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| ６． 雷鳴 | |
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Ｂ館１０２番教室は無人だった。 １５時２０分からの４限の休講は今日になっての連絡らしい。遅刻寸前で教室にたどり着いた汝月は貼り紙に脱力した。 「えー・・」 夏休み前の最後の授業だというのにがっかりだ。比較文学論は先生も授業もお気に入りだから、怪しい空模様をおしてやってきたというのに。 来る前から暗かった空は降る気満々。ポツポツきてたし。ここで様子を見ようと思ったのはひとりになりたかったためもある。天井の高い教室は階段状の机が演壇まで並ぶ横に大きな窓。いつもさんさんと光を通すガラスが雨粒をまとい始めている。 母は病院に張り付きっぱなしだ。義父の治療中は必ずで、完全看護でなければ泊まり込んでさえいるだろう。義父と出会って得た母の幸福を汝月は喜んできたけれど。喜んでいるけれど。母はもう一人では生きて行けそうにないとこの頃思う。比喩ではなく文字通りの意味で。 義父の発病以来、少しずつまた母の不安定さが増している。愛することと依存することの境はどこにあるのか、繰り返し汝月は考える。区別できない、同義語としてしか受け止められないひと。 そんな母をわかっているからこそ懸命に生きようと闘う義父に、感謝しつつ申し訳なくも思う。汝月と義父がこうして実の親子ほどにわかりあえたのは、どちらも母をこの上なく愛し守ろうとする同士だったからかもしれない。 脅えているのは汝月の方だ。もし義父を失って母とふたりきりで残されたらどうすればいいのか。縁起でもない。考えちゃ駄目だ。振り払っても忍び寄る暗雲。 ゴロゴロと遠く雷の音。 カチャとドアが開いた。考えに埋没していた汝月は半身で振り返る。電気をつけなかった教室は雨雲のせいで薄暗く、汝月の姿は見えなかったらしい。 「・・・なんだよ。休講か」 声音に汝月はドキッとする。その場で飛び上がった気がした。実際は腰が上がっただけで、ヒザが机にぶつかりガタッと音を立てた。 「誰かいるのか？」 すでにドアを閉めかけていた康平が鋭いまなざしを再び投げた。隠れるのも変だし黙っていても確かめに来そうだ。汝月は素直に応答した。 「この授業取ってたのね。知らなかった」 人影に眼を凝らしていた康平が肩の緊張をほどくのがわかった。 「汝月か。電気もつけないで」 後ろ手にドアを閉めて康平はゆっくり下りてくる。彼の左側で窓を激しく雨が洗い始める。汝月がここにいることにさほど驚いてないのが不思議だ。 「わたしがこの授業取ってること知ってたの？」 汝月の一つ後ろに腰を下ろして康平が言う。 「ひとつ前の授業が長くて、俺はいつもギリギリですべりこんでるんだ。おまえが前から３，４番目に陣取ってるのが後ろから見えてた」 「・・・声ぐらいかけてよ」 「忙しくて。授業終わったら飛び出してるし」 そう、彼には特に話す理由がない。出逢えばしゃべるけど、康平が汝月にわざわざ会おうとしたことなんて今まで一度もなかった。 ピカッ。 窓の外、黒い空に稲光が走った。二人が目を遣って十数秒後、どーんと雷鳴が落ちる。じっと虚空をみつめる汝月の横顔に康平が呟く。 「怖くないんだな」 「わたしは平気」 可愛気がないなと自分でも思うけれど装ってもしょうがない。思い浮かべるのは雷が大嫌いな彼女。仲間内でも有名だった。康平も思い出しているだろうか。 「何か考え事してたのか。暗がりに一人で」 「う・・・ん・・」 汝月の中で押し合う言葉。聞けたらいいのに。交差点のこととか、高校で出逢った時のこととか、自分の絵を好きだと言ってくれたこととか。 康平のこととか。 言えたらいいのに。 また稲光が走った。一瞬分かたれる空はさっきより明るくなっているようだ。身体に響いて伝わってくる音は汝月に別のものを連想させた。 「花火」 「え」 「来週。お祭りだなぁって」 いかにも唐突だけれど構わない。とんでもないことを口走るよりは。 「浴衣着ようかな、久しぶりに」 「…誰かと行くのか？」 単なる一人ごとのつもりが思いがけない問いに、取りつくろいもできずあっさり首を振る。そんなことを聞かれる理由がない。康平は眉間に皺を寄せながら携帯を取り出している。 「そっちのメアド、変わってないか？」 「メアド？ あぁ、うん」 高校時代、６人の間にはメールの連絡網があった。知ってるだけで直接やりとりをしたことなんてなかったが、確かに汝月の携帯にもしっかり康平のメアドがある。 「予定がまだはっきりしないな。２，３日中にメールする」 メールするって。 「どうして？」 「祭り。一緒に行こう」 今までで一番近い稲光が走った。やっぱり一番大きな音が間近に落ちる。汝月にすれば驚きがそのまま音になった気分だ。 「イヤか？」 震えるように首を振る、汝月のまん丸の瞳と表情を一体どう受け取ったのか、康平はフッと笑った。その笑みを網膜に焼き付けたいと汝月は願った。 そんな風に笑ってくれたことなかったじゃない。 わたしに向かって。 「もう止むな」 立ち上がった康平はそれだけ言うと、現れた時と逆ルートでドアを閉めて消えた。 汝月は動くのが怖かった。このところ康平に会うたびに思いがけない展開ばかり。とうに諦めていたことが起きている。白昼夢を見てる？ 夢なら冷めないで欲しかった。 窓に光が射してくる。見上げると流されていく黒雲の下では、青空と夕焼けがグラデーションを描き始めている。 ＜ raimei / end ＞ |
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