『one』は光姫の一番お気に入りの店だ。
最初に足を踏み入れてからずっと。

流行っているというほどではなく閑古鳥なわけでもない。よく見ればお洒落だが派手さはなし。関西弁のユニークな店主が趣味半分で酒とつまみを出している。そんな店の居心地の良さは他とは比べものにならなかった。少なくとも光姫にとって。

その理由をずっと店主自身の魅力だと思っていたけれど。

朧ろな想いをそれとなく拒絶され続けてもやっぱり足を向けてしまうのだから、それだけではないのだろう。上質の酒と料理と会話。店主を慕って集まる客の雰囲気。なじめば馴染むほどそれらは貴重で気づけばストレスの癒し処・緊急避難所となっている。淡い恋心は宙ぶらりんのまま。

だから、行く時は必ずひとりだった。そこで知り合いになることはあっても身近な誰かを連れて行くことは自分に禁じていたのに。



「ホンマに拾うて来たんか、男」
第一声がこれ。しかも密かな憧れの相手からでは救われない。驚きながらも面白がっている店主を光姫は睨んだ。

「ふーん。姫って男拾うんだ？」
劣らず面白がっているのは一星だ。今さらながら連れてくるんじゃなかったと思う。

「どうやろ。モテそうやのに見たことないし」
「へえ。いつ頃からここへ？」
自分をそっちのけで情報交換を始めかける二人に光姫の眉間がよじれる。

「マスター。あることないこと言わないで」
「ないことは言われへんやろ」
「俺はどっちも聞きたい」
「だそうや」
連れて来ちゃいけなかった。光姫は脱力寸前だ。


気の張る仕事が続いていた。週半ばだがちょっとエネルギー補充しようと『one』へ足をむけたらバッタリ一星と出くわしてしまったのだ。どうして彼からは逃げ切れないんだろう。彼でなければ間違いなく振り切れるのに。


「自分、新人？　後輩？」
「彼氏、って聞いてくださいよ」
「ばっ、冗談じゃないわ」
カウンターに突っ伏していたら勝手に話が進みそうだ。手綱をとらなきゃどこまで行くかわからない。

「この人は部外者。どこの誰だかあたしも知らないんだから」
光姫はきつく遮った。微妙に翳る一星の眼には気づかない。

「ホンマ？」
「……いい女落とすにはカードは隠さないとね」
一星がニヤリと笑う。いつもの笑みだが店主が意外そうな顔をする。

「ふぅん。若いくせにわかっとるやん」
「マスター、そこは説教するとこでしょ。大人をからかうなって」
抗議する光姫の前にグラスを置きながら店主は穏やかに笑んでいる。

「大人は自分を大人とは言わん。まだまだやな、姫は」


ぐっと詰まってうつむいた。営業の姫もここでは形無し。店主が幾つかなんて知らないけれど出逢ってからずっと子ども扱いだ。慣れたつもりなのに悲しくなるのは疲れてるせいだろうか。少しずつ積み重ねてきた思慕がやけに重かった。切なげな表情が一星を煽っているとは知らない。


二人に酒を置いた店主は入ってきた別の客に声を掛けた。置き去られたグラスには沈黙が揺れる。
「姫って。渋好み？」
チラッと目線だけくれた光姫はグラスを手にする。ソーテルヌの白は甘め。

「実はお笑いファンとか」
「何それ」
「関西弁の男に弱いんだ？」
隠していたはずの好意をあっさり看破され光姫の頬が熱くなった。知らん顔で一星はグラスを回している。無性にその冷静さが癪に障る。


「マスターって大人の魅力でしょ。あなたと違って」
「そりゃまぁ否定しないけど。相手にされてないじゃん、俺と同じで」
いつも通りの率直さが、いつもより研ぎすまされているような。
「つまり、姫より俺の方が大人」
「どういう理屈よ」
「当たって砕ける度胸があるから」

言葉だったのか声音だったのか目つきだったのか。込められていた何かが光姫を引っ掻いた。苛立ちが平静さを消した。


「マスター！」

唐突に立ち上がる。広くない店内が切迫した声に静まりかえる。カウンターの向こう側で振り返る店主。隣からあわてた声。
「姫？　ちょっ……」

「あたし、マスターが好きなの。好きだったの。ずっと」

ヒューッと誰かが口笛を吹き、誰かに頭をはたかれている。多くは息を殺している。ただ店主だけがいつもの穏やかさ。
「……びっくりや。姫に告られてしもうた。よろめきそうやな」
一星がピクッと眉をあげた。

「残念やなぁ。でも恋女房と愛娘に勝てるもんはおらんし」
今度こそ驚いた顔の一星を、店主は目の端で捉えながら言った。
「姫、おおきに。かんにんな」

優しい気遣いが光姫を刺す。夢で何度も見た気がする場面。告白は幾通りもあるのに答えは同じ。
わかりきってた。だから言わなかった。言えなかったのに。


また静まった店内からおずおずと声がかかる。
「姫？　薄情なマスターはほっとけ。俺あいてるぞ」
「僕断然立候補」
「バカ、わしじゃわし」

ここでだけの顔なじみからかけられる、本気の混じった慰めと優しさに胸が詰まる。吸って吐いて言葉を無理矢理押し出す。

笑いなさい。
あたしはもっと強いはず。ほら。

「あたしこそごめんね、マスター。帰る」
「姫」
店主の低い声がはっきり届く。

「またきてや」
うなずくのが精一杯だった。


飛び出す光姫に一星は躊躇したが、店主の強い眼に促された。とんでくる声にも。
「アホ。兄ちゃん急げ」
「ほれほれ。勘定は任せろ」
一礼ならぬ半礼のみで一星は光姫を追った。





ヒールでどうやったらあんなに早く走れるのか。つくづく女は侮れない。
一星がやっと光姫をつかまえた場所は店からたっぷり２００Mは離れていた。見失わなかったのが奇跡に思える。

「放しなさいよ」

つかんでいるのは二の腕なのになんだか細い。いつも大きく見える彼女が実は小柄だと、どうして忘れてたんだろう。グイと顔をのぞきこむ。泣いてるわけじゃない。涙はない。なのに泣いてる気がした。

「満足した？　そうよずっと好きだった。初めて店に行った時からずっとよ。でも言えなかった。言えるわけないじゃない。奥さんと娘さんを死ぬほど愛してるんだもん。家族ののろけ話たくさんする人よ。わかってた。一番なんてなれない。いつだってそうよ。でも言わなきゃ逢えるから言いたくなかった。それって狡いの？子どもなの？言えば大人？　ぶつかれば偉いの？　勝手に決めつけないでよっ！」


呟きが小声に大声になり、やがて悲鳴になって拳と一緒に彼の胸を打つ。
できるのはもろともに抱きしめることだけ。抱きしめて呟くことだけ。
「ごめん、姫」
「バカ！　アホ！」
「ほんとごめん。でも姫が好きなんだ」

「知らないわよ！」
「俺の一番は姫なんだよ」
「一星のバカヤロー！」

涙を受け止めたかったのに、胸元のシャツは濡れることはなく。荒げた息を必死で堪えよううと上下する肩が細くて小さい。

奥歯を噛みしめながら見上げるビルの隙間の夜空。


二人の上には、星も月もない闇だけが広がって。
夜明けにはまだ遠かった。





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