真緒が、桜川書店のシャッターを下ろしに通りに出たのは、夕方の六時だった。

　見上げると空はすでに暗く、澄んだ空気が星の光を届けてくる。通勤客は前しか見ずに、足早に後ろを通り過ぎるだけ。
　昔に比べると書店に来る客は極端に減った。夫が生きていたらさぞ嘆いたと思う。

　それでも夫が突然早世してから、子どもふたりを抱えてなんとか生きてこられたのは、この店のおかげだった。ぼつぼつ考え時かもしれないけれど。
　鍵をもつ自分の手を見下ろす。五十間近の女の手だ。

　この店をやめたら自分に何ができるだろう。九十年、百年とまで言われるようになった人生、まだまだ先は長い。長すぎるくらいだ。遊んでいられる身ではないし、子どもたちの迷惑になりたくはない。
　自分に自分が重い。

　ため息を殺してシャッターを下ろした時だった。

「こんばんは、おばさん」

　やけに通る声にふりむくと、背の高い青年がいた。
　ライダーズジャケットにブーツ。手にはヘルメット。いかにもライダーなスタイルがよく似合う。切れ長の目と笑みを浮かべた口元の、どこかあか抜けた顔に見覚えがあった。

　「……甲斐くん？」
　「覚えてるんだ？　嬉しいなぁ」
　屈託のない笑顔に驚き、呆れる。覚えるもなにも。あわてて周囲を見回し、声を潜める。
　「あなた、大丈夫なの、こんなところに」
　ぺろっと舌を出す様子は、子どもみたいだ。
　「迷惑だったかな。康平に会いに来たんだ」
　「迷惑なもんですか。とにかくこっち。うちに入んなさい」
　裏手の玄関へ、引っ張るようにして彼を連れていった。

　世間を騒がせるロックスターも、真緒にすれば息子と仲の良かった級友でしかなかった。
　つまり息子みたいなものというわけで、甲斐を居間でくつろがせ、こたつの上に手料理を並べる。

　康平は人に恵まれるタイプで、学校時代はひっきりなしに友人が家に出入りしていた。成人してからはさすがにそうした機会は減ったが、それでもなくなったわけではない。
　甲斐は高校時代、ちょくちょく顔を出していたし、来る度に真緒の料理をほめちぎっては食べてくれた。久しぶりで真緒もつい張り切ってしまったかもしれない。
　その甲斐はまさしくあった。

　「うまい。ほんとうまい。おばさん、前より腕あげたね」
　「何言ってるの。スターになったんでしょ。すごいごちそうばかり食べてるくせに」
　「んなことないって。俺は高い料理よりあったかい料理の方が好みだし。おばさんの料理はいつもすげえあったかい」
　「いっつもそう言ってほめてくれたわよね。変わらなくて嬉しいわ」
　「そりゃこっちの台詞」

　ビールも飲まず、ご飯茶碗片手に、すごい勢いで料理を平らげていく。お世辞でも嘘でもないようだった。気持ちのいい食べっぷりだ。
　並べた料理を全部と、ごはんを三杯、味噌汁を二杯おかわりして、ようやく甲斐は箸を止めた。
　「ごちそうさん」
　律儀に手を合わせたと思うと、そのまま後ろへ大の字に倒れてしまった。
　「あー、食った食った。腹一杯」
　「食べたわねえ」
　「東京からバイクで休みなしですっ飛ばしてきたもんだから。その前も缶詰状態で、ろくなもの食ってなかったし」

　食べ終えた食器を流しへ運び、茶を入れた急須と湯飲みを運んできて、真緒もこたつに座った。
　寝転んで膨れた腹を撫でている甲斐に、茶を入れる。
　「お茶どうぞ。起きて」
　「うーん苦しい」
　「お茶で均しなさいって」
　「へえい」
　もたもたと、どこか楽しげに起きあがった甲斐は湯飲みを両手に抱えた。ずずっとすする。

　「あー、おばさんちはお茶もうまい」
　「おかしな子ねえ、贅沢できるんでしょうに」
　「贅沢がしたいわけじゃないし」
　「不倫は？」
　「あいた。やっぱりばれてる」
　「確かに美人さんだけど。好きだったの？」
　「別に。据え膳……いやその」
　面目なさそうに口ごもるので、真緒もつい説教じみた口調になった。

　「ちゃんと相手を見つけなさいよ。甲斐くんならよりどりみどりでしょう？　うちのだって結婚できるくらいだから」
　「へえー……んぐっ？　あっ、あちちっ」
　なんとか湯飲みは置いたものの、熱い茶をまともに飲んだらしく、身悶えしている。あわてて真緒が持ってきた水を飲み干し、ようやく息をつく。
　かと思ったら、がばっと前のめりになった。

　「結婚？　康平が？　おばさんマジ？」
　「あら。聞いてなかった？　連絡取ってないの？　じゃあ今日はなんで」
　「俺は洋輔に頼まれて、康平が二次会の幹事だっていうから」
　「……そうなのよ。あの子も自分のことそっちのけで。汝月ちゃんといい、ふたりして人が良すぎね」
　「汝月？　なんで汝月」
　「……ほんとに連絡とってなかったのね。康平の相手って汝月ちゃんなのよ」

　ぱたりと会話が止んだ。
　甲斐の目が丸く大きくなって、口をぽかっと開けた顔は息をしてるんだかしてないんだか。こんなに驚くとは思わなかった。

　「甲斐くん？　大丈夫？　驚きすぎ」
　「……俺、いや、うん。びっくりした」
　「汝月ちゃんと康平は大学からつきあってるのよ。もう三年、四年かしら。結構経つわ。でもまあ甲斐くんだってぜんぜん連絡よこさなかったでしょ、話す機会もなかったわね」
　「俺。うん。まあ」
　「汝月ちゃんは大学卒業してから、地元の出版社に勤めてるの。小さいけどしっかりしたとこで」

　流しに戻って洗い物をしながら、問わず語りする真緒を、甲斐の低い声が遮った。
　「なんて」
　「え？」
　「なんて会社？」
　「汝月ちゃんとこ？　えーっと確か……しちけん。七つの剣って書いて七剣出版、だったかな。ゲーム会社みたいな名前ね」
　ふりむいたら、すでに甲斐は背中だった。

　「どうしたの？」
　「急用。思い出した」
　「だって康平に会いに来たんじゃ。もうすぐ帰るわよ」
　「いや、今は、俺、ちっとまずい、かも。また来るって言っといて」
　言いながらブーツをはき、メットを抱える。
　「バイクで大丈夫？」
　「飲んでないから平気。ごちそうさま」
　「甲斐くん」
　あまりの唐突さに驚いている真緒に、甲斐は振り返ってふと、笑った。

　「おばさんありがと。昔と同じで、すげえ嬉しかった。すげえ、うまかった」
　「ねえ、お父さんはお元気なの？」
　「まだ会ってないけど。後で寄るつもり」
　「ちゃんと顔見せてあげるのよ。またいらっしゃいね」
　「はい」
　ぺこりとお辞儀を残して、引き戸は閉まった。
　しばらくそこに立ち尽くす。

　イケメンで歌が好きで、うちに来るときは必ずギターを担いでいる子だった。女の子にもてるのに、決まった彼女を作らないと康平から聞いたことがあった。
　高校卒業以来ってことは六年か。子どもだった子がすっかり大人に、スターになる。それだけの時間が経ったことになる。康平が結婚し、真衣が成人するだけの時間。

　なのに、自分は何も変わっていない。ただ、年を取っただけ。
　そんな風に思うこと自体、年なのかもしれない。
　それにしても。

　「あーんなに驚くことないのに。康平ったらよっぽどもてないって思われてたのかしら」

　今一つ腑に落ちない気持ちで居間へ戻る。急須に残った茶はすっかり温くなって、それがうら寂しかった。





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