夜空に雲が散らばっている。

　月は追われるように現れては消え、消えては現れる。
　汝月の迷う気持ちそっくりだ。

　康平に送ってしまったメールを、くよくよ考えてしまう自分が嫌だ。
　本当のことを言えば良かっただろうか。
　嘘を言ったわけではない。仕事のあとで私用がある。まさしくそのとおりなのだが、私用について話せなかったのだ。


　あの夜、倒れた林子を、叶の助けを借りて、汝月は知り合いのところに運び込んだ。
　野呂医院はよくある内科、産婦人科の個人病院だが、田舎にしてはスタッフの口が固い。
　院長の野呂には汝月の母が十年前から世話になっていた。義父の古い知り合いだと聞いている。その縁で頼み込んだ。

　「すみません先生。高校時代の旧友なんですが、妊娠しているらしいんです」

　多くを聞かずに引き受けてくれた野呂は、診察を終えると、叶と汝月に説明してくれた。
　「妊娠１０週だね。倒れた原因は貧血とストレス。妊婦にあるまじきってやつだな」
　白いまばらなひげをひっぱって口を尖らせる。優しい人だが、愚か者には厳しい。
　「産むつもりなのか？」

　問いの真意に絶句した。産まないと言う選択肢があるのだと気づいて、口の中に苦みが広がる。
　汝月の隣では叶が目を見開いている。林子が突然戻ってきただけでも驚きなのに、妊娠とは想像もしていなかったようだ。自分がしっかりしなくては。
　唾と一緒に苦みを飲み込んで、汝月はうなずいた。

　「ちゃんと聞いたわけじゃないんですが、たぶん」
　「だといいがな。二、三日預かるから、その間に本人に確かめよう」
　「先生。あの子、いわゆる有名人で。もしかしたら週刊誌とかご迷惑が」
　叶が年長者らしく気遣わしげな顔になるが、野呂は意に介さなかった。
　「うちは病院だ。いらぬ奴は入れないよ。他に問題はなさそうだし、落ち着けば出られる」
　「よろしくお願いします」
　汝月は叶と一緒に頭を下げた。

　林子は今日の昼間、退院した。強引に意志を通したようだ。
　「病気じゃないから」
　「だったら身体を大事にしろ」
　野呂に一喝されてしょげていたと、叶に聞いた。そのおかげか、戻ってからはおとなしくしているという。

　「産むと言っとったよ」
　退院には付き添えなかったので、今夜、改めて礼を言いにいった汝月に、野呂は話した。
　「絶対産むそうだ。ひとりで育てると息まいとった。あんまり力むなと叱ったがな」
　「そうですか」
　「友達なら助けてやれ。なんかあったら連れて来い。人に頼るのが苦手そうだから、無理せんともかぎらん」
　「はい。ありがとうございます」
　「いらん世話だろうが、相手には知らせんのか」
　汝月は答えられなかった。
　そうして帰り道もくよくよしている。

　林子は甲斐に知らせないでと言った。承知したわけではないが、林子が倒れたので後回しにしてしまった。
　汝月も仕事があるし、林子だけにかかりきることはできない。このままでは康平にも……、立ち止まるとしゃがみこみそうだ。

　林子のことを康平に話していないのは、妊娠のことを隠す自信がないから。甲斐はほんとに知らないんだろうか。産んで育てるのは簡単じゃない。林子だけが背負うのも納得がいかない。
　でも、甲斐はどこにいるんだろう。

　先日、康平の家を尋ねてきたらしいが、会ったのは母の真緒だけで、それきり康平にも連絡がないという。どこに雲隠れしたのか、こんな田舎で。

　そうか、ここは故郷だ。
　甲斐が父親と仲が良かったのを思い出した。
　考える前に汝月の足は向かっていた。一度だけ訪れたことのある、甲斐の実家へ。


　うろ覚えだったが、なんとかたどり着いた。手入れのされているマンションは十二階建て。大きさの割に古くてオートロックなどない。他人事といえ心配になる。大丈夫なのかしら。

　入ろうとした時、外側からカチカチカチと音がした。苛立たしげに繰り返す軽い響き。何だろう。
　瞬間、小さく火が見えた。マンションの外壁に沿った横道で、キャップをかぶった男がたばこに火をつけ、電柱によりかかってふかす。
　六年ぶりなのに、なぜだかわかった。

　「甲斐」

　はじかれたように振り向く。こっちの顔がわからないらしい。
　「誰だ」
　険しい声だ。身構えた様子に焦った。
　「なつき。由良汝月。高校で一緒だった。覚えてる？」
　近づきながら早口になる。スキャンダルで猜疑心も大きくなっているだろう。わかるかしら。
　「……汝月？　マジ？」
　声音はまだ半信半疑だ。街灯でようやく互いの顔がわかるようになると、彼は驚きの表情になった。

　「……やっぱりだ。綺麗になっちまって、信じらんねえ」
　両手で頭を抱えしゃがみこむ。
　汝月はというと、そんなことを言われようとは夢にも思わなかったから、どうしたらいいのかわからない。
　「……のためか」
　「え？」
　「康平のために綺麗になったんだ」
　頬が勝手に熱くなる。暗がりで良かった。居たたまれない。何か言わなきゃ、何か。

　「……結婚のこと、桜川のおばさんに聞いたの？」
　しゃがんだままで甲斐がボソボソ話す。
　「おばさん全然変わんなくて、油断した。山ほど並べられた手料理に舌鼓打ってたら爆弾落とすんだもんな、あの人」
　「爆弾はないでしょ。そんなに意外だった？」
　「……六年て長えんだって思った」
　甲斐が立ち上がる。
　声にこもる雰囲気が重くて、敢えて軽く長そうとする。

　「自業自得よ。一度も戻ってこないんだから。実紀と洋輔のことも聞いた？」
　「聞いた。まさかって驚いて帰ってきたら、もっと驚かされちまった。風が吹いて桶屋がもうかるって感じ」
　「桶屋って誰が」
　「康平に決まってる」
　「ええ？」
　ちんぷんかんぷんな台詞を、甲斐は意に介さず続けている。
　「康平が残って洋輔が行った。なあ汝月。もしだぜ、もし、俺がここに残ってたら、どうなってたかな」

　何が言いたいのかわからなかった。わかりたくなかった。甲斐が知らないことを汝月は知っているからか。
　不意に腹立たしくなった汝月は、それでも声を落として、甲斐にただした。
　「林子とは別れちゃったの？」
　甲斐の表情が変わった。目が爛々と光りだす。腕をつかまれ顔をしかめる汝月にも気づかない。

　「林子に会ったのか？　どこにいる？」
　「ちょっと、甲斐ったら、痛い」
　「まさかあいつもこっちに」
　「離して」
　「汝月を離せ！」

　突然だった。
　飛び込んできた人影がふたりを分け、後ろにかばわれる。
　背中でわかった。甲斐がため息のように呼ぶ。

　「こーへい」

　甲斐と康平、そして汝月。
　三人そろうのも、六年ぶりだった。





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