《七剣出版》

　甲斐がスマホで引くと、あまりない名前だからか、一発でホームページが出てきた。住所と頭の中の地図に照らし合わせる。
　あそこが近いか。

　バイクとメットを昔の知り合いに預け、ニットキャップで顔を隠して、甲斐が《七剣出版》までたどり着いたのは七時半だった。
　遅すぎたかと思って見上げると、ビルの二階には煌々と灯りが点いている。
　「いるかな」

　しかし入るのは躊躇した。康平に会いに行くのとはわけが違う。初恋の相手は幻みたいなものだ。
　初恋。
　確かにあれはそう呼べる。思うだけで胸が痛み、近くに寄れば動悸が高鳴る。顔を見るだけで幸せになれた。

　その汝月が、康平の嫁さんになる。
　知った瞬間の動揺が収まりきっていない。ツケが回ったんだな。仲間と全く連絡をとらなかったツケが。林子がそばにいたせいもある。

　林子は、知ってたんだろうか。
　今の自分を見たら林子はさぞ笑っただろう。手も出せなかった初恋の、当然の結末に動揺している自分を。

　手なんか出せなかった。
　汝月は綺麗で、綺麗すぎて、そばにいるので精一杯だった。ろくでもない自分なんかが触れちゃいけないと思っていた。
　触れて壊したくない。触れられないなら離れた方がいい。
　そうも思った。

　驚きはしたが、康平なら似合いだ。あいつほど信用できて頼りにできる奴はいない。
　だったらどうしてここに来たんだ。康平に会いもせずに。
　……やっぱり帰ろう。
　背を向けようとした甲斐は、目的のビルの階段を下りてくる人影に気づいた。

　「遅くなっちゃったな、由良」
　「まだ早いほうですよ、草薙さん」
　汝月だ。間違いない。もうひとりは上司か同僚か。
　「式の用意とか忙しいだろ」
　「プライベートです。気にしないで下さい」
　「若い子の台詞じゃねえぞ」
　六年ぶりに見る汝月に、甲斐の目は釘付けになった。

　長い髪。細面で華奢な体。柔和な表情も昔の面影そのまま、もっと繊細になった。もっと綺麗になった。
　康平のために？
　胸に針が刺さる。小さい針が無数に。
　「それどころじゃないんです。友達の式が迫ってて」
　「お人好しにもほどがあるってもんだ。人の式にかけずり回ってる場合か」

　甲斐が潜んでいる路地の前を、汝月が男と通り過ぎていく。伸ばしそうになる手を危うく握りしめる。
　「だって仲間のお祝いだし」
　「人のこともいいが、由良もちゃんと祝ってもらうんだろうな」
　「私はいいんですってば」

　無意識に甲斐は路地から出て、遠ざかっていく後ろ姿を食い入るようにみつめた。ちくちくした無数の痛みは、もっと鋭い痛みに代わっている。
　汝月。
　耐えきれなくなって踏み出そうとした肩を、ぐっと捕まれて驚いた。

　「やっぱり甲斐だ。みつけたよぉ」
　「誰だ、離せよ」
　知らない女声に舌打ちする。こんなところでファンに見つかるとは。手を払うと今度は腕を取られる。
　「冷たいねえ、久しぶりだってのにぃ」
　「離せ。おまえなんか知らねぇよ」
　再度振り払って行こうとしたら、一転、罵声が飛んだ。
　「お高くとまりやがって。ロックスターがなんだってんだ。母親の顔も忘れたってのかい！」

　凍り付いた。
　振り返りたくないのに、体は勝手に振り返る。

　派手な髪。派手な化粧。若い頃なら見られたかもしれないが、いい年になってきたら見苦しい。真冬にいかにも水商売風のドレスは寒々しさしか感じない。
　十何年ぶりかで見た母は醜かった。昔よりもさらに。
　悪夢の幻だ。
　嫌悪感が目に出ていたのだろう、母の目が般若のように吊り上がる。
　だが、詰め寄ったのは甲斐の方だった。声を低める。

　「なんでここに、この街にいるんだ」
　「あたしの勝手だろ」
　「まさか親父のとこに」
　「とっくに他人だ、行くもんか」
　「俺だって他人だ。話しかけるな」
　「いばるんじゃないよ。不倫でテレビ出てる奴が」
　見たくもない顔に顔をつきつけ、思い切りにらみつけた。
　「おまえが俺に説教できる立場か。二度と俺に近づくな」

　言い捨て、歩き去る背中に、罵倒が追いすがる。
　「なんだよ！　あんたが生きてんのは私のおかげじゃないか！　儲けてるんだろ！　ちょっとぐらい分けてくれてもいいじゃないか！　分けてくれよ！　金がいるんだよー！」

　つまり金かと、心がさらに冷えた。
　結局それか。
　変わらないんだな、あんた。

　キャップを深くかぶって歩き続けた。汝月の姿はとっくに見えない。どっちにしろ、今、汝月に会うなんてできない。康平にだって同じだ。
　誰にも会いたくないと思う一方で、浮かんでくる顔がひとつだけあった。
　林子の奴。
　なんで契約を解除したんだ。どこに行っちまったんだ。

　さまよっていた甲斐の目が、《時代屋》という看板をとらえた。
　どこかで聞いた……そうか。昔、林子がずっとバイトしていた店だ。甲斐は行ったことはないが、学園祭で林子が作り出す《ナラスタイル》は、この店と服が元だったはずだ。

　鮮やかなファッションショー。
　それを仕切る林子。
　どうしてこんなに思い出すんだろう。このタイミングで。

　汝月も母も、甲斐にとっては良くも悪くも過去の幻だった。
　林子は違った。
　言い争った時も抱きしめた時も笑い合った時も、彼女はいつだって、現実として自分のそばにいた。

　現実が消えてから、俺の生活は幻ばかりだ。
　悪夢ばかりだ。
　『人のせいにしないでよ、バカ』
　まさしく林子ならそう言うだろう。怒鳴り声が聞きたい。

　《時代屋》の店主は林子の知り合いのはずだ。寄っていこうかと一歩踏み出し、それから甲斐は思い直した。
　先に行かなきゃいけないところがある。

　携帯端末を取り出しながら、きびすを返した。
　「……もしもし、親父？　悪い。これからいいかな」

　遠ざかる店の二階に林子が眠っていることを、甲斐は知らなかった。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　next　＞＞