じんわりと温まるような感情。
　これが懐かしさというものだろうか。

　《古着　時代屋》と描かれた看板を、少し離れた通りから林子は眺めていた。
　古いウエスタン映画に出てくる酒場みたいな造りは、店長の叶の好みだ。
　店内には昔と同じように、ハンガーに掛けられた古着がぎっしり並んでいるだろう。男物女物子ども用、客層はバラエティに富んでいて、常連も少なくない。
　すごく流行るわけでもないかわり、潰れもしない。林子が居た頃から時代屋は不思議な店だった。

　故郷を思うことは滅多になかった。母や実家のことはさらに考えなかった。
　思い出すとしたら、ここだけ。

　店の戸口から女子高生がふたり出てくる。後ろから彼の声が聞こえる。
　「気をつけて帰るんだよ」
　「まだ宵の口だよ、カノッチ」
　「心配性なんだから」
　帰って行く女の子たちに手を振った叶が、《営業中》の札を《閉店》にひっくり返している。

　ここしかない。
　戻りたい場所を故郷というなら、この店と、彼が、自分にとっての故郷だ。

　意を決して林子は歩き出した。キャリーバッグがガラガラと耳障りな音をたてる。
　一見すると旅行者にしか見えないはずだ。流行のロングブーツにカーキ色のコート、深くかぶったニットキャップとサングラスで、顔は隠れている。
　なのに、こっちを見た叶は、闇を透かすように目を細め、あっさり言い当てた。
　「林子？」

　驚かせるつもりだったのに驚かされてしまった。
　どうしてわかるんだろう。
　サングラスをずらして見せると、目尻にしわを寄せて彼が笑った。
　「おかえり」
　目の奥が熱く潤む。声が詰まって言葉にならない。子どもみたいだ。
　「入れよ」
　彼の背中、馬のしっぽみたいにひとくくりにした髪に、昔はなかった白髪が見えた。その白さが矢のように、林子の胸を刺した。

　叶は恩人だ。
　彼に会わなかったら、今まで生きていただろうかと思うことがある。たまたま出会った少女を、なんの見返りも求めず助けてくれたひと。
　ろくでもないことばかりだと思っていた故郷だけれど、私って実は運が良かったんだろうか。

　レジの奥にある叶の住処も、昔と変わらなかった。
　部屋にはミニキッチンとテーブルにソファ。衝立の向こうにベッドとバスルーム。叶は料理をしないので、キッチンはコーヒーを入れる場所になっている。
　古びたソファで彼がいれたコーヒーを飲むのは、昔からとびきりの贅沢だった。林子をコーヒー好きにしたのは彼だ。
　目の前に大きなマグカップを据えられた。目が覚めるほどの芳香も以前と同じ。
　「疲れてるみたいだな」
　「そんなことないけど……ミルクか生クリームある？」

　ムッとしたのがわかったので、立ち上がって勝手に冷蔵庫を開けた。昔同様、食材は皆無だ。冷蔵室には水と缶ビールとコーヒー豆。冷凍庫にはたぶん、氷とアイスクリームだけ。
　あきらめてソファに戻ると、フレッシュミルクが差し出された。
　「昨日買ったハンバーガーのセットについてた」
　「ラッキー」
　ありがたく注ぐミルクに、叶は文句も足す。
　「とびっきりのブルマンだぞ。もったいない」
　「ミサさん、いないの？」
　一口だけ含むと、知らん顔で聞いた。

　ミサは叶の共同経営者だ。ショートボブに長いピアスがトレードマークで、小柄なのに強烈な個性を放っている。
　店の二階に住んでいるが、ずっとではない。叶とは古いつきあいらしい。
　「年明けから商品の買い付けに出かけてる。ヨーロッパ中心に二ヶ月。三月半ばに戻るはずだ」
　「ヨーロッパは危なくない？」
　「人の多いところは避けるって言ってたけどね。どこにいたって死ぬときは死ぬさ」
　淡々とした調子に思い出した。叶には人情味あふれるところと、人生に達観したところが共存していた。

　「連絡とれる？」
　「メールなら。どうした」
　「相談事」
　「へえ」
　聞き流した叶が真顔になった。
　「おまえを専属にしてるミュージシャン、ワイドショーに追いかけられて、会見開いてたぞ。女優の小峰　香こみね　かおり　との不倫について、過ちでした別れましたとさ。ありゃ反省してないな」

　全くの不意打ちだった。
　年明けすぐ、彼の事務所に契約終了を申し出てからは、甲斐からの連絡は無視していた。自分の部屋に引きこもって、テレビも見なかった。
　そんな余裕はなかった。

　あのバカ。
　最初に浮かんだのは罵倒だ。笑いたいし泣きたい。ホルモンのせいだろう、熱帯低気圧化する感情を必死で堪える。
　「……知らなかった」
　「つきあってたんじゃないのか」
　喉の奥から悲鳴が漏れそうになる。そんなことまで。
　「なに、あたしって有名人？」
　「出世株だろ」
　「ただのスタイリストじゃん。甲斐のネームバリューの恩恵」
　「いいや、違うね」
　言い切られて面食らう。

　「去年のツアーは、大阪と札幌が良かった。構成と曲に衣装がばっちり合ってた」
　「見た風な台詞」
　「ＤＶＤさ」
　叶が取り出して見せたのは、甲斐のコンサートの映像媒体だった。大阪と札幌だけじゃなく何枚もある。一昨年、その前も。
　「今年のが楽しみだ」
　そう言われて胸がつまった。ずっと気にして見てくれてたんだと思うと。
　まずい。全部ぶちまけないうちに何か言わなきゃ。えっと。

　「し、ばらく、ミサさんの部屋に居てもいい？　彼女が戻るまででいいから」
　「構わないが、仕事はどうした」
　「やめてきた」
　カップを置いて、叶が目を見張った。
　褒めてもらったばかりだ。申し訳なく思う林子に、叶はただ問いかける。

　「なんで」
　「アメリカに行こうと思って」
　「アメリカ？」
　「次のステップ」
　「それで、ミサか」
　ミサは若い頃から世界中を放浪していた過去がある。中でもアメリカは長く、家も持っていて、知り合いやツテが多かった。

　「行きたいと思ってたの。知ってるでしょ」
　ここでバイトしていた頃から、林子は海外へのあこがれを事あるごとに口にしていた。
　「確かに行くなら早い方がいいだろうが、せっかく仕事もうまくいってたろ」
　「おかげで資金ができた」
　「……連絡してみる。好きなだけ居ろよ」
　「ありがとう。助かる」
　「実家は？」
　敢えて尋ねるのが叶らしい。首を振った。
　「いいのか」
　「うん。いい？」

　手のひらを差し出すと、壁にかかっているたくさんの鍵の一つが放られた。二階のだ。握りしめて、ためらいつつ言いかける
　「もし、週刊誌の記者とか」
　「来るもんか」
　「……ありがと」
　頭を下げ、そそくさとキャリーバッグを引いて部屋を出た。
　泣かずにすんでホッとしていた。

　レジへのドアを出て、暗い店内を反対側まで歩くと、客用トイレがある。その手前に外階段へつながるドアがあった。
　冷たい夜風に身をすくめる。少し急な階段をキャリーバッグを抱えて注意深く上る。
　鍵を開けると、閉め切っていた部屋特有のにおいがした。照明のスイッチを探る。

　照らし出されたのは整えられたベッドに机と椅子だ。バスルームとトイレもついている。キッチンがないだけで、叶の部屋と大差ないが、ホテルの部屋のように住む人の気配がなかった。
　ミサにとってここは、ホテルと同じなのかもしれない。いつでも泊まれるＢ＆Ｂ。
　林子にとっても、人の部屋に侵入する罪悪感がなくて楽だ。靴を脱ぐと、ベッドに身を投げた。スプリングが心地いい。

　堰が切れたように、どっと記憶が押し寄せた。とぎれなく続いた仕事。積み重なった感情と結果。逡巡と決断。それでも彼を思うと胸は騒ぐ。
　ほんとバカ。大バカ。バカ無限大。
　無量大数は自分だけどね。

　これで良かったのかはまだわからない。良かったと言えるようにする。
　やっと眠れそう。眠らなきゃ。
　押し寄せる睡魔に逆らうことなく、着替えもせずに、林子は眠りの底へと沈んだ。


　階下では叶が眉をしかめ、天井を睨みつつ、ほとんど減らなかった林子のコーヒーをシンクに流していた。





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