 モザイク・カルテット−７ 「大っ嫌い」
初めて見た。志緒が泣いてる。 シャキッとしててしっかり者で。口調もポンポン威勢良くて。 いつもあたしの面倒を見てくれる彼女。 困った時に相談すると、腕組みして宙を睨んで。 「しょうがないよ。やってみよう。」 ニコッと笑顔。 教授達の出す難解なレポートに、何度それで助けられただろう。 あたしも。他の人も。 彼女はエネルギーの源。自分だけじゃなくそれを周囲へも伝えられる人。 そんな志緒が泣きじゃくってる。 駆け寄って声をかけたい。そう思うのに動けない。 だって。 泣いてるのは琉斗さんの胸だから。 わけがわからなくて、不確かになる足元。 夢だと思った。 どうなってるの？ なんで志緒が泣いて？ さっき木塚君をひっぱたいたのに？ 琉斗さんを連れてったのは？ 琉斗さんが彼女を抱きしめてるのは？ やっぱり夢？ だけど。 「志緒っ！」 あたしの真横から大きな声がした。 人混みを縫うように突進していく、木塚君の背中。 夢じゃない。 現実を認識するのと一緒に、美琴の胸の中に湧き上がる黒い炎。 燃え上がり燃えさかり、全身を焼き尽くされそうな。 周りを全部巻き込んで、燃え広がりそうな。 これは。 これが？ 嫉妬という感情に心全部持って行かれる。 初めての経験に、美琴の身体も心もぐらぐらと揺れた。 呼ぶ声に反応したのは、泣いている志緒よりも羽矢の方だった。 驚いて向けた目に映る、凄い形相で歩いてくる千早。 その向こうに美琴。 何だ？ 青ざめてじっと見つめていたと思ったら、うつむいてしまった。 ーやば？ 自分の現状をやっと意識した。 羽矢にすると、泣いている生徒を宥める教師の感覚。 男でも女でも似たようなもの。 美琴以外はまるっきり気にならない、なりようがないのだが。 それは羽矢の内面の話で、 人から見れば今の自分は女の子を抱きしめているわけで。 ーひょっとして墓穴を掘り広げた？ あわてた羽矢が志緒を放そうとする前に、 グイとひきはがしたのは千早だった。 「志緒、何やってんだ、おまえ！」 この男がこんなに焦った顔なんてしたことがないのだが。 自分の感情に流されていた志緒は、泣くことに全力を尽くしてたから。 いきなり目の前に現れた諸悪の根元にまたパニック。 つかまれた腕をふりほどこうとする。 「・・・なんであんたが・・・離してよっ」 「なんだよ、こいつになんかされたのか？ なんで泣いてる？」 「関係ないじゃんっ。 あたしに構わないで！」 「志緒！」 「煙草吸う男なんか好きじゃないっ。 絶対絶対好きにならないんだからっ！」 「ああ、俺だって煙草やめる気なんかねえよ。 煙草は俺のレジスタンスだからな。」 「ならほっといて。」 「しょうがねえだろ！ 俺はおまえがいいんだ。おまえが要るんだ！」 千早をにらみつけていた赤い目が、痛いくらいに見開かれた。 周囲５メートル四方に人垣を作りながら、ふたりは向かい合っている。 羽矢はゆっくりそこへ紛れ込んでいく。 ・・・こいつらってバカ？・・・って、人のこと言えないか。 「・・・何よ。何なのよ、それ。全然わかんない。 いつもそう。千早のやること、全然わかんないよっ。」 「悪かったなっ。俺は今わかった。おまえが要るんだ。 あと何年かしてあの家出る時、 一緒にいるのはおまえがいいんだよっ。」 ああもう。 計算し尽くして目標に向かってるってのに。 計算外なんて言葉じゃ片づかない。無茶苦茶もいいとこだ。 ーやめとけって。 理性がそう囁くのを感情は無視していた。 頭は沸騰状態。やっと志緒への想いを自覚したってのに、 それを潰さんばかりに他の男の胸で泣きじゃくりやがって。 泣いた志緒なんて見たことない。 ・・・いや、あった。一度だけ泣いてる志緒を慰めたっけ。 あいつの親父が死んだ夜。 小さい頃離婚して、離れて暮らしてたという志緒の親父。 ろくに顔も覚えてないだろうに。あんなに悲しめることが不思議だった。 羨ましかった。 あの頃も今も、俺にはとてもできそうにないこと。 決して本音を見せない俺とは対照的に、 志緒の見せる感情はどれも嘘がない。 ストレートに痛いくらいまっすぐぶつけて、乾いた俺を濡らしてくれる。 面倒くさいことは交わしてるのに、それだけは嫌じゃなくて。構い続けた。 何故かなんて、今の今まで気づこうとしなかったけれど。 必要だった。どうしても。 必要なんだ、これからも。 あんな、降って湧いた天災みたいな野郎に泣きついてんじゃねぇ。 俺の言うこと、聞いてんのか。 志緒は、さっきからまるでジェットコースター気分。 一体今自分はどこにいる？ 大体なんで千早がいるの？ 腕を掴まれたあの時、上げた目には唖然とした羽矢の顔。 千早の怒鳴り声。 泣いてた自分。 違う、今考えるべきなのは。 『一緒にいるのはおまえがいいんだよっ。』 嘘。 千早がそんなこと言うわけないのに。 煙草やめる気もないくせに。 『煙草は俺のレジスタンスだからな。』 レジスタンス。 抵抗？ 何への？ 誰への？ そんなのあたし知らない。何も聞いてない。話したことない。 千早の言葉は石になって志緒の心に投げ込まれる。 グルグルと幾つも波紋と言うには大きすぎる渦を巻いて。 そこへまた、特大の岩が投げ込まれた。 「なんだよ。おまえは俺のこと、要らねえのかよっ！！」 あまりの現実味のなさに、志緒は強烈な誘惑にかられた。 今までの悪行の数々もまるで答えず、 ただ責め立ててくる目の前の男に。 投げつけてやりたいのは。 「要らないわ！ 言ったでしょ、好きじゃない！ 千早なんてだいっ嫌い！！」 ギャラリーから漏れたおおっと言う声が、 ピキッと二人の間の空気に亀裂を入れた。 その一方で。 人混みをすり抜けた羽矢は、立ちすくんでいた美琴に近寄った。 「美琴。」 うつむいていた美琴は、ギクッと振り返る。 羽矢が来るのに気づいてなかったらしい。 羽矢も何をどう言ったらいいかと迷う。 あのふたりが大立ち回りを演じているのに、 さっきの説明をするのも妙な気がする。 迷いながら伸ばした手はしかし。 「っ・・・」 触れる前にざっと身を退かれてしまった。 そんなことはまずないからびっくりした。 美琴も無意識だったらしく、自分に驚いている。 湧き上がった嫉妬の黒い炎は消えるわけもなく。 それを知られたくなくて。 そんな風に自分を変える、目の前の人が憎らしくて。 だから再び伸ばされた手を、もう一度はたいてしまった。 「嫌っ・・。琉斗さんなんか、だいっ嫌い・・・！」 奇しくも同じ宣言を受けて。 二人の男が固まっていた。同じ路上で。  |