 Lastline10 ふりかえる道 −真実−
応接室と変わらぬ広さの校長室で。 入り口近くのソファに皆を座らせた校長は、手づからお茶を入れてくれようとする。 「校長先生、あたしがやります。」習性で美琴が立ち上がる。 「あら、いいの？」 「はい。慣れてますから。」 急須にお茶の葉を入れる手つきは確かに慣れたもので、校長は笑みを浮かべた。 「お願いね。」 美琴にそこを任せると、彼女は黙りこくる他の５人の前に座った。 「さて。どなたから話を伺えばいいのかしら。」 顔を見合わせる面々。早苗が口を開く。 「まずは教頭先生にお話いただくのがよろしいでしょう。 客観的な事実をはっきりと。」 このあたりが早苗らしい。感情に流されない冷静さ。 教頭もそれはわかったらしく、感心した様子で会釈すると校長に向かう。 「実は・・・校内にある噂が広まっていまして。それというのも、羽矢先生と−−。」 口を止めたのは、美琴がお茶を差し出したからだ。 茶托に乗せた湯飲みを危なげなくそれぞれの前に置く。 「ありがとう。」 校長の言葉にうなずいてから、お盆を片づけようとするが。 「・・・羽矢先生とこの柚華くんが、つきあっているという噂でして。」 教頭の言葉にその場に立ち止まると、一呼吸してから校長へ向き直った。 「我々もあわてて二人に真偽のほどを問いだたしたわけです。 そうしたらあろうことか、事実だと認めまして。−ふたりとも。」 教頭の声に、憤慨の響きが混じるのは仕方ないだろう。 羽矢はまっすぐ校長をみつめているが、彼女は不思議なくらい表情を変えない。 「で、羽矢先生はですね、柚華君は卒業も近いし。 大学も合格してることでもあり、彼女を不問にしてくれれば、 自分の処分はこちらに任せると言うんです。 でも柚華くんもおかあさんもそれを良しとしない。 おまけに生徒達が、彼をやめさせないでくれと騒ぎ出しまして・・・それで。」 「さっきの騒動ですか？」 「は、はい。まことにもってお留守の間に・・・。」 「校内を騒がせて申し訳ありません。」 教頭の言葉を引き取るように、羽矢が頭を下げた。 校長の視線は羽矢に移る。 「で？ 羽矢先生。今教頭が言ったことに間違いはないのですか？ あなたと−。」 チラッとそばに立ちすくむ美琴に目をやる。 「この柚華さん？とがおつきあいしているというのは。」 「本当です。」 淡々と羽矢は答え、美琴も又うなずく。教師らが苦い顔になる。 「そうなの。・・・不躾だけど聞いてもいいかしら。いつから？」 厳しいと言うより優しい口調で、その問いは美琴に向けられた。 「あ・・・の・・・一昨年の終わり・・・頃です。」 ためらいながら、だが今更嘘を言ってもしょうがないので、美琴は答えた。 教師達がまたざわめくのを、校長は眼で制す。 「ってことはもう１年以上ね。」 「・・・はい。」 二人がうなずくのと一緒に校長もうなずく。 相変わらずその表情を変えぬまま、今度は早苗に振り返った。 「で、お母様がいらっしゃったのは？ 羽矢先生に何か？」 早苗は校長に負けぬほど穏やかに首を振る。 「いいえ。交際については、私はすでに二人から直接聞いておりましたから。 羽矢先生に言いたいことはとうに言っておりますし。」 眼を少し踊らせて羽矢を見る早苗。 「私が参ったのは、二人の交際が学校から処分を受けるかもしれないとのことで。 それをなんとか、穏便にして頂きたいとお願いしたかったんです。」 「教師と生徒の恋愛に問題はないと？」 「問題のない恋愛なんてないんじゃありませんか？ 教師と生徒に限らず。」 相変わらず心臓に悪い早苗の言葉に、美琴が肝を冷やす。 「この二人はいたって問題の少ない方だと思いますわ。」 教師達が顔を見合わせて汗を拭く。 「先ほども先生方にお話ししたんですが。 羽矢先生は美琴に障害をつくらぬよう、ちゃんと配慮してくださってました。 ですので私も、強いて二人を止めませんでした。 実際今日まで生活も勉強もちゃんとしております。 なのに、あと数日で卒業する娘のために、 先生の行く末を遮ってしまうのは娘も私も承知できません。 それが娘のためであったとしても。 他の生徒さんからも慕われていらっしゃいますのをしっかり眼にしております。 なんとか、事を荒立てずにすませていただけませんか？」 流れるような、だが真剣な早苗の言葉に、美琴も両手を握りしめて校長をみつめる。 「・・・待ってください。」 そこに割ってはいるのは羽矢自身。 「校長先生。俺は・・・こいつ、柚華さえ無事に卒業させてもらえればほんとに。」 「琉斗さんっ、またそんなっ。」 「黙ってろ。」 ピシッと強く言われて、美琴は黙らざるを得ない。 「それは、教師をやめてもいいという意味ですか？」 校長が依然、穏やかに聞き返す。 「・・・それが条件とおっしゃるなら。」 「さっき、生徒達があんなにあなたのために一生懸命だったのに？」 校長の言葉に羽矢は目を伏せた。 「・・校長はご存じのとおり、俺は教師としてはごく新米で。 ここで初めて教鞭を取って。何もかも初めてで、やっと今年３年目です。 正直、教師になりたいと思ったことはないし、 ここに就職したのもあくまで、食べていくためで。」 美琴は思い出す、羽矢の昔。 「教師を面白いと思うようになったのも、今年になってからです。 それも自分本位で決して生徒のためとかじゃなかった。 いい教師とは言い難い。気楽に、楽しく、それだけで。」 早苗も聞き入っている。 「だからさっき生徒達の言葉に、一番驚いたのはたぶん俺なんです。 まさか生徒達が俺のためにやめるなと言ってくれるなんて、思ってもみなかった。 それこそ夢にも。」 教頭や学年主任、美琴の担任も又、羽矢を見つめる。 「嬉しいよりも恥ずかしかったですよ。 こんないい加減な自分をあんなに慕ってくれると思うと。 俺にはとてもその価値はないのに。」 「教師の価値を決めるのは−−生徒達ですよ。」 早苗がポツリと言った。 二人の視線が合って、羽矢がわずかに頭を下げる。 「ですから−本音を言うとやめたくはありません。俺はまだ何も返していない。 できるなら、これから生徒達に返したい。でも。 俺がそういう教師にわずかでも変わってきたとすれば、その大部分は。」 羽矢は美琴を振り返る。 「こいつの、柚華のおかげなんですよ。 柚華に逢ったから、俺はこういう俺になれた。 だから、こいつがちゃんと卒業できなければ本末転倒。 それで俺が無事じゃしょうがないんです。 柚華がきちんと卒業するために、俺の処分が必要だというなら、 俺はそれで文句ありません。俺とこいつの出逢いを否定しないためにも。」 美琴の眼に涙がわき上がる。それを手の甲でこすり取って、校長に向かう。 「あたしも・・・あたし、先生に逢うまで。自分に自信がなかったんです。ずっと。」 早苗が美琴を見る。その視線を感じながら。 「・・・あたし・・・生まれてきたことにずっと負い目があったんです。 何故って聞かれてもわからないけど、でもずっと−それが重かった。 先生が、琉斗さんが初めて言ってくれた。 ここにいて良かったって。生まれてきて、あたしがいて良かったんだって。 それがほんとに嬉しかった。」 早苗の眼が大きく見開かれた。娘の心にあった荷を初めて言葉にして聞いたのだ。 膝の上で組んだ両手が握りしめられる。 それを目の端で見る美琴の心は痛む。でも今は、羽矢を守りたい。 「だからあたしもこの出逢いを。それから一緒に歩いてきた日々を。 否定なんてできない。したくない。琉斗さんが先生だから逢えたんです。 琉斗さんから先生って仕事を奪いたくもないです。みんなのためにも。 お願いします。だから処分なら・・あたしを。」 ほとばしるようなお互いへの想いに、室内は静まりかえっていた。 そこに響く低い声。 「校長先生−−。私はこの子の年には、もっと軽はずみでした。 それがこの子にずっと、負い目を持たせてたんです。お恥ずかしいですけど。」 早苗の言葉に美琴があわてる。 「お母さん、違うのっ。」 「いいのよ、わかってる。・・・この子は私よりずっと考えてます。羽矢先生も。 自分の娘だからというだけじゃなくて。真摯に向き合ってるんです。 それを認めてやって頂けませんか？」 早苗らしくない、どこか絞り出すようなその願い。 「あなたも決して愚かではなかったわよ。柚華さん−−−柚華 早苗さん？」 突然呼ばれた自分の名前に、早苗が驚いて眼を上げる。 校長の顔に浮かんでいる笑みは、どこか懐かしげな暖かさ。 「不真面目なつきあいじゃなかった。 結果としてはああなったけど、でもあなたはいつも前向きだったわ。」 「・・・校長先生・・・？」 「覚えてない？ もう昔だし私も名字が変わったから。 川原です。あなたが高３の時、隣のクラスの担任だった。」 「・・・か・・・わはら・・せんせ・・い・・？」 思いもかけぬ名前に、早苗の声が掠れた。 川原教諭は、早苗が高校３年当時、隣のクラスの担任で学年主任だった。 早苗の妊娠がわかったとき、女性同士ということもあり、 担任と共になんとか卒業できるよう骨折ってくれた、いわば恩人のひとりだった。 だがそのためか、早苗の卒業と同時に高校から転任し、 以後音信不通だったのだ。 「ほんと・・に・・・先生ですか？」 「ここであなたに会うなんてね。柚華なんて珍しい名字だしすぐわかったけど。 あの後結婚であなたの姓も変わったと思ってたから、驚いたわ。」 「・・・先生・・。」 その手を握りしめて、早苗の目に浮かぶ涙。 美琴が母の涙を見たのは、祖母が死んだとき以来だった。 羽矢はともかく、他の教師達はわけがわからず見てるだけ。 「あの後もいろいろあったみたいだけど、あなたらしく生きてるのね。嬉しいわ。」 「私は・・・相変わらず自分勝手で・・・娘にもいらぬ荷を負わせて・・。」 「そんなことありません。こんなにしっかり成長してるじゃないの。」 「先生・・・。」 早苗の手をギュッと握りしめてから、校長は居住まいを正して正面を向いた。 「皆さん。」 その呼びかけに全員が注目する。 「柚華さんが卒業するのはあたりまえです。生徒の将来を遮ることは許されません。」 その言葉に安堵したのは、おそらく羽矢一人だろう。 美琴と早苗は不安そうであり、教師達は口々に校長に言いかける。 「それでは広まった噂を一体・・。」 「ならやはり、先生を処分せざるを得ない。」 「いくらなんでも共に不問というわけには・・。」 それらを全て制するように、校長は羽矢に向かう。 「羽矢先生。」 「はい。」 覚悟を決めた様子で答える羽矢。 「私はあなたの言うことも、柚華さんの言うこともよくわかるつもりです。」 優しい眼。 「ですが、先生方の仰ることももっともなのです。 学校には規律とけじめが必要です。たくさんの生徒を預かり、導き、守るために。」 「・・・ええ。」 静かに羽矢はうなずく。美琴が二人を見比べながら焦りを濃くする。 「一方で、あなたを求める生徒達もいます。それも又、無視できないことです。」 校長の言葉に、教師らは困った顔になる。 美琴の手は汗で冷たい。 「さっき、彼女−−柚華さんのお母様もおっしゃいましたね。 『教師の価値は生徒が決める』と。」 早苗が校長を振り仰ぐ。 「ですから。私はあなたのことは、生徒達に決めさせようと思います。」 翌朝。 体育館には、ガヤガヤと落ち着かない生徒たち。 突然開かれる全校集会。訝しがる子や気にも留めていない子。 ヒソヒソと伝わっていく噂もある。 その中に混じって、美琴は不安げな面持ちだった。横に寄り添う美那子。 「全員、その場に座りなさい。校長先生からお話があります。」 教頭の指示で、全員がその場に座り込んだ。壇上に校長先生の姿。 ざわめきは潮のように静けさと入れ替わっていく。 「皆さん。 今日は皆さんそれぞれにお願いしたいことがあって、集まって頂きました。 これから、羽矢先生の話されることを良く聞いて、決めて欲しいのです。 学校は生徒である皆さんの意志を尊重することを、この私が約束します。 なぜなら、学校はあなたたちのためにあるのですから。」 校長の言葉で生徒達の間にどよめきが起こる。 「一人一人がきちんと考えて、自分が正しいと思える結論を出してください。」 校長とすれ違いに羽矢が壇上に上がった。 美琴の心臓がドクンと鳴った。たぶん、理科実験部の生徒は皆同じだったろう。 生徒達を見渡す羽矢は、静かで落ち着いている。 「・・・３学期はじめから校内に噂が流れていたと思う。たぶんみんな知ってるはずだ。」 走り抜ける視線とつぶやき。 「念のため言えば。・・・俺が、３年女子とつきあっているというのが、その噂だ。」 ふたたびシン・・と静まる。美琴は自分に向けられるたくさんの視線を感じる。 でも目を伏せない。羽矢だけを見ている。 「結論から言おう。それは事実だ。」 当然のごとく言い放たれた言葉に、 沈黙が続いたのは信じられなかったのかも知れない。 「俺はそれを認める。恥じることも隠すこともない。」 ようやくざわざわと動き出す、口。口。口。 「・・・うそ・・。」 「え・・えー？」 「・・・げさんでしょ？」 「マジかよ・・。」 「やだぁ・・・そんなのっ・・。」 しばらく生徒の動揺を受け止めていた羽矢だったが。 「俺は。昔、バスケをやっていた。」 突然話は飛んで、ざわめいていた生徒達が黙る。 「知ってる奴もいるかもな。社会人チームでプレーしてた。 バスケが好きで好きで。それで生きていくつもりだった。でも。 いろいろあって不景気でチーム自体つぶされて。挫折した。会社も辞めた。」 苦そうな、辛そうな響き。 「この学校に来たのはだから、食べるためだ。 今の３年が入学した年に、一緒にここに就職したわけだ。 教職は取ってたけど、この仕事をやろうと思ってなかったから、適当だった。 おまけにずっとやめたはずのバスケをひきずってた。去年まで。」 静まりかえった体育館に、羽矢の声だけ聞こえる。 「それにけじめをつけられたのは、彼女に逢ったからだ。 俺たちはどっちも不完全で、不安定で。足りなくてひきずってて。 それが出逢ったことで、俺は昔にけじめをつけられたし、 彼女もたぶんひきずっていたものから抜け出せたんだと思う。」 唇を噛みしめながら美琴はうなずく。美那子が肩を抱く。 「もちろん、教師と生徒でそれがいいとは言えない。 世間一般から言えばまずいだろう。わかってる。 でも、教師と生徒じゃなきゃ俺たちは逢ってない。 ・・・逢わなきゃ俺は、今の俺じゃない。」 ゆっくりと言葉を探す羽矢。 「俺は今、教師になって良かったと思ってる。できれば続けたい。 彼女に逢えたことを含めて、この３年間を否定する気はないんだ。 戻れるとしても同じ道をたどるだろう。」 美琴の眼を羽矢が見つける。今にもこぼれそうな涙を湛えるその眼。 「そう思えるのは、ここに来て。おまえらと一緒に過ごしたおかげでもあるんだ。 だから、俺の進退はおまえらに任せたい。 俺たちの行動が学校って場所で、おまえ達を動揺させたのは確かだし、 噂を聞いて嫌な気分になった奴も、 俺を教師にふさわしくないと思った奴もいるだろう。 俺がここで、この学校で教師を続けてもいいかどうか、 おまえ達で決めてくれ。その結果に俺は従うから。」 沈黙の続いたその場に、初めて上がった声は１年生らしかった。 「あの。相手っていうのは、３年の柚華さん・・・ですよね。」 名指しされた美琴が反射的に立ち上がろうとするのを、美那子が止める。 「彼女に処分はないんですか？」 「ない。」 「何故ですか？ 恋愛なんて一人じゃできないんだから、羽矢先生を処分するなら。」 「学校は。生徒のためにあるからだ。」 羽矢の何ともあっさりした返答に言葉を詰まらせた１年は、 周りの数人と顔を見合わせていたが、別の子が声を上げる。 「そんなの変です。先生に処分なら生徒だって・・。」 「同罪よね。やらしーっていうか・・。」 「どこで何やってるんだか。」 それを皮切りにして、館内は一斉に騒然となった。 「えー、でもさぁ。」 「いやよ。羽矢先生が、いなくなるなんて。」 「こんなことがばれたらしょうがないんじゃない？」 羽矢は静観している。教師達はおろおろするが、校長は微動だにしない。 「二人ともやめるべきだわっ。」 「そうよ。それが筋ってものでしょっ？」 一部の、おそらく羽矢ファンと思われる女生徒達が、ヒステリックに叫びだした時。 「みっともないことすんなよ！」 響き渡った声。 スックと立ち上がったのは、桐辻だった。 
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