その日、汝月が《時代屋》を訪れたのは、仕事帰りにたまたま前を通りかかったからにすぎない。

　いつもそれなりに客がいる店だが、誰も見あたらなかった。店主がひとり、ぼんやりとレジで腕組みしている。
　「こんにちは」
　「はい、いらっ……汝月ちゃん？」
　こっちを見て飛び上がった彼に、汝月は目を丸くした。
　どうしたんだろう。

　客としてここに来るようになったのは、大学に入ってから。古着といっても状態の良いものばかりで値段は安い。噂どおりだ。
　「由良汝月と言います。高校時代、林子からよくここのお話を聞いていました」
　白黒映画で見るヒッピーに似た風情の店長は、ぱあっと相好を崩した。
　「君が汝月ちゃんか。よく来てくれたねえ」
　卒業以来、林子はここにもろくに連絡をよこしていないらしいが、その分、昔話に花が咲いた。

　それから、思い出したように店を訪れるようになった汝月だが、こんなに驚かれたことはない。
　のほほんとしたゆるい雰囲気の人が、レジ台から飛び出してくる。荒っぽく手首をつかまれて怯んだ。
　「来て！」
　「え？　うわ」

　汝月の仕事用の鞄は重い。書類や色見本や筆記用具や、とにかくなんとかのポケットみたいに、あらゆる物が詰まっていて、ずっしり重い。
　それを肩に担いだ状態で引っ張られ、バランスを崩しそうになる。
　転ばずにすんだのは運が良かったが、その僥倖にも店長は全く気づいていない。

　「頼むよほんと、疲れてるだけならいいけど、ちっとも起きてこないし、ろくに食べないし」
　「店長」
　「顔色悪いし、吐いてるみたいだし」
　「店長」
　汝月の当惑をよそに、のべつくまなくしゃべりながら、汝月を連れて店の隅のドアを出る。初めての場所だが、上への外階段があった。店長はそこを上ろうとする。
　「店長！」
　このペースで引っ張られると危ない。汝月は踏ん張って手を振り払う。ようやく彼が振り返った。
　「何ですか？　わけがわかりません」

　目が覚めたみたいに彼は瞬きする。汝月の形相に気づいてあぁと息をつき、足をかけていた外階段にどさっと座り込んだ。
　力が抜けたようだ。こっちがあわてる。
　「店長？」
　「……ごめん、すごく困ってたんだ。汝月ちゃんが天の助けに思えて」
　「何があったんですか」
　彼は汝月より背の高い人だが、座り込んでいるので、立っている汝月よりも下に顔がある。その眉が困り切った八の字を描いている。

　「林子が戻ってるんだよ」

　驚くのは汝月の方になった。思わず階段の上を見る。目を戻すと彼がうなずく。
　「居るのはいいんだけど、具合が悪そうで。一昨日の晩から籠もって出てこないんだ」
　「立てこもり？」
　店長が情けなさそうにくしゃりと笑った。子どもみたいだ。
　「どっちかっていうと引きこもり。様子、見てやってくれないかな。心配で。頼むよ」

　そりゃあ汝月だって心配になる。
　ずっと音信不通で、この数日はなんとか連絡を取ろうとして、連絡がとれなかった親友だ。
　店長ならもしかしてと淡い期待を抱いて来たのだが、まさかここにいるなんて。心の準備が足りない。
　おまけに引きこもり？

　「……どんな風です？」
　「林子は林子だよ。具合が悪いのをのぞけば。ほら、こっち」
　先立つ彼をにらんだ。手首はつかまれてないものの、心情的にはさっきと変わらない気がする。こんなに強引な人だったっけ。仕方なく階段を上る。
　彼はもうドアをあけ、声をかけている。
　「林子？　どう？」
　返事はない。振り向いた彼は哀願に近い顔で、手まで合わせてくる。
　汝月は中に入るしかなかった。

　窓はあるのにカーテンは閉め切られていて、薄暗かった。シンプルなビジネスホテルを思わせる室内には、ベッドと小さめのダイニングテーブルに小さなキッチンがついているが、どこも使った様子がない。
　ベッドのスタンドライトだけが点いていて、こんもりと人が横たわっているのがわかる。
　「林子？」
　やっぱり答えはない。ためらいながら汝月はベッドまで近づいた。

　六年ぶりの親友の顔は、不思議なほど、変わっていなかった。
　化粧をしていないすっぴんのせいかもしれない。目を閉じて眠る顔は、驚くほど幼さが残る。

　その顔は苦しげだった。息が浅い。眉間に皺を寄せ、伸ばした手の指が毛布をわしづかみしている。確かにおかしい。
　ぱっと目が開いた。気配を感じたのかもしれない。こちらを見た目がゆっくり焦点を結ぶ。
　「……なつき」

　なんて言えばいいのかわからなくて、汝月はそっとうなずいた。
　「久しぶりね、林子」
　夢だと思っていたのかもしれない。辺りを見回してからもう一度汝月を見上げてくる。その目が見開く。
　「ほんとに？　汝月？」

　そこで表情が変わった。手で口を押さえてベッドから飛び出して行く。唖然とする汝月の耳に、バスルームからだろうか、水を流す音が届いた。
　やっぱり放っておけない。

　よろよろと戻ってきた林子は、無言でベッドに腰を下ろした。目の下に隈までできている。汝月は意を決した。
　「病院に行きましょう。店長も心配してるわ」
　だが林子は首を振った。
　「病気じゃないから」
　「どうしてわかるの。そんな顔して」
　「どうしても」
　「林子」
　「妊娠してるだけ」

　言葉を失った汝月を林子が見返す。まなざしは静かでも、奥には昏くら　い何かが揺らめいている。
　知らない他人のようだ。何があったんだろう。

　ふたりの間に横たわる年月を感じて、汝月は見つめることしかできなかった。





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