９月。始業式の日。
美琴のクラスはちょっとしたセンセーションになった。


夏休み明けで集まったクラスメートが騒いでいる中、美琴をふってしまった憲一は落ち着かなかった。ひどいふり方をした自覚があったから。こういうとき同じクラスってのは面倒だ。あれからもう２週間。どんな顔して会えばいいのか。

そのとき、女子の声があがった。
「え、美琴？　どうしたの」
皆が一斉に振り返る。思わず見た憲一はぎょっとした。長かったストレートがバッサリ切られて、おかっぱ程度の長さのボブヘアになっていた。

「ちょっとね」
「だって長かったのに。……神岡くんとなんかあったんだ？」
美琴と憲一のことはオープンだったので皆知っている。うわぁ、と憲一が思ったとき。

「ふられたのよ。悪かったわね」
いともあっさりと美琴が言い放った。
「え？　マジ？」
今度は皆の視線が憲一に集まる。
「マジよ。だから気分転換。もういいでしょ。神岡くんにもあたしにも、そのことは聞かないでよ」

美琴は鮮やかにクラスの好奇心の機先を制した。こう言われると面と向かってはもう聞けない。憲一がみやると視線に気づいて美琴がニコッとする。その笑みから憲一は目をそらした。

短く切った髪が何かを告げていた。

何事もなかったように２学期は動き出した。行事も多くて生徒は結構追われる。クラス役員も新しく選出され、美琴と憲一が一緒に行動する機会はもうない。

ホッとしたはずなのに。なんだろう。斜め前方の見慣れないボブヘアが気になってしょうがない。自分がよくわからない憲一だった。



もうひとり、新学期に美琴を気にしている男がいた。
羽矢だ。


担任じゃないから、美琴と羽矢の接点は授業と部活動くらいなものだ。２年４組での２学期最初の授業は、４時間目だった。

いつもどおり出席を取る。最後の名前に思い出す。そうか。このクラスだった。柚華　美琴ゆげ　みこと　。ついしてしまったキス。あのあと、何故か思い出すことが多かった、あの瞳。

「柚華」
呼びながら視線を走らせる。あれ、どこだ？
「はい」
思ったより近くで聞こえた返事に目をやって驚いた。肩にまとわりつくほど長かった髪が、ばっさり切られて別人のようだ。

「おまえ、切ったのか？　髪」
「あ、はい」
美琴もまたどうしようかと思いながら迎えた授業。羽矢のびっくりした顔と声に、ちょっと得意な気分だ。先生が驚くなんて。


「先生、柚華はふられたんだってさ」
「神岡も罪だよな〜」
クラスのお調子者が御注進する。なんだ、もうばれてるじゃないかと羽矢は苦笑を堪えた。証文の意味なかったかな。

神岡？　同じクラスか。
何気なく見るとあわてて視線をそらした男子が目についた。
「失恋か。ま、おまえ達の年頃はいろいろあって当たり前だよな」
「あれー、悟ったみたいに。似合わねえよ、センセ−」
「学期始めくらい、ビシッと決めさせろよな」

軽口で生徒を笑わせながら、羽矢は美琴を見ていた。授業を終えて職員室へ戻る間も考える。俺は何を気にしてるんだろう。


雨の中、とんでもない時に現れた教え子。知っているのに初めて逢った気がした。大人と子どもが同居している。そんな様子が妙に心をかき乱して。
つい、言い訳をつけてしてしまったキス。

あれは言い訳だったな。
俺はあの時、あの子にキスしたかったんだ。たぶん。

それはどういう感情なのか羽矢にもよくわからなかった。面倒くさいことは嫌いなのだ。だから。しばらく放っておこう。あっちも知らんぷりしてるみたいだし。それでも。

髪を切った美琴が前より綺麗になったと、密かに思った羽矢だった。





９月半ばの放課後。部活動のある日なので、美琴は理科室へ向かっていた。ミーハー部員をのぞくと実質は９名。３年生は受験でぬけてしまうので残るは６名ほどだが、好きでやっているのであまり気にしていない。

後ろから声をかけられた。
「先輩」
１年生だ。

「すみません。今日、１年生は体育祭準備で行かれないんです」
「そうなの？」
「ごめんなさい。２人とも役員でもないのに、駆り出されちゃって」
「仕方ないね。わかった」
見送ってから思い出す。たしか葛西くんも美那子も今日はダメって。吉沢くんが……どうだったかな？　ひょっとしたら一人かも。ま、いいか。


定期的にやっている、水槽のなかの微生物の観察をやることにした。顕微鏡とプレートを取り出そうとして、戸棚に鍵が掛かっていることに気づく。
「そっか。いつも部長が借りてきてるから」
次期部長の葛西くんもいないし。仕方なく借りに行こうと思ったとき、ガラッと理科室の戸が開いた。

「羽矢先生」
「柚華。ひとりか？」
驚いた顔で入ってくる。
「今日はみんな都合悪くて」
「葛西もいないのか。鍵をとりにこないからさ」
「すみません。今、借りに行こうと思ってたんです」

向かい合うとなんだか居心地が悪い。羽矢は妙にまじまじと美琴を見つめてくる。
「……なんですか？」
「いや。証文取った意味なかったな。おまえ、失恋したのバレバレじゃん」
『証文』と言われてちょっと赤くなる。

「なのに、ばらしてないな、俺のこと」
「だから言わないって言ったじゃないですか。あたしに関係ないし」
視線を避けるように横を向く。
「なのに……なんですか、あれ？　どこが証文なんだか」
「証文っていうか、口封じかな」

ニヤッと笑う顔にムッとした。
「先生！」
思わず噛みつきかける。
「でもさ、おまえなんで切ったの？　髪」
急に話題がとんだ。

「単なる気分転換です」
またそっぽ向く美琴。パラッとボブが揺れる。
「女の子が髪切ったらそれこそバレバレでしょ」
「ばれてもいいんです。っていうか、同じクラスだからどうせばれるし。なら最初に釘うっといた方が、お互いに楽だから」
「お互いに？」

羽矢にのぞき込まれて体を引く。
「おまえ、ふられた相手のためにそこまで考えたの？　バッカだねぇ」
「別に相手のためだけにやったわけじゃないから。あたしのためです」
「そうですかね？」

羽矢の声が意地悪な響きだ。問い詰められうつむいた美琴はしょうがなく口にした。
「……好きだっていったんですよ。彼が」
「何？」
「あたしの長い髪が好きだって。そう言ったんです」

水槽のそばにしゃがんで、中を見つめる。
「だから切りたかったんです。髪なんて短くても構わないから。切っちゃおうって。そのくせ切ってみたら結構辛かったんだけど。……切らない方がよかったのかな」

語尾は独り言になった。水槽の中は藻が繁殖していて、よく見えない。
ふいに髪に触れられてビクッとした。羽矢の指が髪を梳いている。

「バカだな。綺麗な髪だったのに」
悪態だけど、さっきまでの意地悪さがない。
「まあこれも悪くないさ」

ほんとは人に触れられるのは苦手なのに、嫌じゃなかった。彼の声音が美琴の胸をキュンと締め付ける。髪を切ったあの切なさを思い出してしまった。


ジョキッと切る音。バサッと落ちる音。
その瞬間思わず目をつぶっていた。

切り終えて鏡を見たら、綺麗に切ってもらえてて嬉しかったけど。立ち上がった足元に切り落とされた髪が黒く散らばっていて、まるで死体のように思えた。憲一を思ってた自分の死体。

髪を切るってこういうことなんだ。


知るはずもないのに。この人はまるで、その気持ちをわかってくれるみたいだ。優しい声。なんなんだろう。見上げると視線が合う。羽矢の指は美琴の髪をもてあそんでいたが、そのまま美琴の首筋をつかまえてしまう。

あれ？　まさかまた？
頭が疑っているのに、体が動かない。やだ。
かがみこんでくる顔。
美琴の目はまばたきも忘れている。レンズの向こうの瞳は読めない。
あたしなんで動けないの？

唇と唇が触れかけた時、ガヤガヤと声が聞こえてだんだん大きくなってくる。親衛隊？　スッと指が離れた。
「……惜しかったな」

またニヤリ笑う。なんなの、この先生。
赤くなる自分が悔しい。この震えはきっとばれてる。



立ち上がった羽矢が、顕微鏡を取り出そうと戸棚へ向かうと、親衛隊と呼ばれる３年のミーハー軍団が入ってきた。
「いたいた〜。センセー、ここだったんだ」
ひときわ目立つ声は、唐夏樹　から　なつき。３年の女子の中でもピカ一の美貌と脚線美だ。ウエーブをかけたロングヘアーがゴージャスだ。制服がなんとも危なく見えてしまう。

３年は部活を引退するのが普通なのだが、世渡りもうまい彼女たちは、すでに推薦で私立大への入学がほぼ確定しているらしい。よほどのことがないかぎり安泰の身だ。なので、２学期も心おきなく羽矢を追いかけ回していた。さらにパワーアップして。


「おまえたち、いくら推薦予定だからって、他の連中のことも考えてやれよな。うるさいだろ。」
「えー、静かにしてるじゃない。今は授業中じゃないんだから。」
「集団でいると、じゅうぶんうるさいんだよ。」
「先生が職員室から逃げるからでしょ。」
「逃げた訳じゃないだろ。今日は部活がある日だから、鍵を届けにきたんだ。」
その言葉に、親衛隊の視線が美琴に集中する。
「あら、一人だけ？」
さっきのキス未遂で、美琴はそれどころじゃない気分。


「先生。あたしも帰ります。一人じゃしょうがないし。」
「気にするなよ。どうせこいつらは外野なんだから。」
「ほんとに。じゃ失礼します。」
３年生に軽く会釈して、美琴は廊下へ出た。ホーッとため息。
迫力あるなあ。ちょっと近づけない、近づきたくない。
唇に指で触れてみる。
あたし、なんで動けなかったんだろ。あのとき親衛隊が来なかったら・・・？
こないだといい、まるで魔法でもかけられるみたいだ。
いつもの自分なら思いっきり逃げてるだろうに。
第一、親衛隊に見られたら確実にやばい。
唐さんたちは結構怖い。
先生に強引に接近しようとして、痛めつけられた女子もいるって聞いてるくらいだ。



「おまえらが脅すから、逃げちゃったろ。」
「いいでしょ。一人じゃつまらないわよ。どうせ。」
「あれ、２年生だっけ？　あんな子いたかな。」
「ああ、髪切ったから。印象違うんじゃないか？」
羽矢の言葉に夏樹が反応した。
「髪を切った？」
「ああ。２学期入る前に。」
「・・・先生、よく知ってるのね。」
「最初の授業で聞いた。」
「ふーん。」


人当たりがいいくせに、決して誰とも特定には関わらない。
羽矢のそんな態度を夏樹は知っていた。
親衛隊はそれでも、ちょっとは他の生徒より近づいてると自負している。
その羽矢が、一人の女子の髪の長さを気にしてる？　妙な感じだった。
「おまえら、ここにいろよ。この鍵、返してくるから。」
「えー。あとでいいじゃん。」
「主事さんがうるさいんだよ。無くすとイヤだしな。すぐ戻る。」
そういうと、出ていってしまった。
「あとでいいのにね。」
「ねえ、お茶入れようよ。」
親衛隊はいつものごとく、先生とのお茶会の準備を始めた。





羽矢は廊下を歩きながら、なんとなく美琴を捜した。
校舎と校舎をつなぐ渡り廊下に、美琴が立ち止まっている。
視線が校庭に釘付け。見ればランニングを終えたバスケット部が休憩している。
その中に見た顔。あれは確か柚華のつき合ってた・・神岡だったっけ。
女の子がかいがいしく世話を焼いている。
マネージャーだろうが、その様子はどうもいい感じに見える。
やっぱり２年生だな。名前は思い出せないけど。


２人を見ている美琴に眼を戻す。
悲しいとか悔しいとか、そんな表情は見えない。ただみつめて。唇をキュッと噛んで。
それから背を向けて歩き始めた。
ちょっと強がりに見える肩。ふと手が伸びて髪を背中でつかもうとして。
髪が短いことに今さら気づいたらしく、また立ち止まった。
空を握った自分の手を見つめる。
ブンブンと頭を２，３度ふると、今度は駆けだした。遠くなる姿。


『切ってみると結構・・・辛かったんだけど。切らない方がよかったのかな。』
さっきのつぶやき。交わした視線。触れた髪。
唇の震えについ吸い寄せられかけた。
なんだか、あの子を相手にしてると、いつもの自分じゃなくなる。
面倒なことには関わらないように、生徒とはきちんと線を引くのが常なのに。
仕掛けるのはいつも俺だ。なんでだろう。
さっきも親衛隊が来なかったら・・・。やばかったよな。
ちょっと自重しよう。
そう思うのに。
後ろ髪をつかめずに空を切った指が、やたらとせつなく眼に残った。