣呑に光ったから。瞬時に消えていつもの表情に戻ってしまう。のほほんとした害のなさそうな目に。
　それだけじゃない。それだけの人なんていないわよと鹿乃は自分を叱った。子どもじゃないんだから、それくらいわからなきゃ。
　叶にしてはそっけなく応えているのが聞こえる。

　「林子？　高校卒業して東京へ行ったきりだが、君は誰だ。週刊誌はお断りだよ」
　「ああ、失礼しました」
　彼があわてて取り出したのは名刺だった。胡散臭そうに、それでも受け取った叶は、一目見るなり驚いた顔になる。名刺と男を見比べながら半信半疑の様子だ。

　「マネージャー？」
　「はい」
　「マネージャーがどうして林子を探してる」
　「彼のために動くのが仕事です。当人は自覚してないみたいですが、林子さんは彼に必要なんですよ」
　叶の目に再び剣呑な光が点った。にらむような目つきは初めて見る。
　
「それは本人たちが決める。マネージャーだからって大きなお世話だろう」
　「ですが」
　「どっちにしろ林子はいない。無駄足だったね」
　無慈悲なほどあっさりと出入り口を示した叶の手が止まった。そちらを見て鹿乃も驚く。
　階段を上ってきたのは汝月だった。

　「こんばんは」と汝月はレジに向かったが、叶は首を振る。いぶかしげに首を傾げた汝月が男に、奥にいる鹿乃にも気づいて、目を見張った。
　表情が叶と似ていた。疲労と憔悴があからさまだ。自分でもわかっているのか、頬をこすりながら近づいてくる。

　「来てたの、鹿乃」
　「何があったの」
　「何も」
　「汝月。あたしに嘘言わないでよね」
　むっとして腕をつかむが、汝月は力なくうつむくだけ。やっぱりおかしい。問いつめようとする鹿乃を、大きな声が遮った。
　「汝月？　由良汝月さん？」
　とびつかんばかりの勢いは、振り向いた汝月がたじろぐほど。

　「は、い？」
　「甲斐のクラスメートの？」
　「……甲斐って」
　「僕は彼のマネージャーです。那珂と言います」
　驚いたのは鹿乃も同じだ。マネージャーって、国木田甲斐のマネージャー？　有名人の名が次々となんなの。
　「マネージャーさんがどうしてここに」
　「林子さんを探しに来ました。甲斐にはやっぱり彼女が必要だと思って」
　「本人が探しに来ければ意味がないだろう！」
　叶にこんな大声が出せるなんて知らなかった。込められた怒りの大きさに鹿乃は怯む。

　「そもそも、彼は不倫スキャンダルの真っ只中じゃないか。イメージが悪くなったから林子を利用するつもりかい。とにかく林子はいない。もう閉店だ、帰んなさい！」
　滅多に怒らない人が怒ると迫力だ。
　「汝月ちゃんもバンビも、悪いが今日は帰ってくれ」
　まとめて強引に押し出され、閉めたドアに鍵までかけられてしまった。ちょっと悲しい。それもこれも。

　「店長の言うとおりだと思うわ」
　那珂は鹿乃より二十センチは高かった。見上げなければ目線も合わないなんて、背が低いのはやっぱり損だ。でも目はきれい。ああムカつく。
　「国木田甲斐の状況がどうであれ、決めるのも動くのも本人の問題。頼まれたならともかく、あなたがやってるのは大きなお世話よ」
　「鹿乃」
　「本人の意志でいなくなったなら、マネージャーが迎えに来て納得するわけない。汝月だってそう思うでしょう」
　きつい口調になったが、那珂は怯まない。

　「甲斐の女性関係については弁解の余地はないが、林子は俺よりあいつと長い付き合いじゃないか。わかってたはずだ」
　「あのね」
　鹿乃はむしろ哀しくなって、那珂をみつめる。
　「わかっていれば傷つかないとでも？　傷ついて愛想尽かしたんだったら、他人の出る幕じゃないんじゃない？」
　鹿乃の非難に那珂が口をつぐむ。

　「那珂さん。二人のことを決めるのは二人だと、私も思います」
　そこで少し言いよどみ、汝月は続けた。
　「私、先日、甲斐に会いました」
　「え？」
　「ええ？」
　期せずして那珂と声をそろえてしまった。
　那珂の顔は急に険しくなる。

　「あいつ、俺とのラインもメールも通話も無視してる。この非常時にどういうつもりだ、俺はあいつのマネージャーだぞ」
　「ちょっと、汝月を責めるのはお門違いでしょ」
　詰め寄る那珂から汝月をかばいながらも、一変して怒りを閃かせる顔に惹きつけられた。縁のありそうな人じゃないからやめなさい。さっきから自分を叱ってばっかり。

　汝月の目の下のうっすらとした隈も気になる。
　鹿乃の心には様々な焦りが錯綜していた。





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