兄が結婚する。
　それだけで真衣の心はざわついている。

　帰省したお正月、汝月からプロポーズされたと兄に聞かされ、母と一緒に大ブーイングした。
　「なんでその場でピシッと決めないのよ、この子は！」
　「お兄ちゃんの根性なし！」
　怒濤の攻撃に押し切られ、母から大切な指輪まで押しつけられて、兄はようやく汝月にプロポーズした。返事はイエスしかあり得ない。

　真衣も反対する気はなかった。兄には理想の相手だ。いつも兄を見ている。兄の気づかない時も見つめている。あんな目を前にも見たことが。

　「だめ、集中切れちゃった」

　シャープペンシルを放って椅子に背中をあずけると、真衣は大きく伸びをした。１ＬＤＫの部屋は狭いが、居心地はいい。

　真衣が借りているのは、女性専用アパートの三階の一室だ。一階に大家夫婦が住んでいる。六十代半ばの温厚な人たちで、それが兄と母を安心させる決め手になった。

　大家も真衣と家族を気に入ったらしい。帰省みやげを届けるとお茶に招き入れられたり、顔を合わせると立ち話する。
　うるさいと思うこともあるが、誰も知らない街で頼りにできる人が居るのは、やっぱりありがたかった。
　『悪い虫がつかないよう、お母さんとお兄さんに頼まれたのよ』

　　聞かされて笑った。『悪い虫』のつくヒマなんてありゃしない。専門学校は課題と実習に追われっぱなしで、学校との往復だけで過ぎていく。

　正月休みのあとは、年度末試験が待ちかまえていた。トップクラスではないが、この二年間まじめに励んできたから、なんとかクリアできるだろう。

　「でなきゃ大変よ」

　そうつぶやいた真衣は、キッチンに向かった。電気ポットのコンセントを差し、カップにインスタントのカフェオレを入れる。お湯を注ぐと甘い香りが漂った。一口飲んでホッとする。
　プカリと浮かんだ名前があった。
　（雅史くん）
　思うだけで甘やかな心地になる。こんなの初めてだ。

　真衣は今年、成人式だった。晴れ着で女子高時代の友達と集まった。地元大学に進んだ明里あかり　と、就職した萌もえ。やはり専門学校に通う東子とうこ。
　久しぶりで話が尽きない。仕事のこと、学校のこと、それから恋バナ。式そっちのけでしゃべり続けて、式が終わってもまだ足りない。
　夕飯を食べに向かう途中で、声をかけられた。
　「成人式？　綺麗だね」

　つい振り返ると、彼がいた。
　兄には負けるが、背が高い。細身でがっちりした体格と、短めの茶髪にサングラスを載せている。芥子色のブルゾンにジーンズ。後ろポケットに手を入れ、ブーツを履いている。笑顔が感じよかった。

　「あいつらとカラオケに行くんだ。一緒にどう？　奢るよ」
　手を振っているのも人の良さそうな顔ばかり。グループ同士の気安さと、地元の安心感で、誘いに乗った。

　彼らは皆年上で、社会人だった。年齢も仕事もバラバラ。どういう集まりなのかと思ったら、高校の部活の先輩後輩だという。
　「高校ってどこ？」
　「楢高」
　女の子たちがざわめいた。地元では一番の名門校だ。
　「すごい」
　「頭いいんだ」

　明里がこっちを見た。
　「真衣のお兄ちゃんを知ってるんじゃない？　有名人だし」
　「有名人て？」
　「康平。桜川康平って言うんだけど」
　楢高卒業生なら知らないわけないわ。そう、自慢しそうになるのを堪えて軽く言ったつもりだが、くつろいでいた男性陣がそろって座り直したのでびっくりした。
　「桜川先輩の？」
　「妹さん？」
　「うわ、やべえっすよマサシさん」
　あまりの狼狽ぶりにこっちまでたじろぐ。最初に声をかけてきた彼に、まじまじとのぞきこまれて引いた。

　「……真衣ちゃん？　マジ？　ひゃー全然わかんなかった」
　「あ、の」
　「赤木。赤木雅史。覚えてない？」
　ぱぱっと記憶がよみがえった。あかぎまさし。この顔。
　「剣道部！」
　「あたり。最後に会った時はまだ中坊だったよな」

　赤木雅史は兄の同級生で、部活仲間だ。康平が部長で雅史は副部長。当時は何かにつけて、家に遊びに来ていた。

　「俺は高校卒業後、専門学校行ってさ。真衣ちゃんは大学生？」
　「私も一昨年、専門学校に進学したの」
　その後、話が弾んだ。男の子たちが皆楢高とわかって、女の子たちはすっかり打ち解けた。地元で楢高はそれほど信用がある。最後はラインを交換しあった。
　ひとつ上の平田は地元スーパー勤務、二つ上の堺は建設会社、三つ上の横峯は消防士だという。
　年長の雅史は自動車整備士として、実家の《赤木モーターズ》で働いている。家族経営の整備工場で父や兄も整備士だとか。

　「康平はうちのお得意さまでさ。あいつの乗ってるバン、古いだろ。そろそろ買い換えろって勧めてるんだけど」
　「そうなの。すごく古くてボロで。新車にすればいいのに」
　ぶつぶつ言う真衣に、雅史は真顔になった。
　「親父さんの形見だって？　乗れる限りは乗るんだって言ってたぞ」
　思わず口をつぐんだ。
　幼い頃に死んだ父のことは、顔もおぼろにしか覚えていない。四つ上の兄は、記憶も悲しみもしっかりと形作られているのか。
　「……そうだったんだ」
　「たいした奴だぜ、康平は。なあ？」

　雅史の言葉に、男性陣がうなずいた。兄が誇らしいのはいつものことだが、同い年の友人をほめたたえる雅史が意外だった。もっと軽い印象しかなかったのに。知っていたはずの彼を、改めて意識した瞬間だったかもしれない。

　真衣の専門学校生活も、春がきたら最終学年だ。三年間なんてあっという間に過ぎてしまう。就活が目の前に迫っている。
　進学した当初は東京で就職する気満々だった。都会で華やかとまでいかなくても、颯爽と働く自分を思い描いていた。
　なのに、田舎に戻ろうかなんて考えが浮かぶ。

　携帯端末がピコッと鳴って我に返った。
　ラインだ。カップを置いて、画面のロックを解きスライドする。雅史からのメッセージに頬が緩む。
　『聞いたぞ。康平、結婚するんだって？　真衣ちゃん教えてくれよー』

　情けなさそうなスタンプがおかしかった。定例の楢高会で兄が、汝月との婚約を発表したのだろう。教えてあげれば良かったかな。でもお兄ちゃんから言いふらすなって釘をさされてたし。
　真衣が思いめぐらす十数秒間で、端末画面にはテトリスよろしくメッセージが積み上がっていく。

　『マジで？　桜川先輩がついに年貢を？』
　『きゃあああ、いいなあーー』
　『相手はもちろん汝月先輩っすよね？』
　『ったりめーだろ』
　『うらやましー、ベストカップルじゃねえっすか』
　『赤木先輩なんて彼女もまだっしょ。遅れすぎっすよ』
　『るせえぞ平田！』
　『真衣良かったね！　真衣ったら、寝てるの？　』
　あわてて真衣もメッセージを送る。

　『ありがと。言わなくてごめんね。黙ってろってお兄ちゃんが』
　『めでたいからいいんだけどさ。おかげで俺が持ってったニュースが霞んじゃったよ』
　『ニュースってなに？』
　『赤木先輩もコトブキっすか？』
　ギクッとした真衣の不安は、別の驚きで打ち消された。
　『コトブキ違いだよバーカ。洋輔と実紀も結婚するんだと』
　『生徒会長と姫が？』
　『きゃー、マリッジラッシュ！』
　『すげえっすね。先輩、ますますやべえっすね』
　『ほっとけよ。マジでうぜえな、おまえ』

　盛り上がる仲間たちをよそに、ひとり顔をしかめる。
　次石実紀。
　真衣が決して許せない人。思い出すのも嫌な人。

　幼い頃から兄は真衣の自慢だった。兄にとっての特別は、母と自分だけだと信じていた。
　なのに、彼女は突然、兄の心を奪い去った。
　『桜川くん、いますか』
　すらっとしたプロポーションの美少女は、まっすぐな髪をショートボブに切りそろえていた。長い手足が日焼けしている。まだ小学生だった真衣でもドキッとするほどの容姿で、まじまじと見るしかできなかった。
　『いますか？　康平ー？』
　物怖じしない態度で兄を呼び捨てされて、むっとする。転げるように階段を下りてきた兄の、あわてふためいた様子も気に入らなかった。
　『なんだ実紀、早いだろ』
　『待ちきれなかったんだもん。行こう』
　『待てって』
　取り残された屈辱は今も忘れない。

　実紀はいろいろな意味で有名人だった。成績優秀、スポーツ万能。特に陸上の短距離ではトップクラス。実家は地元の旧家。そんな彼女が兄にぞっこんになった。信じられないことに兄もだ。
　真衣は激しく反発した。会えば睨み、あからさまに嫌った。認めない。あんな人、お兄ちゃんに似合わない。

　中学二年の夏、市営グラウンドのトラックを走る実紀を、土手から兄が見つめていた。たまたま自転車で通りがかった真衣は、声をかけようとしてかけられず、家まで自転車をすっ飛ばした。

　怖いくらいの激しいまなざしは、たったひとりだけに向ける気持ちで溢れていた。

　兄が真剣に実紀を想っているのが嫌というほど伝わってきて、ショックで、部屋にこもって泣き続けたあの日。

　そうかと気づいた。
　汝月のまなざしは、あの日の兄と同じだ。静かで秘めた激しい熱。

　なのに実紀は兄を捨てて行った。残された兄がどれだけ傷ついたか、真衣は想像したくもない。やっと幸せになれるのに、同じこのタイミングでのうのうと結婚報告してくるなんて。わざわざ知らせる必要ある？

　ふつふつと沸く真衣の怒りを知る由もなく、ラインは続く。

　『さっき康平から連絡もらってさ、実紀たちが式をこっちでやるんだと。で、披露宴という名の同窓会を企画してくれって、ふたりから頼まれたらしい』
　『うわー、いいなあー』
　『先輩の代ってすげえメンツばっかだから』
　『もしかして甲斐さんとか』
　『甲斐？　国木田甲斐？　うそうそうそー』
　『いやいや無理だろ、いくらなんでも』
　『真衣も甲斐の曲、好きだったよねー』
　『ごめん、ちょっと、急用』
　我慢できず、かといって皆にあたるわけにもいかず、真衣は一言残して端末の電源を切ってしまった。

　腹立たしくてしょうがない。いつまでも兄を利用するあの人も、利用されて許す兄も。
　汝月はどう思っているのだろう。知っているのか。一緒に披露宴の企画？　元カノのために？　自分たちの式だってちゃんと決めてないくせに。ああもうイライラする。

　ふと、とんでもない考えが浮かんだ。
　兄はまさか、今も実紀を−

　「違う違う違う−！！」
　全力で首を横に振りながら、叫んでいた。
　そんなはずない。そんなことあり得ない。あんなに思われているのだから。あんな目で見つめられて−。

　すうっと心が冷えた。
　汝月は兄を見つめている。
　兄が汝月を、あんな目で見たことは、あっただろうか？


　バカバカ、変なこと考えないで。
　プロポーズしたんだから。結婚するのよ、ふたりは。
　でも。でもでも。
　恋って何？　好きってどういうこと？　何が本物なの？

　「もうもう、全部あの女のせいよ。次石実紀なんて大大大っ嫌いーー！」

　クッションを床にたたきつける。
　胸の中はぐちゃぐちゃで、どうしたらいいのかわからない。

　わかっているのは、このままじゃ明日の試験が危うい、ということだけだった。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　next　＞＞