日曜の昼間だというのに、居酒屋は満員だった。

　地元で長く愛されている店はこの時期、様々な集まりの新年会で、予約は満杯になる。新鮮な魚が売りで、冬は鍋のメニューが定番だ。

　康平は汝月と一緒に、楢高同期の新年会に来ていた。卒業以来ずっと参加していて、就職するとさすがに出席回数は減ったが、都合がつく限りは顔を出す集まりだ。

　「今年もよろしく」
　「忘年会の次は新年会だよなあー」
　「おめっとうさん」

　グラスがカチンカチンと勢いよく鳴り響く。松の内もとっくに過ぎたが、年明け最初の会合だ。乾杯の挨拶はこれしかないだろう。

　「今年もよろしく、康平」
　「まだ由良に見捨てられてないんだな」
　「うるせえよ」

　口の悪い冷やかしはいつものことなのに、康平の笑いはひきつった。うろたえそうになるのは、負い目があるせいだ。
　（負い目って何だよ。おかしいだろ、プロポーズに負い目なんて）

　心の中の反論は自分に返される。
　（負い目だろ。相手に先越されて、それでも決断できなくて、結局）
　自分の声に耳を塞いだ。これまで何度もそうしてきたように。

　隣では汝月がいつものように座っている。他の連中の軽口に耳を傾け、ちょっと笑い、グラスにちょっとだけ口を付ける。酒には強くないから、一口二口でもう頬が赤らんでいる。

　高校を卒業したあと、彼女が同期会に参加するようになったのは、康平とつきあいだしてからだ。
　『康平みたいに人気者じゃないから』

　来れば輪の中にひきずりこまれるくせに、自覚が足りない。男も女も、汝月に話を聞かせたがる。気をそらせない態度で聞いてくれるので、嬉しくなってしまうのだろうか、自分みたいに。
　康平の視線に気づいてはにかむ。きれいな笑顔だ。

　「おい康平。彼女に見とれてんじゃねえよ」
　隣から冷やかされてしまった。首をすくめてジョッキでごまかすと、なんだかんだと突っ込まれるのを、頭の隅で聞き流す。

　彼女が好きだ。
　つきあい始めた時から、いつかは結婚するのだろうと思っていた。もう三年経つ。ふたりとも社会人になって、それぞれ仕事を持っている。同じ土地に住んで、どちらの家族にも祝福されて。
　俺は幸せな奴だ。誰に聞いたってそう言われるに決まってる。

　なら、なのにどうして、こんなに落ち着かないのか。彼女の笑みを見るたび、悪いことをしているような気になるのか。
　気を逸らすような話題が欲しいと思ったら、誰かが言った。

　「そういや、昨日の＜サタデーミュージック＞見た？」
　「見た見た。甲斐、格好良かったよなあ」

　かつての仲間のひとり、国木田　甲斐　くにきだ　かいのことだ。オリコンで常に上位をにぎわし、ツアーで全国を駆けめぐるロックミュージシャンは、一番の出世株だった。

　地元で堅実に、地味に生きている者たちからすれば、スターダムにのし上がったかつての同級生の存在は、自慢であこがれで、話題の種だった。
　「連絡ないのか、康平？　由良もさ」
　いつもの問いにいつもどおり、汝月と一緒に首をふった。えーと周囲が不満げにコーラスする。

　「卒業したきりだって言ってるだろ。ああいう世界はめまぐるしいから、立ち止まったり振り返ったりする時間は、まだないんじゃないか」
　「ツアーで移動しっぱなしだもんね」
　「コンサートの回数、飛び抜けて多いってよ」
　納得はするが、声が残念そうだ。せっかく有名人が知り合いなのに、そのコネを使う機会がない、というのは意地悪な見方だろうか。

　「ワイドショーはガセだろ。人妻と遊ぶ暇ねえよ」
　きゃーっと女性陣から不満ともやっかみともつかぬ声が上がる。このところ甲斐には不倫の噂もちらほらあった。
　「暇はなくても、寄っていくって。甲斐なら」
　「そうかもね」
　「やだー」
　同意と不同意で場がわく。

　「ＲＩＮＫＯが衣装担当になってから、ツアーが華やかになったよね」
　「ＮＡＲＡスタイルの頃から、センスは飛び抜けてたし。ブランド立ち上げるって噂があるって」

　ＲＩＮＫＯこと、久賀林子は、甲斐のスタイリスト兼ツアースタッフとして、名を知られるようになっていた。最初はずいぶん驚いた。おまけに。
　「甲斐くんとＲＩＮＫＯって、つきあってるの？」
　「だからほんとに知らないんだってば」

　汝月が困った顔で繰り返す。嘘じゃないのは康平も知っている。卒業後、ほとんど連絡がないのは、彼らだけでじゃない。

　「知ってるか？　＜経済ジャーナル＞の新年号に、生徒会長が載ってたぜ。＜今年の期待の顔＞だって」

　しまった、と思った。康平の鼓動が一気に早まる。平静を装うので精一杯だ。
　「見た見た」
　「私も読んだ。すごいよねえ、彼の会社、順調だって」

　生徒会長こと、篠井洋輔は、大学時代に株で資金を作って、会社を興した。今では若き実業家として名を馳せている。ルックスと才能があいまった、時代の寵児とでも言うのか。

　「すごいっていうならナッツでしょ。全然わかんなかった」
　「そりゃそうよ。金髪ロン毛にカラコンじゃあね」

　やっぱりだった。甲斐の話が林子に繋がるように、洋輔の話は彼女へと繋がるのだ。わかっているのに痛い。

　「実紀がモデルをやるなんて、びっくりした」
　「そうか？　あれだけの美人ならさ」
　「実紀って、自分の容姿を気にしてなかったから」
　「モデルはあのＣＭだけだろ。洋輔の会社で一緒に働いてるって」

　東京で洋輔とつきあうようになった実紀は、起業時のＣＭにモデルとして出演し、会社のイメージ戦略に一役買った。メールで送られたＵＲＬで見た、近未来の荒廃した都市に立ち尽くす金髪女性の姿が甦る。

　クレジットのモデル名はＮＵＴＴＳとだけだったが、康平はひと目でわかった。姿形をどれほど変えようと、実紀なら。

　「なあなあニュース！　聞きたてのほやっほや！」

　そこに飛び込んできたのは、赤木雅史だった。高校の剣道部で副部長だった彼は、部長だった康平の悪友のひとりだ。専門学校を出て自動車整備士の資格をとり、家業の工場で働いている。とにかくおしゃべりだ。

　「なんだよ一体」
　「雅史の初耳はあてにならないもんねえ」
　「聞いて驚け。洋輔と実紀が結婚するってさ！」

　ぎくっとした。
　心臓に楔を打ち込まれたように全身が強ばる。えーとかうそーという悲鳴やどよめきがありがたかった。今のうちに、落ち着け。落ち着くんだ。

　こんなに早く広まるとは思わなかった。馬鹿だな、こういう話はあっという間に決まってる。隠す事じゃないし。

　「それガセじゃねえか？　こないだもおまえ」
　「ぜえったいマジ。俺の兄貴が洋輔の兄貴と同期で、仲がいいんだ。夕べ、久しぶりに会って飲んだら、正月に洋輔から電話があったって」
　「なんて？」
　「実紀と婚約した、式はこっちでやるつもりだっ……て」

　得意げにしゃべっていた雅史と、視線がかち合った。言葉がとぎれて口を噤む。周囲の視線も康平に、あるいは隣に集まって静まりかえる。
　判断はとっさだった。

　「なんだよ雅史。そこで黙ることないだろ、昔の話を蒸し返そうってのか？」

　明るく穏やかに、だがはっきりと抗議してみせる。日頃にない態度に、あわてたのは雅史だけではなかった。誰もが一斉にしゃべり出す。
　「悪い、そんなつもりは」
　「ごめん、ごめんね汝月。そうじゃなくて」
　「ついその」
　彼女の肩を抱き寄せた。目を合わせないように。

　「もうひとつ、ニュースを足してやるよ。俺たちも結婚するんだ、実は」

　再び場がしんとしたと思うと、どっと沸いた。すごい騒ぎになった。
　「えーえー？　マジ？　マジかよ？」
　「うわうわうわあ、なんなのそれ。結婚ラッシュ？」
　「先に言ってよお」
　「酒！　ビール追加！　乾杯のし直しだって」
　「おめでと汝月」
　「やったな康平！　幸せ者！」

　途切れることなくとびかう声がありがたかった。乾杯はエンドレスで続き、言葉が永久ループする。おめでとう、この野郎、幸せに、こん畜生、等々。

　男友達に、ヘッドロックと一気飲みを強要されながら、やっとのことで横を窺った。女友達にあれこれ追求されつつ、困ったように微笑んでいる汝月にホッとする。
　だが、安堵は即座に重石になって、胸の奥へ沈んでいった。

　汝月を好きな気持ちに嘘はない。プロポーズを後悔しているわけじゃない。
　なのに疑っている。怖れている。

　『　　洋輔と結婚します　　実紀　　』

　あのメールがなくても、俺はプロポーズを決心しただろうかと。


　一番幸せなはずの場で、幸せを取り繕っている自分を、康平は激しく自己嫌悪していた。





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