次石実紀が、汝月との待ち合わせに選んだのは、駅前の複合ビルにあるコーヒーショップだった。
　ビルも店も新しい。汝月とは昔はなかった店で会いたかった。一緒には行ったことのない、記憶にない店で。

　彼女と再会して自分が何を感じるのか、その時になってみないとわからない。

　どうして汝月なのと何度も思った。彼は−元彼とはいまだに考えられない−どうして汝月を選んだのか。自分を苦しめるため？　いいえ、康平はそんなことはしない。
　ただ、汝月だったのだろうと想像した。
　自分が洋輔を受け入れたのと同じように。

　全く知らない人を選べば楽なのに、よりによって昔の仲間を、強い繋がりのある相手を選んでしまうなんて、馬鹿だ。康平も自分も。


　康平と終わったことを実紀が納得するには時間がかかった。きっと来る、きっと明日になればという希望を、いつまでも捨てきれなくて。
　『おまえなしではやっていけないんだ』
　そう言って抱きしめられる夢を何度見たか。泣きながら目覚めて、また泣いて。そんな状態がどれほど続いたことか。

　康平は追ってこない。その事実と一緒に洋輔を受け入れた。あの時、子ども時代に別れを告げたのだと思う。なのに、いつまでも埋み火があった。消そうとしても消えない火が。

　いつか、とか、もし、という言葉は、未来に使うなら魔法や希望になるが、過去に使うと、魔物や絶望にしかならない。心を蝕まれるのに断ち切れず、ぐるぐる回るだけでどこにも行き着かない。

　「しっかりしなさい、実紀」

　自分を叱るのと自動ドアが開くのが同時だった。明るい店内は広く、カウンター席とテーブル席がいくつもちらばっていたが、カウンターには人がおらず、テーブル席も空席が目立った。

　汝月の姿は見えない。でも視線を感じる。たどるようにもう一度見回した実紀は、窓際の四人掛けのテーブルに座った彼女を見つけ、つかの間、見つめ合った。

　昔よりも綺麗になった。癖のない長い髪や、穏やかでひっそりした雰囲気、考え深い目の色は同じだ。手を振ると軽い会釈が返るところも、変わらない。

　どこに。そう自分に問いかけるのをやめられなかった。彼女のどこに、康平は惹かれたんだろう。その一方でささやく声がする。彼は自分よりも家族を選んだのであって、彼女を選んだわけじゃない。

　私より彼女を愛しているんじゃないわ。

　負け犬の遠吠えみたいと自分を嗤った。汝月を目の前にしてまだ、そんなことを考える自分が嫌でしょうがない。

　彼女の横に立って笑みを作ったら、ひどく寂しくなった。古い友人で、心から好きだった仲間にもう、本音を見せられない。少なくとも全ては。

　「ごめんなさい、待った？」
　「ううん。来たばかりよ」
　「元気だった？　六年ぶりね」
　「ええ。一段と綺麗になったわね実紀」
　「同じ言葉を返すわ。汝月も綺麗になった」
　ぽかっと沈黙が挟まったあと、どちらも噴き出した。張りつめていた空気が少しだけ和らぐ。実紀の笑顔も口調もさっきより砕けた。

　「何やってるの、私たち。すごく他人行儀ね」
　「緊張してるのよ。六年ぶりで」

　やってきた店員に実紀はブラックコーヒーを、汝月はモカラテを頼んだ。向かい合わせに座ると汝月が言った。
　「婚約おめでとう。篠井くんは？　一緒に戻ったんでしょう？」
　電話で婚約を告げたのは自分の方だ。祝いの言葉は当然なのに、先制攻撃のように聞こえる。

　「ええ、彼と私の実家への挨拶をね。かわいそうに」
　「かわいそう？」
　「次石の実家はもう大騒ぎだったから」


　東京へ飛び出してから、一度も戻っていない家だ。結婚の報告もしないつもりだった。洋輔もしなくていいと言ったのだが、母に叱られた。
　「篠井のご実家に迷惑がかかったらどうするの。あなたが次石と縁を切るのは勝手だけれど、洋輔さんまで縁を切らせるつもり？」

　自分のことしか考えていないと指摘され、ひどく堪えた。母の言うとおり、彼は決して両親や家族と仲が悪いわけではない。なのに自分を優先してくれることに、馴れて甘えている。
　ひとりだちしたつもりで、頼り切っているのが情けなかった。


　「ご実家は結婚に反対なの？」
　汝月の声で我に返った。心配そうな顔は本物だ。彼女らしい。

　「祖父が文句を並べて、祖母はおろおろして、叔父と叔母が仏頂面していたわ。でも決めたことだから関係ないの。言いたいことを言わせて、予定を告げただけよ」
　「まあ」
　「彼らが式に出なくても私はかまわないの。でも出るでしょうね。面子があるから。次石の本家の孫の結婚式に、自分たちが出ないなんてあり得ないって感じ」
　「……お母様は？　来て下さるんでしょう？」

　変わらない。優しい。上辺でなく本心を読みとって、気遣ってくれる。汝月のそういうところが好きだったと思い出す。

　「ええ。私にすれば母が主賓だもの」
　「篠井くんのご家族は？」
　実紀は知らず笑みを浮かべた。
　「熱烈歓迎されちゃった。彼のご家族とはほとんど初対面だったのに、あっという間に巻き込まれちゃって。いい人たちよ。洋輔よりずっと人当たりがいいの」
　「ひどい」
　「本人が認めてるんだもの」

　直前まで彼の家族に逢いたくなかった。実紀は生い立ちのせいか、家族親族に懐疑的だったし、彼に負い目があるから怖かった。疑われたら、見透かされたらどうしよう。
　なのに熱烈歓迎された。あんなにオープンな人たちは初めてで、呆然とした。誰も彼もが実紀と話したがった。山のような料理を並べたテーブルの前に実紀をすえて、お姫さまか女王さまみたいな扱いをされて。
　それもこれも、洋輔の相手だからだ。
　彼があんなにも家族に愛されているなんて、思ってもみなかった。わからないものね。

　クスッと笑い声がした。汝月がほほえみを浮かべている。
　「何？」
　「ううん。幸せそうだなって思って」
　ふわふわとさまよっていた心が、ひゅっと現実までひっぱり戻された気がした。幸せ？　ありえない。だって。

　「……康平は元気？」

　その名前が汝月との間に、壁のように立ちはだかった。そう感じるのは自分だけじゃないはず。汝月の笑みはかろうじて保たれているけれど、口元で凍って強ばって見える。
　それでも彼女は逃げない。実紀から目を逸らさなかった。

　「ええ、忙しそう。でも仕事は楽しそうよ。人に会うのが好きだから、きっと性に合っているのね」
　「彼らしいわ」
　康平が抱いていた夢を、汝月は知っているだろうか。彼は話したかしら。話さないで欲しかった。彼の秘密をひとつだけでも。自分の浅ましさに呆れながら、現実に戻ろうとする。

　「二月に、こっちで式をあげるつもりなの」
　「来月？　そんなに早く？」
　「時間をかければかけるほど、祖父母や叔父叔母が出しゃばることになるもの。そんなのまっぴら。洋輔も早い方がいいって言うし」
　「準備が大変じゃない？」
　「何の？　こっちに住むわけじゃないもの。実際式はどうでもいいの」
　「どうでもって」
　「祖父母の面子と、彼の家族のためだし。そうはいっても」
　実紀は苦笑いしてみせた。
　「丸投げしたら豪華絢爛で悪趣味なものになるから、洋輔がちゃんと手綱を握ってる。ほどほどに派手で満足のいくものになるでしょうね」
　汝月が困った顔をする。無理もない。結婚式に夢も希望も抱かない花嫁なんてね。

　「それより二次会よ。せっかくの機会だもの、私たちをだしにして、盛大な同窓会を企画したいの。幹事を頼もうと思って。汝月と、康平に」
　彼女の目が見開かれた。呼び出した用事がそんなこととは思っていなかったのだろう。
　「……篠井くんも同意してるの？」
　「もちろん。彼は私が望むことにＮＯとは言わないわ」
　洋輔は気づいているだろうか。自分でも気づかないふりをしている、深く埋め込んでいる微かな、恥ずべき期待に。気づかないでいて欲しい。

　「準備の時間がなくて申し訳ないんだけど、同期会はやっているんでしょう？　手伝ってくれる人もたくさんいると思って」
　「……私はともかく康平がいるから。きっと手は借りられるわ。あなたと篠井くんの披露宴だったら、みんな間違いなく出席するわよ」
　「だったら嬉しいけど」
　「ただ、林子と甲斐は難しいかも」
　「二人にはこっちで連絡を取るわ」

　「ほんとに？　つかまるかしら。二人とも卒業以来だし、会えたら嬉しいわ」
　「特に甲斐はね。披露宴の目玉になりそう」
　「……もし来られるとしても、当日まではシークレットにしないと。大騒ぎになるわよ絶対」
　「シークレットって好き。良かった、楽しみができて。ねえお願いできる？」

　汝月が真顔で答えた。
　「実紀の、実紀と篠井くんの頼みよ。断れるわけないでしょう？」
　ふとまぶたが熱くなって、実紀はあわてた。

　いつだって誠実でまじめで、優しかった汝月は、数少ない心許せる女友達だった。どこでどう間違ったんだろう。彼女に頼む二次会は、康平との式のはずだったのに。ああまた余計なことを。
　ぎゅっと両手を握りしめ、瞬きで涙を追い払った。なかったことにして、笑顔を作る。

　「ありがとう。康平には洋輔が連絡するって言ってたけど、汝月からもよろしく言っておいてね」
　「わかったわ」
　式の日取りだけ伝え、詳細はメールでやりとりすることにする。
　　「ごめんね、もう時間だわ。夕食ぐらい一緒にしたかったけど、これから東京に戻るのよ」
　「もう？　忙しいのね」
　呼び出したのだからと汝月の分も支払いながら、説明した。

　「急に式を決めたでしょ。おまけに洋輔が、式の後でどうしてもハネムーンに行くっていうの。それまでに片づけなきゃならない仕事が満載」
　店の外に出てから、汝月が困ったように笑った。
　「実紀ったら。ハネムーンに行かないつもりだったの？」
　「時間に余裕ができてからでいいと思ったのよ。あわただしいのもどうかなって」
　「時間は作らないと。余裕なんていつできることか」
　「そうかもね……汝月は？」
　「え？」
　「康平と。結婚しないの？」

　冗談のつもりだった。ちょっとつついただけで、否定を待っていたのに、汝月は頬を染めた。声が裏返りそうになる。

　「決めたの？　ほんと？」
　「つい先日よ。婚約したばかり」
　「……やだ、言ってくれればいいのに」
　そういいながら狼狽えていた。自分でも驚くほど衝撃を受けていた。ごまかそうとして軽口を捜すが、とんでもないことを口走りそうだ。

　「だったら一緒にしない？　合同で式とか二次会とか」
　「無理無理。実紀のところみたいに豪華にはできないし。身内だけで地味にやる予定よ」
　「……あぁ時間。行かないと。康平に……おめでとうって伝えて」
　「篠井くんにもね」
　「二次会のこともよろしくね。じゃあ」
　「連絡するから」

　急ぐふりで背を向け、駅に向かった。
　ほんとうはまだ時間があった。駅は目の前で急ぐことはない。でも、あれ以上一緒にいたらわかってしまう。動揺と狼狽がばれてしまう。

　結婚。
　康平が、汝月と。

　ばかね、私だって洋輔と結婚するくせに。幹事を頼んだくせに。こんなに動揺するなんて、狼狽するなんて、馬鹿みたい。
　馬鹿だわ。涙が。

　駅構内のトイレに駆け込んだ。個室に入ってドアを閉める。泣くわけには行かない。洋輔にばれるから泣けない。
　ぎゅっと目を閉じて感情をやりすごす。おかしいでしょ。康平と別れたのも、洋輔を選んだのも私の方。結婚を決めたのも私の意志よ。

　こんな気持ちを抱いちゃだめ、だめなのに。
　どうして。


　構内放送が乗車する特急の案内を流している。
　トイレの個室のドアにもたれ、歯を食いしばり、実紀は必死で嗚咽をこらえていた。





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