（言っちゃった）

　誰にも告げていなかった事実を、初めて口にした、その相手がよりによって汝月だったことに、林子が一番驚いていた。

　久しぶりなのに、汝月だとすぐにわかった。薄い化粧。口紅もヌーディーな色合いで、それでいて振り返らずにいられない。
　今も昔も汝月は綺麗だ。

　対して自分はきっとひどい顔をしている。寝不足の上につわりの顔なんてぞっとしない。
　ほんとうに、よりによって恋敵に見せる顔じゃないわ。

　浮かんだフレーズにはっとした。
　恋敵。
　私にそんな対抗心があったんだ。
　おかしくなって、無意識に腹に手を当てる。
　違うのに。敵なんかじゃない。この子も、汝月にはなんの関係もない。彼と自分の問題なのに。
　女だなと自分を嗤った。

　ただの成り行きだと、恋じゃないと言い聞かせてきた。恋なんてしないつもりだった。
　現実は汝月に嫉妬している。今も彼に執着している。
　これが恋でなければ。何だというの。
　母のことを責められない。私だって醜い。
　嘲笑を押しのけ、こみあげてきたのはまたしても吐き気だった。
　バスルームに駆け出す。
　「林子！」

　なんとか今度も間に合った。便器にしがみついて嗚咽を繰り返す。吐くものなんてありはしないから、涙がにじんで苦しいだけだ。大きく息をついて床に座り込んでしまう。
　情けなくて惨めだった。
　このまま泣きじゃくることだって、今ならできそうだ。

　「……林子？」

　後ろから呼びかけられて、口元にはやっぱり嗤いが浮かぶ。
　彼女の前では泣けない。

　あんなに仲がよかったのに。あんなに頼りになったのに。好きだったのに。
　ううん、今も好きだ。彼女は何も変わっていない。変わったのは、悪いのは自分の方だ。
　彼が汝月を想い続けていると、知っていて求めた愚かな自分。

　背中に立つ汝月の気配に、ふり仰いだ。気遣わしげな表情、優しげな目。長い髪。
　ほんとうに、なんて綺麗なの。彼女という存在が今の林子には棘だ。
　彼が想うひと。彼が請い願うひと。

　どうしてあなたなんだろう。
　問いは自分に跳ね返る。どうして彼なの、と。
　嘆いてもわめいても叱っても、動こうとしない天秤ばかりは自分も同じ。

　「林子。ここは冷えるから」
　汝月に背中ごと抱え上げられ促された。ゆっくりした足取りと、包み込まれる暖かさに、棘が萎える。

　気がゆるんだのがいけなかった。いつのまにか泣いていた。ベッドに腰を下ろしても涙は止まらない。
　隣に座った汝月は黙って背中をなでてくれる。その肩に頭を預けて、林子はひたすら泣いた。

　時雨のような涙が止んで、丸めたティッシュをたくさんゴミ箱に放り込んでから、汝月が聞いた。
　「病院には？」
　「一度だけ。間違いないって」
　「……彼には？」

　自覚しているよりずっと、自分と彼は有名になっている。当惑しながら首を振る。
　「困らせるだけだし。困る顔なんて見たくないし」
　本音だ。
　「もう会うつもりないから、汝月も黙ってて」

　ふと落ちた沈黙に何か感じた。
　林子が見ると、ためらいつつ汝月が口を開く。
　「あのね。実紀が結婚するの。洋輔と」
　「……え？」
　耳を疑った。
　実紀と、洋輔？　実紀と、康平じゃなくて？
　思いがけないニュースに頭が回らない。

　「その二次会を兼ねて、康平と私が同期会の幹事を頼まれたの」
　「康平と、汝月に？」
　脳内にはクエスチョンマークが乱舞している。ワルツも踊っている。
　「林子にも、連絡を取ろうとしてたのよ」
　「私に、も」

　実紀と洋輔。康平と汝月に、自分とくれば。
　嫌な予感がした。
　こっちに戻れば会わずにすむはずだったのに。

　絶妙のタイミングで汝月の携帯端末が鳴った。ラインだ。指を滑らせた汝月が、眉間にしわを寄せて林子を見る。
　嫌な予感がクレッシェンドで大きくなる。

　「康平の実家に甲斐が来たらしいわ。すれ違ったって」
　それはつまり、彼がここに、楢市内にいるということだ。
　鼓動がどくん、と跳ねた。

　覚悟が足りない。
　息も足りない。
　呼吸しなければと思うほど、胸が詰まって苦しくなる。
　「りん、こ？」
　汝月の声が慌てふためく。その腕に縋ったが、ろくに声も出やしない。

　「……か、いに言、わな、いで」

　お願い、とも、ごめん、とも続けられずに、林子の意識は暗転した。





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