 point.12 初詣 −うずくまる二人−
年始３日目。 クリスマスに羽矢と約束した初詣は予想外の展開になった。 暮れに当直で学校へ行った羽矢は、理科実験部の水槽を見に来た葛西と逢った。 ヒマだったし久しぶりなのであれこれ話し込んで。 帰り際に葛西が言った。 「先生、お正月はどうするんですか？」 「別に。どうってことないな。学校の用事以外は。」 「じゃあ、初詣。部活の連中と行きませんか？」 「え？ あ・・いや。」 「終業式に先生休んでて、みんな心配してたんですよ。柚華とか、吉沢も。」 そのあと美琴が来たなんて言えるはずもない。 「だから年明けに。いいでしょう？」 「あ・・あ。」これは断れないなぁ。苦笑する羽矢。 「じゃあ、俺みんなに連絡入れます。あ、全員呼びます？」 葛西の言ってるのはミーハー部員達のことだろう。 「あんまり多いとめんどい。おまえ達だけでいいんじゃねえの？」 「そうですね。」 集まれる奴だけでってことで、３日の午後、近くの神社に初詣と決めた。 羽矢はその夜、美琴に電話を入れた。 「葛西くんが？」驚く美琴。 「ああ。ちょっと断れなくてさ。そういう話にしちゃったんだよね。悪い。」 「あたしはいいよ。にぎやかで楽しいかも。じゃあ、そのうち連絡来るね。」 「ん。葛西が回すって言ってた。」 「３日ね。・・・まだちょっとあるなぁ。」 美琴が物足りなさそうに言う。 「すぐだよ。俺は明日も当直だし。おまえも暮れは家でいろいろあるだろ。」 「うん。お母さんのお手伝いしないと。明日からお休みなの、お母さん。」 「だよな。しゃあない。３日に。あ、みんなと別れてからうち来いよ。」 「いいの？ うん。」美琴の嬉しそうな声に微笑んだ。 大掃除やらおせちづくりやら。開けて年賀状やら年始の挨拶やら。 ３日まで結構忙しいのに。美琴にとってはやけに長い気がした。 ようやくその日。 待ち合わせの神社の境内に３０分も前に着いてしまったのは、勢い余っているから。 もう逢いたくて逢いたくて。自分でもおかしいと思ったくらいだ。 キョロキョロしながら、しんしんと冷える境内で足踏みをする。 やっぱり早く来すぎたかなぁ。 「美琴。」 呼ばれて振り返ったら、羽矢がいた。 「琉斗さんっ。」 思わず走り寄る。とびっきりの笑顔がなんとも可愛い。 「バカ。今日はそれまずいぞ。」 「え？」 「名前。」 「あ・・あ。そっか。せっかく練習してたのに。」 「練習？」 「呼び慣れるように、何度も呼んでみてるの。」 「おまえね。練習することか？ それって。」 「だって・・・なかなか逢えないんだもん。」 口をとがらせる様子に笑ってしまう。 「大体りゅ・・先生だってまずいよ。あたしの名前。」 「あ。そうだな。つい。」 目を合わせて吹きだす。それにしても、なんだかこいつ・・だんだん？ 美琴を見ながら、密かに思う羽矢。 ショートコートに黒皮のパンツ、Ｔシャツのピンクがビビッドなアクセント。 ボブがちょっとのびて、それがパラッと落ちる。 待つことと久しぶりに逢えた嬉しさが、美琴を綺麗にしていた。 「先生ー！ 美琴ー！」 美那子が来た。見れば葛西も吉沢も。１年生も来た。 「よ。」 「駄目よ、先生。年の始めくらいはピッとしないと。」美那子がたしなめる。 「あけましておめでとうございます。」生徒にそろって頭を下げられて面食らう羽矢。 「え、あ。おめでとうございます。・・・もういいよ。固いのは抜き。」 「先生らしいね。」 「とりあえず、お参りしようぜ。」 ガヤガヤと一団になって初詣になった。 まだ三が日なのでそれなりの人。 ここは地元では名の通った神社なので、集まる人目当てに屋台もたくさん出ている。 にぎやかだ。 お参りをすませたあとで、その屋台をのぞいて歩くことになり全員でそぞろ歩き。 「リンゴ飴食べようよ。」 「おれ、焼きそばがいいな。」 「お昼食べてないの？」 「屋台は別でしょ。」 あちこち飛んで歩く皆のうしろを、美琴と羽矢が笑いながらついていく。 並んで歩くだけで幸せな気分の美琴。羽矢も似たようなものだった。 美琴の首筋に光る金。つけてるんだ。あの金鎖。 羽矢の視線を感じて、黙ったままちらっと鎖を引っ張ってみせる。染まった頬もピンク。 逢いたかったのは羽矢も同じで。 だから美琴同様、ずいぶん早く着いてしまったのだ。言わないけど。 「美琴〜。ガラス細工見ない？」 「見る。今行く。」 走っていく。こういうときは自分は教師なんだなとやっぱり思う。 引率だな、遠足の。クスッと一人笑い。 「先生、射的やろうよ。あそこ。」 吉沢に誘われてその気になった。 「よしっ。勝負するか？」 美那子や１年生とガラス細工を見ていた美琴は、 向こうに破魔矢を売っているのを見て、そっちへ走った。 母に頼まれたのだ。忘れないうちに買っておこう。 どれにしようかあれこれ迷って。ようやく破魔矢を買って。 振り返ったら・・・誰もいなかった。 「あ、あれ？」 あわてて捜してみる。でも人混みの中でわからない。 「美那子ー？ 葛西くーん。 せんせーい。」 応答はない。やだなあ、高校生にもなって迷子になったの？ また笑われちゃうよ。 キョロキョロしながら捜し歩いていたら、後ろから声をかけられた。 「柚・・華？」 声のする方を見た。目を丸くする。こんなところで。 「神岡くん。」 「ひとり？」 「ううん。部のみんなと来たの。あたしはぐれちゃったのよ。捜してるところ。」 「おまえ、はぐれやすいもんな。」 憲一がクスッと笑う。そうだ。この人知ってる。デートでもあたし、よくはぐれたっけ。 「神岡くんこそ、彼女と一緒じゃないの？」 別に皮肉でもなくさらっと聞いたのだが、憲一の答えは歯切れ悪い。 「いや・・・。」 あれ、あたし悪いこと聞いたのかな。 「俺達さ、もう別れたんだ。」 「もう？」 言ってからまずいと思う。憲一が苦笑いする。 「そ。もう。」 「ごめん。でもどうして？」 「彼女が別の奴とつき合いだしたんだ。バスケ部の。」 「・・・そう。」 何も言えない。憲一は美琴をじっとみる。 「柚華さ、なんだか印象変わったな。」 「え？」 「なんか、柔らかくなった。綺麗になったし。」 びっくりして赤くなる。こんなこと前言わなかったのに。神岡くん。 「あのさ。今さらなんだけど、もっぺん俺とつきあわないか？」 びっくりの２乗・３乗。驚きで声も出ない。 視線を反らそうとして踏み出したら、砂利を踏んづけてよろめいた。 「きゃっ」 「あぶないっ。」 あわてて憲一が抱きとめてくれたけど、逆に焦った。 「ご、ごめん。」 パッと離れる。余計に赤くなるその顔をみつめてる憲一。 「どうかな。」 そんなこと言われたって。 「あなたがあたしをふったんだよ？」 「・・・わかってるよ。ごめん。」 「何か変な期待してない？ あたし、あの時から変わってないよ。少しも。」 言ってる意味わかるでしょ？ 美琴の目がそう言う。 「そうなのか？ でもさ、俺も。」 「それに、あたしの気持ちはもうあなたにないから。」 静かにはっきりとその目に宣言する。 「髪と一緒に切って捨てたの。わかってると思ってた。」 うつむく憲一。 「ああ。わかってるよ。でもさ。このごろ柚華、やけに綺麗になるから。 なんか・・・後悔したんだ。すごく。」 「気のせいだよ。あたしはあたし。」 「誰か、他に好きな奴できた？」 問い直されてためらった。そこで呼ばれた。 「みーこーとー。」 憲一の向こうにみんながいた。その一番後ろに羽矢の姿。 あたしの。 憲一に向き直ると頷いた。 「うん。いるの。好きな人。だからごめんね。」 それだけ言って、美琴はみんなの方へ駆けていった。 流れるようにかすめたボブの髪。 あの髪が長かった頃。とても好きだった。 パーマをかけて色をつける子が多い中で、その髪は美琴そのままに見えた。 ストレートで染まらない心。 でも。待てなかったのは俺なんだもんな。逃した魚か。 憲一はため息をつくと、背を向けた。 「どこいってたのよ。捜したんだから。」美那子が文句を言う。 「ごめん。破魔矢買ってたらわからなくなって。でもあたしも捜したのよ。」 「さっきの、神岡だろ。」 吉沢の遠慮のない質問。 「う・・ん。」頷いてチラッと羽矢を見る。なんだか難しい顔？ 「寄りもどったの？」 「ち、ちがうよ。たまたま出くわしたの。」 「あいつさ、柚華のあとにつきあいだした１組の女子と、また駄目になったって？」 「詳しいね、吉沢くん。」呆れる美那子。 「まあね。てっきり柚華に戻るつもりかと思ったよ。 終業式頃、ずっと柚華見てたんだぜ。知らなかったろ。」 「嘘。全然。」 「ほーんと、吉沢ってそういうことばっか鋭いよな。」 美那子が美琴を引っ張って小声で聞く。 「ねぇねぇ、こないだの電話、まさか神岡くんじゃ？」 「違うって！ やめてよ。」 さっきから一言も発しない羽矢が気になる。 そしたら急に。 「さて。ぼちぼちお開きでいいか？」 「えー。先生、まだ３時じゃん。どっかで遊ばない？」 「悪いな。正月は顔出すところもあるから。このくらいで勘弁しろよ。」 「そっかー。じゃ俺達はカラオケでもいかねえ？」 「あ、いいね、それ。行こう行こう。」 盛り上がるみんなの中で困る美琴。これじゃ抜けられない？ 「じゃな。また新学期。」 「先生、さよなら〜。」 「始業式、遅刻しないでね〜。」 「それはおまえらだろうが。遅刻するなよぉ。」 軽口を叩きながら。でも美琴とは一度も目をあわさず、合図もくれないで。 羽矢は帰っていってしまった。なんで？ 美琴は半ば茫然とする。 「美琴。行くよ〜。」 ショックで美那子に引っ張られるままに、美琴はカラオケになだれ込む羽目になった。 楽しげに唄って騒ぐ皆の中で。 気持ちがついていかず、笑顔だけ貼り付かせている美琴。 マイクがくれば唄うけど、心はぐるぐると羽矢を追いかける。 どうして？ 何か怒ってたの？ 神岡くんと話してたから？ でもあれは。 胸に渦巻く思い。 ５時に解散した。 「じゃまた新学期に。」 「今年もよろしく。」 「バイバーイ。」 皆と別れて家に帰りかけて。でも美琴は方向を変えた。 行こう。逢ってこよう。 あれじゃ何がなんだかわからない。 歩いていたのがだんだん駆け足になる。 着いたときには息が切れていた。走りどおし。 来るのは２度目だ。階段を駆け上がって、３０１号室のドアを叩く。 「・・・琉斗さん？」 答えが無くていないのかと思ったとき、カチャとドアが開いた。 「何？」のぞいたその顔はまだ怖い。 「・・・聞きたいことがあって。」萎える気持ち。必死だ。 難しい顔のまま、羽矢はドアを広く開けた。 入れということなんだろう。美琴はちょっとためらってから、あがりこんだ。 こないだよりは片づいている。もともと綺麗好きなんだろう。 ソファに腰を下ろすと、ドアを閉めた羽矢がその横に立つ。 「で、何？」やっぱり怖い声。なんで？ 「あの。あたし、何かした？」 言葉を紡ぎ出すのが大変だ。こんな冷たい声。 「何かって？」 「だって。怒ってるでしょ、ずっと。」 「別に。」背を向けて髪をかきあげる。 「嘘。怒ってるよ。・・・迷子になったから？」 「おまえが迷子になって、なんで俺が怒るの？」 「・・・じゃどうして？」 どうして？ 姿が見えなくなった美琴。 「しょうがないな。」 そういいながら皆で捜し歩いていたら。 背の高い羽矢が最初に美琴をみつけたのだ。美琴と憲一を。 何を話しているのか遠くてわかるわけもないけど。 ２人並んでいるその図が、妙に似合っていた。高校生同士だもんな。 本来美琴の相手って、あれくらいが普通だ。 そう思ったことに悔しくなる。 止まっている羽矢の視線に吉沢が気づいた。 「あそこだ、柚華。誰か・・・あれ、神岡じゃん。」 「ほんと？」 「神岡さ、まだ実は柚華に未練あるんじゃないかな。」 「えー？ ふられたのは美琴だよ。」 「だってさ。」 俺の前にあいつとつきあっていた男。 話している２人の雰囲気が、なにかこみいっている。 ちょっと赤くなる美琴が見える。 おまえね。そういう顔で他の奴を見るなよ、と思ったら転びかけて。 抱きとめられる。 「あれ、なんかいい雰囲気じゃん？」 「違うんじゃないの？ 美琴、変なところでドジだから。」 「けどさ、神岡の目つきがさ。」 見ているうちに沸き上がってくる衝動。走り寄って引き剥がしたかった。 俺のものだと断言できたら、どんなに。 美琴はまだ、神岡のこと気にしてるんだろうか。 胸を噛むちろちろとした炎が、次第に大きくなる。 こっちに気づいて走ってきた美琴だけど、皆がからかっているのも腹立たしかった。 自分で自分の制御ができなくなりそうで、その場から逃げ出したのだ。 なのに。のこのこ来るなよ。危ないぞ。 そう。危ない。 「柚華」 その呼び方にビクッとして見上げる。 名前じゃない。この呼び方のときは、先生。 「もう帰れ。遅くなる。」 拒絶？ ほんとにあたし、何をしたの？ 美琴は唇を噛む。 「今日は帰った方がいい。途中まで送ってやるから。」 だんだんと命令から懇願に変わっていく羽矢。 早く帰れ。帰ってくれ。でないと。 「聞こえたろ。柚華。」 うつむいた美琴の頭が、ブルンブルンと横に振れる。 「いや。」 「おまえね。」 「いや。」 「怒るぞ。」 「怒ってもいや！」美琴が顔をあげる。その目からもう涙がこぼれている。 「このまま帰るのはいや！ 何怒ってるの？ 言ってくれないとわかんないよ！」 涙がぽろぽろ落ちるのに、その瞳は強くて綺麗で。 どうしてこう、こいつはいつも俺の感情をそのまま引っぱり出すんだろう。 それじゃ・・・保障しないぞ。 「わかんない！」 叫んだ美琴。 次の瞬間、羽矢がその体をだきしめてソファに倒れ込んだ。 「り・・ゅうと・・んっ」 両腕を封じられて唇を塞がれる。深く深く絡め取るキスに声も出なくなる。 「んっ・・んんっ！・・」 いつもの優しさはなく、覚えたばかりの深さともちがって、 あまりにも激しくて執拗な大人のキスについていけない美琴。 息もできない。苦しい。 やっと離れた唇に荒く息継ぎする。が、射抜くようなその視線に息をのむ。 「なんでだって？ おまえが目の前で、昔の男と仲良くしてるからだろ。」 「仲良くなんて・・・」 「あいつと別れた理由は聞いたけど、なんでキス以上は拒否なんだ？ それ、言ってないよな？」 美琴がぐっと詰まって黙り込む。 「ふーん。言えないんだ。おまえさ、実はその手で男を手玉に取ってない？」 思いもしない言葉に目が見開く。 「大体、こっちはお預けくらっていい子してるっていうのに。 そっちは昔の男相手に赤くなったりしてるんだからな。馬鹿馬鹿しいぜ。」 「り・・」 「おまえね、そうそう男が言うこときいてくれるって思っちゃ駄目だぜ。 生殺しにも限界はあるの。俺は帰れって警告したからな！」 言葉も出せない美琴の唇がもう一度塞がれた。荒く激しく。 あっという間に手が胸に触れる。 「んっっ！・・・あっ・・・・や・・あぁっ！！」 美琴の抵抗は、今の羽矢には挑発にしかならない。 ショートコートの下のピンクのＴシャツを上から揉みし抱く。 「やっ！・・・やめっ・・・！！」 首筋の白さが凶暴さをさそって。何度も口づけるその肌。初めて咲く赤い華。 体は体に押さえ込まれ、手はＴシャツの下へもぐり込む。 「り・・りゅうっ・・はなっしてぇっ」 怖い。怖くて怯える。 素肌に初めて感じる羽矢の手の大きさに、背中を走る何か。 皮膚とブラの間にしのびこんだ指は、お碗のような胸を包み込む。 全身がびくりと震える。 Ｔシャツがまくりあげられ、美琴の２つのふくらみが蛍光灯に浮かび上がった。 「いっ、いやぁぁぁっ！」 さらされる自分の体に羞恥と恐怖で悲鳴をあげる。 羽矢の耳には何も入っていない。舌がその胸を辿っていく。 もういちど叫びかけて、美琴の唇に何かががあたった。 金属の味。羽矢のくれた鎖。 「似合うじゃん。」そう言った笑顔。 「はやいとこ解禁しろよ。」それから苦笑。 あたし、自分勝手しか言ってなかった？ 琉斗さんにも。神岡くんにも。だから？ 最後はみんな離れていくんだろうか。 みんな。 美琴の抵抗が消えた。 全身から力がぬけて動かなくなる。 抵抗を押さえ込むことに夢中になっていた羽矢は、我に返った。 口づけていた肌から顔を上げて、ゆっくりとその顔をのぞきこむ。 美琴は目を閉じてしまっていた。涙はまだ伝って落ちる。ぬれている頬。 キュッと噛んだ唇が震えている。その体もかすかに。 「美・・琴？」 名前を呼ばれて。 おそるおそる開いた眼が。 恐怖とおびえと、それから？ 「・・・んな・・い。」かすかなつぶやき。 「・・めんなさ・・い。」 もう言葉は出ない。眼を閉じてしまう。またつたう涙。 なにやってんだろう。俺は。 なんでこいつがあやまってるんだ？ バカかな。襲われて謝ってどうするんだよ。 抵抗もせず泣いている美琴がどうしようもなく辛い。 羽矢の凶暴な想いは霧散してしまった。 抱きしめるとまた怯える体。心が痛い。 「・・・悪かった。」 美琴の耳にそれは届いたけど動けない。 羽矢は体を離すと、ソファの上の美琴を抱き起こした。 震えながら、でも無意識に乱れた着衣を戻す手。 羽矢はその髪を梳いてやる。ゆっくりゆっくり。その顔を美琴は茫然と見つめた。 なにかが通り過ぎたこの部屋。でも。 それはあたしのせい？ 「・・・とさん？」 かすかに絞り出す声。呼ばれて羽矢が眼を向ける。 「早く帰れ。」 声は静かだけど低くて哀しい。 「おれがまた壊れないうちに。」 はっきりと告げる。 「帰れ・・柚華。」 美琴がふらっと立ち上がる。 おぼつかない足どりでコートと破魔矢を取ると、玄関に向かう。 靴をはいてノブに手をかけてから止まる。ゆっくり振り返る。 羽矢はソファに座り込んでいた。足に両手をもたせたまま、うつむいている。 「・・・先生？」 その呼び方に羽矢が顔を上げた。 「・・・あたしの母ね、３５歳なの。」 唐突に美琴は話し始めた。 「あたしは母が１８歳の時の子どもなの。高校３年だったって。」 何だろうと思った羽矢が驚く。 高校３年。美琴とたいして変わらない。 「母と父は同級生で。高３であたしを妊娠したから、卒業と同時に出来ちゃった結婚して。 でも２年で離婚。それから母があたしを女手一つで育ててくれたの。 だからうちは母子家庭。」 美琴の視線は彷徨う。 「だからって別に寂しいとか父がほしかったとかそういうことは全然なくて。 母って凄いパワフルな人で。恋人もいるし。 でも結婚はこりたって、形にこだわるのはやめたって言うんだけど。」 羽矢の視線にあわせない美琴の眼。 「母子家庭だからかな。母はいろんなことをとにかくオープンに話してくれて。 あたしが産まれた経緯とか、父のこととか、そのあとのことも全部。 だから恋愛に関しても、恋はいっぱいしろとか、でもＳＥＸは注意しろとか。 避妊しない男はだめだとか。」 クスッと漏らす儚い笑顔。 急に目つきが変わった。 「・・・今まで誰にも、母にも言ったことがないんだけど。 あたしは産まれてきたことに負い目があったの。ずっとずっと。」 その言葉に羽矢はさらに驚いた。 「母はもしあたしを妊娠しなかったら、別のもっといい人生があったんじゃないかって。 母って頭のいい人で看護大学にいくはずだったの。でも受験もできなくなって。 結局あたしを産んだ後、すごい努力して受験もし直して、看護師の資格をとったんだけど。 普通に進学してたら、今はもっとえらくなってると思うの。贔屓目じゃなく。 あたしの父に当たる人だって。大学諦めて就職したらしいけど。 もっと別の人生があったんじゃないかなって。」 哀しい哀しい微笑み。 「母があたしを大事に思ってくれてること、愛してくれてることは疑ったことないし。 あたしは今まで幸せに生きてきたと思うの。 でも、自分の生い立ちを聞いた時から、その思いはどうしても抜けなかった。ずっと。」 その目の色に羽矢の心が痛む。 「だからあたしには、恋愛に対する憧れとＳＥＸに対する恐怖が両方あって。 ＳＥＸは・・・どうしても自分の負い目につながって。 彼氏ができても、ある線以上踏み込むのが怖くてできなくて。 中学の時もそれでやめちゃったし。高校に入ってからはそのこと避けてたの。」 思い出すその頃。 「神岡くんとつき合うことにしたのは、優しくて話しやすかったし。 わかってくれるかなって。そう勝手に期待したの。 ・・・でもやっぱり無理で。あたしも・・・理由を話せなかった。誰にも言えなかった。 別れるとき、神岡くんに言われたの。『そんなの男は誰も納得しないぞ。』って。 そうだよね。いつになるかわからないお預けをさせる女なんて嫌だよね。 あたしが男でもきっとそう思うよ。」 天井をみあげる。食いしばる唇。 「別に、結婚するまでバージンでいたいとか、いようとか。 そんなこと願ってるわけじゃないの。結婚や約束が当てになるとも思ってないし。 ただ、安心したいの。相手を信頼したい。 もし間違っても後悔しないっていう自信が欲しい。好きとか嫌いとかだけじゃない何か。 そのためには時間が必要で。たくさん必要で。 でもどのくらいかかるのか、どうしたらいいのか、自分でもわからなくて。」 落ちかけるボブをかき上げる指。 「こんなんじゃ嫌だよね。無理だよね。でも・・・先生が初めてだったの。 『相手が納得するまで待てる』ってそう言ってくれたのは。 すごく安心したの。嬉しかった。・・・待ってて欲しかった。でも。 やっぱり勝手だね。わがままなんだね。」 うつむいて。右手が首筋で何か捜した。かすかな音がする。シャランと。 それから顔を上げた。 笑顔だけど。涙がまたこぼれている。 「ごめんね・・・先生。もう来ない。」 しゃがむと玄関に何か置いて。そのまま背中を向けた。 バタンとドアが開いてしまった。階段をかけおりていく足音がやがて消えた。 羽矢は動けず、ただ聞いているだけだった。 うつろに眼をやると、玄関の床に光るもの。 立ち上がって近寄ると拾い上げた。美琴の金の鎖。 手の中に握りしめて。 それでもやっぱり動けなかった。何故かわからない。 もう一度広げた掌で、その鎖は所在なげに弧をえがいてうずくまっていた。 ２人の心のように。  |