遅れた。
　高速を車でとばしながら、洋輔は焦っていた。

　やっぱり先に行かせるんじゃなかった。心の端をじりじりと焼かれるような気がする。

　先日のブライダルフェアといい、結婚式にこうも振り回されるとは思わなかった。電話とメールですむと高をくくっていたのが甘かった。
　加えて、実紀が思ったよりも入れ込んでいる。母や義姉たちの熱気が感染ってしまったようだ。それ自体は喜ぶべきだろうが。

　「洋輔は忙しいんだから、私がやっておくわよ」
　素直に頼むと言えればどんなに楽だろう。
　「いや、二人の式だから二人で決めたい」

　それも本心ではあるけれど、本音はもっとねじれて黒い。実紀を目の届かないところに、故郷に、ひとりで行かせたくない。それだけだ。

　きっと実紀にはバレている。洋輔に逆らうわけではないが、従うわけでもない。
　今日も報告はあっさりラインだった。

　『早めに仕事が終わったから、先に行ってる』

　軽やかで自由なのが彼女の身上だ。咎められようか。

　だから、やるべきことを全速力で片づけ、こうして追いかけている。心を焼かれながら。
　結婚式と披露宴の打ち合わせに向かうというのに、幸せや平穏とはほど遠い、荒れる海の上の小舟のような心地だ。

　いつになったら不安はなくなるのだろう。
　式を挙げたら？
　多くの人に披露したら？
　籍を入れたら？

　形でないのはわかっていても、他に術を知らない。心と想いはとっくにすべて明け渡している。

　フロントガラスの向こう、稜線に陽が沈んでいく。捉えられない女ひと　のようだ。
　手に入れたと思ったけれど、この焦燥感はずっと続くのだろうか。勘弁して欲しい。

　ハンドルを握りしめ、没する橙だいだい　色をにらみつけると、アクセルを踏んだ。
　洋輔の内心の叫びのように、エンジンがブワゥと吹いた。

　グランドオークに着くと、駐車場から乗ったエレベーターを急かすようにして、ブライダルの受付へ向かう。

　そこから出てきた二人連れに、心臓が止まった。時間が巻き戻ったような錯覚に襲われる。
　康平と実紀。
　ほんの数年前まで、数え切れないほど見た光景だ。

　大きな木に寄り添う、可憐な花のようだといつも思っていた。奪い取りたくて、どうしたら手に入るだろうと思い悩んだ。
　かつての日々がどっと押し寄せる。過去と現実がごっちゃになってしまいそうだ。

　実紀が笑っている。
　あんな風に洋輔に笑ってくれたことがあっただろうか。

　握り込んだ爪が手のひらの肉に立つ。その痛みが警鐘になる。
　落ち着け、落ち着くんだ。
　気づいたのは、康平が先だった。

　「洋輔」

　ぱっと振り向いた実紀の目には、紛れもない狼狽があった。瞬きで消えたあとは、微笑みの仮面だ。

　「遅かったのね。打ち合わせ、終わっちゃったわ。何か食べようと思ってたの。康平も夕食まだなんですって。洋輔は？」

　饒舌だな。本心をごまかそうとしているのかと邪推する。

　信じていないのだと、洋輔は悟った。
　彼女が自分と結婚することも、自分と生涯を共にすることも、彼女にとって自分がただひとりであることも。
　信じていない。
　彼女の心にはいまだ康平がいて、康平が現れると自分の存在はかすんでしまうから。

　実紀も、康平も、輝く恒星だ。
　自分は彼らの周りをぐるぐると回っているだけ。
　それでも恋しい。
　だから苦しい。
　苦しみを糧にまた回り続ける。

　洋輔は康平を見た。
　手放した男。愚かな男。
　そう思った自分こそが、誰よりも愚かだ。わかっている。

　自分は衛星だ。一生、彼には勝てまい。
　ならせめて、負けまい。
　実紀さえそばにいるなら、彼に向けた侮蔑を一生かぶっても、後悔しない。

　手のひらに爪をたてたままで、洋輔は実紀に近づき、康平との間に割り込んだ。
　「洋輔」
　実紀の声も背中で遮り、康平を睨む。
　けれど康平は淡々と尋ねてきた。

　「実紀にも聞いたんだが、甲斐がどこにいるかわかるか？　どうしても捕まらないんだ」
　「……甲斐なら、実家にいる」
　「ほんとに？」
　「昼間、話したばかりだ。親父さんが調子悪いらしくて」
　「わかった。行ってみる」
　「今から？　康平、夕食は？」
　実紀の声に立ち止まったものの、振り向いた康平はやっぱり穏やかだった。
　「おまえたちのための二次会だ。幹事がしっかり役目を果たさないとな」

　片手を上げてきびすを返す。
　後ろ姿を実紀が、実紀を洋輔が見つめる。

　衛星は回る。
　離れられない。
　たとえ厭われようとも。





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