美琴が、羽矢「先生」にほんとに「逢った」のは、恋を失くした日だった。



夏休みも終わり近く。夏期講習のあと待ち合わせしたその日、美琴は彼と別れた。彼、神岡憲一とつき合いだしたのは5月。モーションかけてきたのはあっちの方だ。


新学期。クラス替えした２年４組で美琴はクラス委員を押しつけられた。渋々受けた時に立ち上がったのが憲一だ。同じクラスは初めて。
「じゃあ、男子はおれがやる」。

びっくりした。それまで話したこともなかったのに。憲一はバスケ部でそこそこもてるらしく、クラスの女子が騒いでいたっけ。

４月はクラス委員のやることが結構多い。２人で担任の用事をあれこれ片づけさせられた。話してみると気さくで優しい彼。話もあって良かったなと思った矢先のゴールデンウィーク。憲一から電話があった。

「つきあわないか」

うれしかった。
でも、もうひとりの自分が胸の奥で結末を予知していた。



中学の時には彼氏がいたが、高校に入ってから美琴は誰ともつきあっていなかった。部活は理科実験部。地味な名前と同様、活動も地味だ。人数だけは多くても大半は幽霊部員……ミーハー部員で女子ばかりなのはわけありだ。それなりに楽しくやってきた。彼氏が欲しくないわけじゃなかったけれど。


憲一はなぜ自分とつき合おうと思ったんだろう。
聞いてみたことがある。

「んー。おもしろかったから」
「……どこが？」
「ぼけっとしてるようでやたら鋭いところとか、甘ったれなようで変に突っ張るとことか」
「ほめてるの？」
「ほめてるよ」
文句を言いながら胸は弾んでいた。


なのに、時が経つにつれおかしくなった。哀しいことに予知どおり。そして夏休みの今日、決定的に別れを告げられたのだ。
「そんなんじゃ男は納得しないよ」

背中で投げていった「バイバイ」。憲一の投げた台詞は、降り出した雨の中アスファルトに落ちた。色紙のようににじみ出して溶けて流れていくのを美琴はただ見ていた。

そうなんだ。やっぱり、納得する人なんていない。
でも、自分だって納得したい。


空を見上げるとグレーのグラデーションの雲から、無数のしずくが降り注いでくる。叩くように。刺すように。包むように。受け止めるつもりになれば、針だって平気になれると思った。

−あたしはあたしにしかなれない−


アスファルトが雨で塗りつぶされた中を美琴は歩き出した。傘はもっているけど、さしても濡れる。降っているのは心だから。



駅への道の途中に橋が架かってる。下を流れるのは、川じゃなくて線路。かなり広い。そこで「先生」を見た。

物理化学専門の羽矢先生。


学校へ赴任してきたのは去年の春。美琴の入学と一緒だった。先輩によると地味な理科実験部に幽霊・ミーハー部員がどっと増えたのはこの時らしい。それまで顧問だったおじいちゃん先生が退職し、羽矢に代わったからだ。

１０人に足りなかった部員が３０人を越えた。今年は４０人近い。なんとも凄い人気だった。まあ、無理はないかもしれない。


まだ３０前でいわゆるかっこいい系だ。背が高くて、細くて、サングラス兼用のメガネをかけている。良く笑うけど、笑い方が皮肉っぽい。口の端でニヤッとする。それがまたいいのだと騒がれる。

授業もいたって軽い。でもおもしろい。男子にも不思議と人気だ。こだわらず軽口・タメ口で全然気にしない。あわてることなど滅多にない。いつだったか授業中、間違ってボヤをおこした生徒にも冷静沈着、すぐ消火してしまった。あの時は美琴もちょっと見直したものだ。

最近ばれたところによると、バスケもうまいらしい。なんで顧問やらないのと聞かれて、人手が足りないところを助ける方がいいんだと言ったそうだ。確かに理科実験部はおじいちゃん先生の退職で、顧問がいなくなって困っていたけれど。


でも部活にはいい加減だ。大半はミーハー部員だからしょうがないところもあるし、美琴はやりたいことができるから文句もない。ほんとにやりたくて入った部員たちと週３回の活動を続けている。

先生は来たり来なかったりだ。先生が来ると、ミーハー部員もうるさいからどっちでもかまわない。時々すごく面白い話をしてくれる。実験を思いもしない方向へ向けたり。だてに先生じゃないんだと皆で感心することもあった。


総じて言えば羽矢先生とは、女子に絶大な、男子にもそれなりの人気があって。他の先生方とも特にもめ事もなく、うまく授業もこなして、部活動顧問としても悪くない、いわゆる人気の先生だった。

美琴にとってはそれ以上でもそれ以下でもない。面白いなとは思っても、学校で見る彼はそれだけでしかなかった。



その羽矢が橋の上で誰かと向かい合っている。始めは彼とわからなかった。私服だったし、何より学校では見たことのない表情をしていたから。

難しげなその顔を、向かい合っていた女性が突然ひっぱたいた。まだ遠く離れていた美琴にも音が聞こえるほど思いっきり。でも羽矢は予期していたのか、その人を見つめるだけだった。

女性はくるりときびすを返すと走り去った。やっぱり羽矢は見ているだけ。天を仰ぐと手をポケットに入れてうつむいた。その仕草はさっきの自分と似ていた。背中が淋しかった。


余裕のあるふざけた態度しか知らなかった美琴が、初めて出会った「羽矢先生」


うつむいた頭にふりそそぐ雨が痛かった。自分を見ていたのかも知れない。近づいて傘をとりだす。背の高い彼の頭の上にさしかけた。うしろから背伸びして。

物思いにふけっていたのだろう。しばらくしてからハッと振り向いた彼。最初は相手が誰かわからなかったらしい。まじまじと見てからやっと漏れた台詞。

「……柚華ゆげ　？　２年４組の？」

笑ってしまった美琴。よくできましたと言うべきだろうか。クラス委員だし、部活やってるし、これでも接触は多い方だが、たくさんいる生徒の顔を覚えるのもらくじゃないだろう。

笑った自分に驚きもあった。
笑えるんだな。こんなときでも。


「なんでここ？」
「通りがかりです」
「いつから？」
バレバレだろうか。でも知らんぷりしてようと思う。

「これ、どうぞ」
美琴は傘を押しつけた。
「自分は」
言いかけて、すでにびしょぬれの美琴に目を丸くする。

「傘、さしてたんだろ？」
「あたし、今いらないんですよ。だから」
「いらない？」
「さしても濡れちゃうんです。だからいらない」

こんなわけのわからないこと言われても困るだろう。そう思ったのに。
羽矢は美琴の顔を見てフッと笑った。

思わず目を奪われた。笑うのを初めて見たわけでもないのに。授業でも学校でも部活でも見たのに。こんな優しい顔は初めての気がする。


「俺も今、いらないんだ。」

言いたい意味はわかった。だからといって濡れるのを見ていることも、そのままでここを去ることも美琴にはできなかった。

羽矢が自分に見えた。助けを求める自分。


「じゃ、雨やどりしませんか？」
「え？」

美琴は羽矢を無理にひっぱって、橋の向こうにある小さな児童公園まで連れていった。石でできた小さな滑り台は裏側に、大人が３人くらいはもぐりこめるサイズの穴がくりぬかれている。そこに羽矢を押し込んだ。


「ごめんなさい。濡れたいのかなとは思うけど。濡れてる先生を今、あたしが見たくないの」

やっぱりわけのわからない台詞だ。羽矢はちょっと呆れた顔をして、それからふいに美琴を引っ張った。

「じゃつきあえよ。雨やどり」
「え？　うわ」

そういう成りゆきで。
美琴は羽矢と並んで、降り止まない雨を見上げることになった。


夏の夕立は激しくて短いのが常なのに、今日に限ってだらだらと止まない。未練のように。いつまでも銀の糸が伸びては地面に届く。降っているときは綺麗なのに地面についたとたん、それはただの水たまりになってしまう。

ふと口に出たのは。

「涙雨」
「ん？」
「泣いてる人がいると、空も泣くって。昔、母が」
「ふ…ん」
「今日はたくさんいるのかな」


羽矢がこっちに視線を走らせた。長いロングストレートの髪はすっかり濡れそぼって、肩に背中にまとわりついている。みっともないに違いないと思ったら。
「ふられたか？」
いきなり急所を突かれた。

この先生、こういうところがあるのよね。


「……もうちょっと優しい聞き方ないんですか？」
「こんなのはどう聞いたって同じだろ」
「それはそうだけど。じゃ、聞かないで下さいよ」
「先に聞いたもの勝ちだろ。この場合」
「えー。あたし聞きませんよ」
「聞かないのか？」
意外そうな顔をされる。

「聞いて欲しいですか？」
「いや」
「聞きたくないし。自分だけで手一杯です。でも、先生のファンが知ったら大変ですね」
ちょっとからかい口調になる美琴。


「先生、親衛隊がいるんですよ。知ってます？」
「親衛隊？　冗談だろ」
「ほんとです。部の３年ですよ。原さんとか森川さんとか。あ、親衛隊長は、唐さんです。夏樹さん」

いわゆるミーハー部員で、羽矢先生にまとわりついている女子の中でもひときわ目立つグループがある。なかでも唐　夏樹は積極的だ。卒業までに絶対羽矢先生を落とすと宣言している。


「彼女たちが知ったら、すごいだろうな」
お返しとばかりに美琴は意地悪を言ってみる。
「勘弁してくれ」
珍しく困った声に羽矢の顔を見上げた。ふーん。こんな顔もするのかと思う。みんなが騒ぐのもわかる気がする。整った顔立ち。

「聞かないでくれるなら。あたしも見てません」
そう言うと、羽矢は驚いた様子で見返してくる。
「だからあたしも見なかったことにしてくださいね」
美琴は視線を外へ戻す。

「交換条件か。じゃ証文取るか？」
「えー？　書くものなんて持ってないもの。はんこもサインもできませんよ」
美琴はただの冗談にしか思わなかったのに。

「できるさ」
「？」
不思議そうに見た美琴の首筋が、いきなり伸ばしてきた手につかまえられた。何がなんだかわからないうちに、重ねられた唇。


え？　え？
これは、……キス？

瞳を見開いて動くこともできない。

一瞬だったのかそれとも十数秒だったのか。唇が離れても、まだ美琴は固まっている。羽矢はニヤッと笑った。
「証文、もらったから。しゃべるんじゃないぞ」

滑り台の穴から出てさっさと歩き出した彼。気がつけば雨が止んでいる。
「……何？　何なの？」

やっと我に返った美琴は外へ飛び出すと、羽矢の背中に叫んだ。
「何するんですか〜！！！」
公園の出口にさしかかっていた羽矢が振り返る。
「証文、忘れんなよ〜！」
彼はそのまま行ってしまった。



今日、失恋したあたし。
ひとりになったら思いっきり泣けるかと思ってたのに。

涙はどこかへ消えてしまった。唇に指で触れてみる。
キスは初めてじゃない。でも先生なのに。
あれは何だったの。



失恋直後。
「先生」にされた「証文」のキスが甘かった事に、美琴はただただ、とまどっていた。