 モザイク・カルテット−８ 「楕円のココア」
ピーッとヤカンが鳴った。 黙って座っていた美琴と志緒が顔を起こす。 ぶつかって、どちらからともなく和らいだ視線。 「暖まりたいね。ココアにしようか。」 立ちあがった美琴がそう言いながらコートを脱ぐ。 「うん。」 美琴の言葉にホッと頷く志緒。 パタパタとリビングからキッチンへ足音が移る。 美琴の家へ来るのは初めてだ。 例によって、母・早苗は夜勤でいないらしい。 見回しながら、漂う空気が自分の家とよく似てるのに気づく。 志緒の両親も離婚しており、姉と母、３人の生活が長い。 おまけに母はやっぱり看護師で。 互いの家庭について語り合った時は、その偶然にびっくりしたものだ。 でも。あたりまえだけど違うよね。 手際よくキッチンで動く美琴の姿に思う。 家事全般を取り仕切る美琴に対して、志緒はそれらが苦手だ。 志緒の母は、忙しい割にその辺を手抜きしない人だし、 姉がまた家事の鬼ともいうべきタイプだったりする。 必然的にというか、志緒は家事に関しては苦手になった。 掃除・洗濯はともかく料理はからきし。皿洗いのみ上達してる。 ゆっくりと暖まる部屋の中、ココアの甘い香りが漂ってきた。 いつのまにかエプロンをつけた美琴が、トレーにカップをのせてきた。 女の子だよね。自分そっちのけで見上げる。 「はい、どうぞ。」 たっぷりしたカップはアイボリー。 中ではミルクとココアがマーブルの渦。 「ありがと。おいしそう。」 両手で抱え込むようにする志緒の横に、美琴も腰を下ろした。 「・・・ふたりとも、どうしたかな。」 小さな志緒の呟きに、美琴は黙ったまま。 『だいっ嫌い』 叫んでしまった直後、飛び込んできた羽矢の顔が目に焼き付いてる。 声もないほど驚いていた？ でも。もやもやした醜い自分の感情を見せたくなくて、 とにかくその場から逃げたかった。 身を翻したら、やっぱりにらみ合ってる志緒と千早を目にして。 ああ、反射的ってこういうことなんだ。 さっきの志緒もそうだったのかな。 思うより早く、美琴は志緒の手首をつかんで、駆けだしていたのだ。 「お、おいっ。」 「走って！」 志緒の驚きも千早の声にも構わず、 ダッシュで通りへ出るとタクシーをつかまえ、家まで直行した美琴だった。 「志緒。怒ってない？」 猫舌で、熱いココアを吹き冷ましている志緒に、 おずおずと美琴が尋ねる。 「何を？」 「・・・あの・・・木塚君ね、ほんとにキスしたわけじゃないよ、あの時。 ただのマネだけ。唇じゃなくて、そのすぐ横のほっぺただったの。」 ひゅっと。志緒が吹いていた息を吸い込んだ。 振り向いた彼女に、美琴は真面目な顔で頷き返す。 志緒はゆっくり頬を染めて、でもあわてて言いかける。 「あ、あたし・・・は・・」 「今更あたしに言わないよね？ 大嫌いなんて。嘘。」 グッと詰まった言葉。 志緒は反論の矛先を変えた。 「美琴だって言ったんでしょ。見え見えの嘘。」 同じ穴の二人？ ふいっと顔をそらすと、スプーンをとった。 とっくに混ざってるココアをぐるぐるグルグル。 執拗にかき混ぜられて目がまわりそう。 「・・・嫌いだもん。」 「嘘ばっか。」 「違うの。嫌いなのは、自分。」 スプーンが止まっても止まらない。ぐるぐるグルグル。 「さっき、志緒が泣いてた時。」 その言葉に、志緒の収まりかけていた頬の熱が又高まる。 ああやだ。今夜は恥ずかしいことばかり。 志緒の狼狽に美琴は気づかず続ける。 「あたし、びっくりして。志緒が泣くのを見るなんて思わなくて。 なのに、もっとショックだったの。 琉斗さんが誰かを抱きしめてたってことが。」 ポツポツとリビングに美琴の細い声が落ちる。 自己嫌悪に苛まれてるその声が、志緒の驚きを不思議と宥める。 いつもそう。どうしてそんな風に言葉にできるんだろ。 羨ましいのはその素直さ。何よりの美琴の女の子らしさ。 「そうだよね。嫌な想いさせたよね。」 そんなこと思いもしなくて。情けないな。 「あたしはただ千早のやったのは冗談だって。 説明するつもりだったの。したんだけど。 言われちゃった、羽矢先生に。それはあたしの願望だって。」 「え？」 「・・・あいつに惚れてるんだろって。」 「琉斗さんが？」 「うん。それであたしうろたえて。爆発しちゃったのね、感情が。」 言葉にしてみると幼稚すぎる行動に又めげてきそうだ。 笑うしかない志緒。 「今日初めて会ったのに断言されちゃった。 やっぱり大人だね。お見通し？」 つい漏れた本音。 「なら、嘘つかなくても良かったのに。」 美琴が突っ込む。 「無理よ。だって千早だよ？ あの俺様だよ？ 大体あいつもなんでああなの？ 威張りくさって『俺が要るだろ』だって。 『はい、欲しいです』なんて言うわけないじゃんっ。」 文句を並べ立てる志緒はいつもと同じ。やっと調子が戻ってきたようだ。 「でも。必要だって言われたんでしょ、はっきり。」 美琴はこういう時遠慮しない。 「・・・あたしたちって。生まれた時から２１年知ってるのに。 知らないことばかりなんだって、今日思った。今まで何やってんだか。」 愚痴をこぼすみたいな志緒を美琴は笑う。 「そんなのこれから知ればいいじゃない。 早く連絡してあげなよ。木塚くん、今頃しょげてるよ。きっと。」 「あいつがそんな殊勝なわけないわ。」 「またぁ。」 「そういう美琴は？ 連絡してあげないの？」 急に美琴の威勢が悪くなる。すっかり冷めたココアに目を落とす。 「まだ怒ってるの？ 全部悪いのは千早だし。それとあたしで。」 「そうじゃなくて。」 「美琴？」 「・・・今まで時々頭に来てたの。琉斗さんのこと。 何遍言っても信用してくれなくて。ヤキモチめいたことばっかりで。」 さもありなんと志緒はうなづく。羽矢の顔が浮かぶ。 「なんでそんなに疑うのかなって。 あたしのこと信じられないのかなって。」 「それは。」 「うん。今日分かった気がした。」 残り少ないココアは、カップの中で遊ばれている。 「理屈じゃないのね。志緒のことも。木塚君のことも知ってるのに。 琉斗さんを信じてても。すごく嫌だった。」 燃え上がったあの黒い炎。 「琉斗さんもそうだったんだろうって。」 「わかったなら、いいじゃない。」 「でもあたし、言っちゃった。わかったのに。『大嫌い』って。」 不意に涙声になる美琴。 「そんなこと、一度だって言ったことないのに。」 「美琴ー。大丈夫だよ。あたしだって・・・。」 あたしだって。 そう言いかけて、志緒も口ごもる。 『だいっ嫌い』 言ってしまった言葉が重くのしかかる。 ふたりの手の中で、冷たいココアは回され続けてる。 楕円に傾くそれは、不安な心の形のようー。  |