 point.8 テスト終了 −キスの意味−
テストが終わった。 羽矢の担当科目は、最終日だった。 授業の担当は当然、美琴のクラスだけじゃないし、 監視役としても美琴のクラスには行くことがなくて。 結局逢う機会がないままだった。 どうせ終わらなければ、つかまえることはできない。 そう思ってはいたのだが、どこか焦っている自分は意識していた。 携帯も美琴からはかかってこない。 どうもおかしい。理由がわからなくて参っている。 テストが終わってホッとするのは生徒だけで、教師はその後の方が忙しい。 添削と各クラス単位での集計・学年での集計。 じき学期末なので、成績もつけなくてはならない。テスト後の方が大変なのだ。 羽矢も例外ではないから、その夜から忙殺された。 仕事だからいい加減にもできない。その辺は性分だ。 終わらせないと美琴をつかまえることもできないから、思いっきり馬力をかけた。 再開している部活にも顔を出してない。 唐があの言葉どおり親衛隊をやめると言ったらしく、他の子達も影響されて迷っている。 そういう噂は聞いていたけど、それは本人達の問題だからと気にしなかった。 とにかく終わらせよう。 自宅のアパートで、採点をすませた羽矢が難しい顔をしている。 目の前の机の上には、２年４組の解答用紙。 採点と集計・平均点等を出し終えたのだが。 どういうわけだ？ 羽矢は美琴の成績を全部知っているわけじゃない。 本人はよく「あたし頭悪いから。」というのが口癖で、決してトップクラスではなさそうだが。 でも真面目なタイプでこつこつやっているらしく、職員室で担任から聞く噂でも、 どちらかといえば成績上位だと判断している。 羽矢の担当している物理・化学は、理科実験クラブに籍を置くだけあって興味が深いらしく、 いつも学年で３０番以内にいたし、クラスでは大抵５本の指に入るほどだった。 なのに。一体どうしたんだか。 今回の期末は確かに平均もあまり良くなくて、全体的に低いといえ。 美琴の点数はクラス３６人中１４位、学年で７０番台という、 これまでとはあまりにもかけ離れた点数だった。 羽矢の眉が寄ったままだ。 どこか具合でもわるかったのか。それとも？ テスト３日前のあの電話。美琴の様子がなんだかおかしかった。 なにか？ 明日クラス担任に、他の成績に関しても聞いてみよう。 もしかして、俺が原因ってことだと・・・まずいよな。 ちょっと頭をかかえる羽矢。 ため息をついて、別のクラスの集計にかかった。 翌日、２年４組の白石先生にテスト結果を届ける。 傾向と留意点・生徒について説明する。 「そうそう、柚華ですが。」 「はい？」 「今回、随分成績を落としてるんですが、他の教科はどうなんでしょう？」 「柚華が？ おかしいですね。まだ全部は出そろってないですが、 特に他は変わってないと思いますよ。そんなに？」 資料を示すと担任も首を傾げる。 「これは・・・ちょっと極端ですね。ヤマでもはずしたのかな。」 「いや、あの子はヤマをかけるタイプじゃないでしょう。」 「そうですよね。・・・体調でも悪かったのかな？」 「凡ミスが多くて。記述問題もどうも。」 「うーん。わかりました。ちょっと注意してみます。あ、柚華は部活が確か？」 「ええ。俺のところです。理科実験。」 「じゃ先生からもちょっと聞いてみてくれますか？」 むろんそのつもりだったが。 「はい。わかりました。」 その日の午後。 冬休み前の部活もあと数日だ。 久しぶりに顔を出すつもりの羽矢。このところ親衛隊もおとなしいし。ちょうどいい。 用事をすませてから、実験室へ向かった。 のぞいてみるといつものメンバー。 葛西を中心に、吉沢や美那子、１年生達が地味な活動を楽しんでいる。 だが美琴がいない。滅多に休むことはないのに。 今日は授業がなかったから、顔を見ていない。 「羽矢先生。」葛西が声をかけてきた。 「よう。どうだ？」 「ええ。最近静かですよ。」吉沢がニヤニヤ笑う。親衛隊のことだろう。 「落ち着いていいじゃないか。」 「人数が来春、どっと減るかもしれませんね。」 「どうかな。新入生が入るから。おなじかも。」葛西が羽矢を見て笑う。 「柚華はどうした？ 珍しいな、いないの。」 「美琴、今日は先に帰っちゃったんですよ。」 美那子が説明する。 「なんかこの頃変で。」 「せっかくテスト終わったのに、まだ１回しか来てないよな、柚華。」吉沢も言う。 「体調が悪いのか？」 「いえ。そうでもなさそうなんですけど。」美那子は首を傾げるだけだ。 しょうがないな。 話題をそらして、せっかくだから少しつき合って。 ４時半頃先に実験室を出た。 「悪いな。用があるから。おまえらも暗くなるから、ほどほどにな。」 「はい。」 渡り廊下まで下りてから、携帯を鳴らした。美琴の番号。 なかなか出ない。あいつ、電源切ってるのか？ そう思ったときやっとつながった。 「柚華？」 「先生？」 なんだか凄く久しぶりの声だ。こんなに細かったかな。 「具合でも悪いのか？ 部活に行ったのにいないから。」 「すみません。ちょっと。」 語尾をにごしてはっきり言わない。 これじゃらちがあかない。羽矢が苛立つ。 「具合が悪いんじゃないんだな。」 「はい。」 「今どこだ？ 家か？」 「公園です。」 「公園？」 「・・・鉄橋のそばの。」 了解した。 夏に逢ったところだ。一緒に雨宿りした小さな公園。 なんであそこに。 「そこ動くな。行くから。」 「え？ でもあの。」 「動くなよ！」 有無を言わさずに命令して切った。 それから職員室へ向かった。荷物を持って速攻だ。 美琴は公園でたゆたっていた。 一度家に帰ったのだが、着替えてからまた出かけて気がついたらここにいた。 このところずっとこんな感じだ。 部活も怖くて行けないでいる。羽矢に逢うのが怖いのだ。 テスト結果も悪いだろう。それも聞かれるに違いない。 いつもより確かに難しかったけど。 記述問題はもちろん、選択問題ですら気が散ってしょうがなかった。 読もうとしても、羽矢の顔と、こないだの唐のキスシーンと。 ごちゃごちゃと浮かんできてしまったのだ。 どうかしてる。わかってるのに、どうしようもない。 今から来る？ 逃げたかった。逃げようかな。でも。 ずっと逃げてもいられない。それもわかっている。 小さなブランコをキコキコ揺らしている美琴の姿は、頼りなくて悲しげに見えた。 近くに車を路上駐車させた羽矢は、走って公園まで来た。 高校からここまではかなりある。車なしだと２０分くらいかかるだろう。 たまたま今日は車で登校してたから助かった。 駐車場がアパートからちょっとあるので、面倒なときは歩いてしまうのだ。 いないかもしれない。あいつ、俺を避けてるよな。 公園が見えたとき音がした。 揺れるブランコ。うつむいて一緒に揺れる美琴。 くるぶしまでの長いスカートはやわらかく美琴の足首から、離れたり沿ったりしている。 冬の陽はもう暮れそうで、長い影を足元に引いて。 ボブヘアの髪も淋しげに悲しげに揺れていた。 なんで。 羽矢の胸が切なくなる。 なんでこの子はいつも、俺の感情を揺さぶるんだろう。 ツカツカと近づいていく。美琴が気づいて顔を上げた。 学校ですれちがってはいるけど。 二人で逢うのは、２週間ぶりかな。どこか不安なその顔。 「・・・どうしたんだ？」 いきなり問いをぶつけた。 美琴は言葉がでない。 「テスト、ずいぶん悪かったぞ。」 うつむいてしまう。言い訳できない。 「白石先生に聞いたら、他はそうでもないらしいじゃないか。」 羽矢は隣のブランコに座ると、ちょっと揺らしてみる。 「なんで物理・化学だけああなったんだ？」 唇を噛む美琴。 「おまえ、俺に何か聞きたいんだろ？」 口を開かない美琴に苛ついて、本題に入ってしまう。 美琴が目を上げた。 やっぱりそうか。その目の色が何か言ってる。 「なんだ？ 俺はテレパスじゃないから。言わないとわからない。」 美琴は視線を彷徨わせて、ためらっていたが、やっと口を開いた。 「テストの３日前。」 「ん？」 「日直の日。屋上へ行ったの。」 思い出す美琴。 あれから何度も思い浮かべた光景。 「唐さんが先生にキスしたでしょ。」 言い切るように言葉にして、羽矢の顔を見る。 見てたのか。 あの日、屋上で唐ともめて。 最後に唐が言いつのるから、つい面倒になってキスさせた。 そういえば階段を駆け下りる音が聞こえた気がした。 誰かにのぞかれたくらいにしか考えなかったんだが。 美琴だったのか。舌打ちする思い。 「あれは、ああしないと唐がケリがつかないからさ。しょうがないだろ。」 見られたのはまずったと思うけど、羽矢にうしろめたさはない。 あれはホントに一つの儀式で。 それで唐の踏ん切りがつくなら構わなかったのだ。自分には何の意味もない。 「意味はないよ。俺にとっては。」 そう。それが事実。 「うん。唐さん、親衛隊やめたって聞いた。だからそうなんだとは思うけど。」 美琴の言葉はしかし、言葉とは裏腹な気持ちを表している。 「じゃ何が聞きたいんだ？」 羽矢の声が苛立つ。 「先生にはじゃあ、キスって・・・何？」 思わぬことを聞かれて、羽矢は黙った。 キスって何？ 「先生、最初にここで逢ったときから。あたしにキスしてたよね。」 美琴の視線は、あの滑り台に向けられる。 「文化祭で好きって言ってくれる前から。あれも意味はないの？」 駆け引きじゃない、純粋な問いだから羽矢は言葉を失った。 そんなこと聞かれるなんて思ってもいなかった。 あのキスと、こないだのキスと？ キスはキスだ。 けれど。 「バカなこと聞くなって思ってる？」 羽矢の心を見透かすように、美琴が続ける。 「あたしだって彼氏いたんだし。キスは初めてじゃなかったよ。」 鉄橋の下をＪＲが走っていくのがみえる。ガタンゴトンと。 「だけど。先生にキスされたあとは、いつもいっぱい考えた。どうしてかなって。 最初に逢ったときも。体育館の時も。」 流れていく電車がゆっくりにみえる。 「意味のないキスがあるなんて思ったことなかった。」 羽矢をまっすぐ見て、美琴が聞く。 「意味のないキスならしなくてもいいんじゃないの？ 唐さんはそれで、ほんとに良かったの？」 小柄で華奢で抱きしめると折れそうなくらいなのに。 この子の瞳はいつも強い。弾かれそうな強さ。 突きつけられた疑問に、羽矢は答えられない。 あれでほんとうに良かったのかって？ 自分にとっては意味のないキスだ。面倒なだけだった。あれ以上言い合うのが。 まるで反応のない羽矢の態度にはっきりした拒絶を見て、 顔を涙で歪めると、何も言わず走り去っていった唐 夏樹。 それで良かったつもりだった。ケリがついたなら。 でも？ 確かにあれっきり、唐は羽矢に会いに来ることはない。 翌日退部届けも受け取っている。同じ親衛隊のクラスメートが持ってきた。 それはある意味、彼女がひどく傷ついたことも示していた。 他にも方法があった？ あったかもしれない。 俺は・・・面倒だったから。簡単な方法を選んだけど。 あの時、唐の気持ちのことは何も考えていなかったんだ。確かに。 だけど苛立つ。 じゃあどうすればよかったっていうんだ、こいつは。 「じゃあおまえは、俺に唐とつき合って欲しかった訳か？」 言葉がトゲになる。 「そうじゃないよ。」首を振る美琴。 「いつまでもあそこで押し問答してろって？」 「そうじゃないってば。」 「じゃあなんだよ！」投げつける苛立ち。 「だって・・・怖いんだもん！」 美琴の顔がゆがむ。その言葉の意味を測りかねる羽矢。 「意味のないキスがこの先もあるのかなって。 先生を好きな子はいっぱいいるんだよ。その度に見るのかなって。 あたしにくれるキスもやっぱり意味は無いのかも知れないって。」 「おまえね。」 「キスでそうなら。その先は？ それも全部意味がない？ そうなの？ 誰とでもできるの？」 「柚華！」 「だってわからない！ あたしはそういうキスならいらないもの！」 ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。 「だって怖いんだもん・・・。」 つぶやくとそのまま走り出した。 「待てよ！」 叫んだけど止まらない。背中が拒絶している。 羽矢は追いかけられなかった。 意味のないキスだからどうでもよかったのに。 意味のないキスならいらない？ 「怖い・・か。」 俺のいい加減な行動があの子を怯えさせたのか。 ガタンゴトンとまた電車が通り過ぎる。 その灯りが夕闇に浮かび上がりだしていた。 遠く離れていくそれは、美琴の心かもしれないと思った。  |