軌跡・番外編　プロポーズ・イブ　２　

　番外Special　　　プロポーズ・イヴ　　２

よく似たジングルベルに美琴もまたちくちくと苛まれていた。

毎年楽しんでいたはずのこの季節が今年はただただうっとおしい。どうしてこんなに追い詰められているのか、自分でもよくわからない。

元々真面目な性格が幸いして、端から見れば至って順調。４年次の長期実習も無難にこなしたし単位はほぼ修得でし卒論を残すのみ。国家試験は３月だが、就職も決まっている。来年４月に開院予定の市立リハビリテーションセンターは、美琴が強く希望していたいわば第一志望だったから皆が喜んでくれた。恵まれていると思う。

なのに。

「もうイヤっ！」

思わず振り向いた早苗は床に放り出された教科書に眉をひそめた。このところ娘の様子が尋常じゃないのは感じていたが、一段とヒステリックだ。当人はというとソファにもたれこんで仰いだ顔を両腕が隠している。これはまた。

「美琴？」

返事もしないなんていつもの彼女にはあり得ない。

「美琴。あんた根の詰めすぎ。ちょっと休めば」
「休んでなんかいられない。国家試験受からなきゃ就職だって」
「あのね。そりゃ給料には響くだろうけど、試験はまた受けられるし」
「お母さん。あたしが落ちるって思ってるのね？」
「はあ？」

八つ当たりもいつもの娘にはないことだ。

「こういうときは大丈夫って言ってくれるもんでしょ？」
「・・・・大丈夫でしょ」
「やっぱり落ちるって」
「いい加減にしなさい。あんた変よ」

あー言っちゃった。自分を蹴りたくなる。看護師としてこういうセリフをいっちゃいけないとわかってはいるが、ベテランの早苗でも娘相手だと冷静さを欠く。身近すぎて。

「変？　やっぱりあたしなんかじゃＰＴには向かない？」
「そうじゃなくて」
「どうしよう卒論だってあるのに。卒業できなくて国家試験落ちて留年なんてなったら」

一体なんなのこれ。収拾つかないわ。

「美琴、あり得ない」
「あり得るわよ！　そしたら琉斗さんだってきっと呆れちゃって待ちくたびれて」
「あんたなんの話？」
「・・っ・・・なんでもない」

口を噤む顔が疲れ切っている。眼の下に隈を作って頬が青くて。
ほんとにもう。こっちが具合悪くなるわ。

「最近会ってないでしょ。明日イブだし。会ってくれば」
「・・・会えない」
「忙しいって？」
「だって。勉強しなきゃ」
「こないだ見せてくれた下書きなら卒論は８割できてるじゃない。試験勉強だってずっと」
「だって終わってないし、足りないんだもん。もっともっともっと」
「・・・・じゃあ晩ご飯つくろうか。何食べたい？　出かけてもいいし」
「いらない」
「お腹すいたんだけど」

「お母さんにはわかんないのよ、あたしの気持ちなんてっ」
「甘ったれるのもいい加減にしなさい」

応じた母は滅多にない厳しさだ。息を呑む娘にすぐ声は和らいだが。

「今からそんなでどうするの。あんたの選んだ仕事は自分の感情に振り回されちゃできないものなのよ。わかってるでしょ」

唇を噛んだ美琴の眼がじわっと潤んだかと思うと、身を翻して玄関へと駆けだした。

「美琴！」

バタンと閉まるドアが答え。はーっとため息を吐いた早苗はソファに座り込む。

「のんきな娘なのに。かなりキてるんだわね」

携帯をかけながら見る窓の外は風の音で寒々しい。上着も持たない娘が心配だった。

飛び出したからって行くあてがなかった。気がついたらここにいた。

鉄橋のそばの児童公園は名前ばかりで子どもをみたことがない。滑り台のザラザラした質感は昔と同じ。座って見上げる冬の日暮れは曇っていて日射しは雲のカーテンに遮られ気配だけだ。

羽矢に逢いたかった。なのに誘ってもらってもうなずけなかった。何とも知れない圧迫感がどんどん大きくなって、机に向かってないと不安で不安で。そのくせこの頃は何をやっても頭に入る気がしなくて。また不安になって。
こんなじゃ逢っても嫌な思いをさせそうでやめた。でも逢いたい。矛盾って言葉はこういうことを言うんだろうか。

何でこんなにせっぱ詰まっているんだろう。

母の言ったとおり理学療法士は困難に立ち向かう患者さんを助ける仕事なのだ。自分自身をコントロールできなくてどうして、患者のリハビリに対処できるというのか。４年も勉強してきたのに。自分自身のあやふやさが情けなくてしょうがなかった。また涙が滲む。

ジャリ。小石を踏む音と声が同時だった。

「美琴」

あげた眼に映る、大好きな人。前にもこんなことがあった。どうして来てくれるんだろう、いつもいつも。逢いたいと心底願う時には。

「琉、斗、さん」
「馬鹿。風邪ひくぞ」

ふわりと肩を覆うのは彼のジャケット。

「ど・・・して？」
「早苗さんが心配してた」

脳裏に母の顔と自分の言った言葉が重なった。
『お母さんにはわかんないっ』

堪えきれずに涙がこぼれて落ちる。隣に座った羽矢の抱き寄せる腕の温かさが拍車を掛ける。

彼の肩に顔を埋めてしばらく泣きじゃくった美琴だった。