 point.13 バレンタイン 前編 −逢いたくても−
３学期は始まっていた。受験のこの時期、学校はもっとも静かになる。 ３年生は受験期の前半ほとんど出てこないし、 すでに推薦等を決めている生徒もあまり来ない。 １，２年はそれぞれ行事等があったが、どこかしら落ち着かないのは仕方なかった。 初詣のあと。羽矢と美琴はそのまま。 ２人だけで逢うことも話すこともしていない。 学校が始まったから、授業では顔をあわせるし、部活も同様だったが。 美琴は逃げることも避けることもせず、でも近寄ることもなく。 淡々と。ごく普通に、羽矢に対して接するだけだった。 必要とあれば話しかけることすらあったけど、みつめると黙った。そこだけ違う。 友達との会話もあたりまえで、笑ってはしゃぐ姿も何度も見た。 それはなんだか、二人がもう終わったと示されてるようで、羽矢を焦らせた。 でもどうしようもなかった。 羽矢は自分を持て余していた。 あの日。 どうにも抑制ができずに、美琴を泣かせた自分が許せなかった。 あんな風に抱こうとして。怯えさせて。泣かせて。 美琴が抱かれることにこだわった理由もわかった今、 余計に自分に腹が立ってしょうがなかった。 生きていることへの負い目。 そんなもの、産まれてきた方が持つべきじゃないと思う。いわれのない罪悪感。 でも持ってしまったそれは、消そうとしてもなかなか消えないものだ。 美琴はだからって、後ろ向きになっているわけじゃない。 必死で捜していたのだろう。自分をわかってくれる誰かを。 なのに。 ただの嫉妬と独占欲と。そう、それだけだったと思う。 確かに理由を聞いていたら、違ったのかも知れない。でもそうだろうか？ 俺はやっぱり、同じことをしたんじゃないだろうか。 自分自身への嫌悪と後悔と、それから同じことを繰り返しそうな不安。 他にもある、考えなくてはならないこと。 羽矢は動くことが出来なかった。 そうしていても時間は過ぎる。 ２月になったある朝、教室へ入った美琴のところへ美那子がとんできた。 「美琴、聞いた？」 「ん？ 何を？」 「ニュースよ、ニュース。」 「だから、なに？」聞きながら、カバンから教科書を出そうとする。 「羽矢先生が美人と歩いてたって。」 急に教科書がつかみづらくなる。あれ。 「美人って？」 「ほら、いつか・・そう、文化祭の時。唐さんともめた美人。」 指が動かなくなる。 「あ・・の人？」 先生を『琉斗』と呼び捨てにした人。 「そう、そう。」 「誰が見たって？ どこで？」 「俺なんだよ。」 振り返ると吉沢がニヤニヤしている。 「昨日さ、中学の時の同級生とカラオケに行ってさ。その帰りに先生のビートルを見たんだ。 ほら、商店街のはずれにフランス料理の店、あるじゃん。」 「あ。知ってる。ラ・メールでしょ。あそこ高いんだよね。」 これは美那子。 「そう。そこの前に止めてあって。あれ、って思ったら先生があの美人と出てきたんだよ。」 「うわぁ、それってもろにデートじゃない？」 「だよな、絶対。俺もそう思ったんだ。」 「２人だけだったんでしょ？」 「ああ。なんか親密そうに話しながら車で帰ってった。 俺さ、先生みたいな男前に彼女がいないなんて信じられなかったんだけど。 やっぱりあれが彼女だったんだな。」 「そっか。これでまた、部員が減るね〜。まあいいんだけどね。」 途中から美琴の耳には何も入ってなかった。深い井戸に落ちて行く小石のような気持ち。 「あたしたちには関係ないけどね。結婚するのかな。」 「いい年だもんな。してもおかしくないよな。」 お願い。やめて。聞かせないで。 でも貼り付いている笑顔。最近仮面のようにはがれなくなってきたこの顔。 誰も美琴の心に気づきはしなかった。 その日は理由を付けて部活をサボった。幸い授業もなくて、羽矢と顔を合わせなかった。 トボトボと帰る道。 目に浮かんでくる女性。２度しか見かけたことがないけど。 最初はひっぱたいていた。２度目はいかにも余裕で。 いつも羽矢の近くにいた。自分よりずっと。 一度も聞いたことなかったけど。やっぱり恋人だったのかな。 それとも最近またつき合いだしたのかな、あのあと。 どっちにしろあたしはもう何も言えない。言う資格ないんだ。 いいじゃない。むしろああいう、かなうはずのない大人の女性の方があきらめはつく。 もともと先生だもん。手が届くはずなかったんだ。 見ていられればいい。そう決めたんだもん。 泣かない。 胸の奥の痛みはねじこまれるようで、悲鳴をあげたくなったけど。 美琴はただ我慢した。 なのに。さらに打ちのめされる日が来た。 バレンタインデーの前日。 登校したら吉沢と美那子が２人で話し込んでいる。 ふと嫌な予感。何？ 美琴に気づくと、美那子が手招きした。訝しく思いながら近づく。 「おはよう。どうしたの？」 「美琴、先生やめちゃうかもよ。」 「白石先生？」てっきり担任の話だと思った。でもなんで。 「違うよ。白石がやめるわけないでしょ。羽矢先生。」 思考が止まった。え？ 今なんて？ 「吉沢くんがさ、ね？」 吉沢にふりかえる美那子。 「いや。まだわかんないんだけどさ。おい、神岡。」 何故か神岡を呼ぶ。 「おとといの土曜にこいつ、バスケの試合を見に行ったんだって。社会人戦。」 「すごかったぜ。やっぱりスピードが違って、バンバンダンクが入って。興奮したな〜。」 試合の話に夢中になりかける神岡。バスケ部だから仕方ないが。 「おい、話はそっちじゃねえだろ。」 「あ？ ああ悪い。そうだな。そこでさ、羽矢先生見たんだよ。」 「観客席に、美人と一緒だったっていうんだ。」 「美人ってことは、例の。」 「たぶんな。こいつは見たことないって言うけど、間違いないだろ。」 あの人と。 「で、でも。どうしてそれで先生が辞めるって話になるの？ 先生昔バスケやってたらしいから。見に行っても不思議じゃないでしょ？」 反論する美琴。 そうよ不思議じゃない。好きなんだもん、バスケット。辛いくらい。 「試合が終わったあとなにげに見てたら、 その２人がコートに下りて、片方の監督と話してたんだよ。」 「監督？」 「どっちも社会人としてはリーグでも強いチームなんだけどさ、 その話してたほうが特に老舗のところで。最近てこ入れで新しい人材を集めまくってるんだって。」 「おまえ、詳しいな。さすがに。」 吉沢が感心する。 「いや、一緒に行った奴は違う高校なんだけど、熱烈な社会人チームのファンで。 受け売りだよ。そしたらその友達が先生見て、あれっていうんだ。」 「あれ？」 「昔、つぶれちゃった社会人チームで見たって。」 「へえ？」驚く３人。 「それもさ、そのチームはあんまり強くなかったらしいけど、先生はその中でピカ一で。 潰れちゃったのは会社の業績不振だったらしくて。 でも先生なら他でもひっぱられただろうにって言うんだ。」 ただ眼を丸くして聞いている美琴。 「それでさ、その美人。そいつがそっちも知ってたんだよ。」続ける神岡。 「え？ 有名人だったのか？」 「いや。その監督の姪っ子だって。本人も女子バスケでならしてたらしい。 今はやめちゃって、男子のサポートしてて、よく見かけるんで覚えてたんだって。」 「はあ〜。」ため息ともつかない吉沢の声。 「つまりさ、あれは社会人チームへのスカウトじゃないかって思ったわけ。」 スカウト。 引き抜き？ 「もとのチームがつぶれたのが２年前頃だってそいつが言ってたから。 選手としてなのかどうかわかんないけど。 でもまだ力はあるぜ。相当インパクトあったらしいから。」 「そうだ。文化祭の時もあの人、『いい返事をくれないから。』って言ったよね？」 美那子が美琴を振り返る。うなづく美琴。 そう、そう言った。 返事って・・・バスケのこと？ 「試合を見に行ったってことは、先生もそのつもりがあるんじゃないかな。 もったいないって。選手だったんだからさ。」 「えー。じゃ先生、ほんとにやめちゃうの？ 学校。」 その言葉が胸に刺さる。やめちゃう？ 「先生がやりたいんだったら、絶好の機会じゃん。」 「でもさ、文化祭の様子だと、断ってたんじゃない？」 「それがここに来てその気になったってことかな。」 「また大騒ぎだね。でも、あたしたちだって大騒ぎだよ。顧問いなくなっちゃう？」 「葛西に知らせておくか？」 そこへ担任がやってきたので、あわてて皆席に着いた。 美琴は夢遊病者のように、その日を過ごした。 羽矢の授業もあった。このところ伏せがちだった顔をあげて、まじまじと見つめる。 いなく・・・なるの？ 聞けない問い。 そんな美琴を、羽矢は時々驚いて見ていた。 頭の中は空っぽで。でも不思議と笑ったり話したりできる。 心は遠いところに置いたままで。 どうやって家まで帰ってきたのか。気がつくと自分の部屋だった。 いなくなる。いなくなる。 もう顔も見られない？ 声も聞けない？ どう・・・しよう。 今日、母は夜勤だった。 のろのろと台所に向かったのは、習性のようなもので。 晩ご飯をつくろうと冷蔵庫を開けて、そこで板チョコを見つける。 明日はバレンタインデー。 あげられない。そう思うのに、やっぱり材料を買ってしまっていたのだ。 何かしていないと、おかしくなりそうな頭。 美琴はチョコを取り出すと、エプロンをつかんだ。 翌日のバレンタインは寒かった。 足元から冷気がまとわりついてくる、そんな真冬日。 でも、学校内は期待でそれこそハートが飛び交っていた。 うるさい学校も多いだろうが、ここはあまり言わない。 こういうときは見て見ぬ振りをしてくれる先生たち。 義理だったり、集団だったり、本命だったり。 授業の合間を縫って、あちこちで喜怒哀楽の図が描かれていた。 美琴のカバンにも入ってる。昨日作ってしまったチョコ。小さなパッケージに３粒。 あげられないのに。わかってるのに。でも持ってきてしまった。 昼休み。 「みーことっ」美那子が寄ってくる。 「あげた？」 「何を？」 「あのね。今日それを聞き返すの？」それはそうだ。 「あげない。」 「なんで？」 「・・あげられない。」 「えー。駄目になっちゃったの？」 「う・・ん。」 「そっか。話聞かせて欲しかったのに。駄目になったんじゃ辛いよね。」 「ごめんね、いろいろ助けてくれたのに。」 「いつかさ、教えて。先でいいから。」 「ん・・・美那子は？ 嶋くんにもってったの？」 「まだ。放課後約束してるから。」照れ笑いする。可愛いなあ、美那子は。 「両思いだもん、いいよね。楽しんでおいでよ。」 「うん。」 予鈴が鳴った。 放課後。今日は部活がある。美那子は約束してるからと先に帰った。 実験室には葛西と吉沢、それから１年生。 「よ。チョコくれないの？」 「なんであたしがあげるのよ。」 「冷たいな。義理チョコくらいくれよな。」 「先輩、これ。」１年生が差し出した。 「お。いいの？ サンキュ。」 「悪いね。」 男子２人のご機嫌が直った。笑ってしまう美琴。 笑えることが不思議。 「先生は？」 もらったチョコを食べながら、吉沢が葛西に聞く。 「うん。来ようと思ってたらしいんだけどさ。」 急に声を潜める。 「さっき、あの美人来たんだ。そしたらあわてて出てっちゃってさ。」 「ぐぇ」 吉沢のその声が自分の声に聞こえた。 笑顔が凍り付く。 「えー、またかよ。その美人、恋とバスケの２本だてだね、絶対。」 「そうかな。」 「そうに決まってるよ。女がさ、バレンタインに尋ねて来るんだぜ。あーあ。顧問どうする？」 「そんなの、俺達が決められることじゃないだろ。」 苦笑しながら葛西が言う。 美琴はカバンの中の小さな包みを切なく見つめる。 あげられないのはわかってたけど。 ううん。この先ひょっとしたらもう、顔すら見られない？ どんなに逢いたくてもー。 美琴の胸の内を誰も知らず、部活はいつもどおりに進行する。  |