 Lastline8 ふりかえる道 −事実−
消えない噂に舌打ちしつつ、それ以上広がらぬようヒヤヒヤしつつ。 なんとかこのままばれずに、美琴の卒業まで行けるかな。 羽矢はそう思っていた。 しこりはあるけど美琴のためにもそれがいいと。自分を納得させていた。 今日は追い出し会。 美琴が噂を気にして弱気になっていたけど、大丈夫だろう。 俺も早めに行って抑えてるか。 放課後は特に用もないから、と思っていた羽矢だったが。 それは突然やってきた。 授業を終えて戻った職員室で、話し込んでいる教頭と学年主任が見えた。 何だろう。何かあったかな。 羽矢が席に着くと、入れ替わるように美琴の担任が呼ばれていく。 予感が走った。まさか−？ チラッと振り返ると３人が額をつきあわせている。 美琴の担任の驚愕の顔が眼に焼き付いて、心臓がドクンと鳴った。 あわてて向き直った羽矢の背中に声。 「羽矢先生、ちょっと。」 その瞬間押し寄せた様々な思い。 驚き、焦り。未知なる事態へ子どもじみた恐怖？ それらがあまりに圧倒的で、流されそうになる。逃げ出したくなる。 美琴のこと言えないな。 −−美琴。 その名前と共に、流されそうになった意識はすーっと静かになった。 否定されて、ずっと怒ってたのは自分だったのに。 あいつはこんな気持ちだったのか。怒った自分が恥ずかしい。 わずかな砂が落ちるほどの時間で心は定まり、振り返った羽矢は揺るぎない顔だった。 しっかりと立ち上がる。 「今行きます。」 ちょうど呼びに来た桜井絵里香に、「先に始めててくれ」とだけ伝える。 何も知らずうなずいて去る姿に、美琴を思う。 なんとか。あいつだけは。 歩み寄っていく３人の顔は厳しく難しかった。周囲もヒソヒソと訝しがっている。 「何でしょう？」 今にも怒鳴りそうな教頭を押しとどめて、周りを気にしつつ学年主任が言った。 「場所を変えましょう。隣の応接室へ。」 皆うなずいた。 職員室と校長室に挟まれた応接室。 固い雰囲気をなんとかしようと、美琴の担任がお茶を入れたが、黙りこくる双方。 やっと学年主任が羽矢に問いを投げた。 「校内にある噂が広まってるらしいんです。ご存じですか？」 やっぱり。だがポーカーフェイスでしらばっくれる。 「噂。どんな噂です？」 「どんなって・・・。」 顔を見合わす３人。すでに知っている羽矢の方がとりあえず上手だ。 ためらいながら、今度は美琴の担任が口を開く。 「生徒と教師が恋愛関係にあるという噂です。冬休みに二人を見たとか見ないとかで。」 ーー神岡。今更だけどやっぱり恨むぞ。 「ずいぶん前から広まってたらしいですよ。３学期あけてすぐくらいに。」 「こういうのは教師まではなかなか届かないことが多いんですよね。」 「そうそう、いつだかの・・・・。」 愚痴をこぼしあう二人の話は、しばらく別方向へとずれる。 その話を聞いてから、羽矢が話を戻す。 「生徒って・・。」 「うちのクラスです。柚華美琴。そういう噂とは一番縁遠そうな真面目な子ですよね。」 「落ち着き払ってる場合じゃないですよ、羽矢先生！ 相手の教師があなただって言われてるんです。ほんとですかっ！？」 とうとう教頭が叫んだ。 部のみんなに告白した美琴のために、職員室へ羽矢を呼びに走って来た桐辻だったが。 なんだか異様な雰囲気に退いた。そこここで数人ずつ固まっている。 「・・・矢先生が？」 「３年の・・・女子・・？」 何人かは隣の応接室へ通じる戸の前で張り付いて。 見回すと羽矢がいない・・・ばれた？ 直感した桐辻はパッとドアから離れると、再び理科実験室へ駆け戻っていった。 教頭の叫びと共に一斉に羽矢に注がれた６つの瞳。 そこにあるのは狼狽と不安と期待。美琴の担任が言葉を継ぐ。 「もちろんただの噂ですよね？ 柚華は成績も素行もこれまでなんら問題ない。 受験も合格して卒業を待つだけです。 こんなところで不祥事なんて出たら進路が・・。」 ギクッとする。担任と出くわす視線。 彼は察しているのかもしれない。その上で訴えているのだ。 美琴のためにも早く否定しろと。 「第一羽矢先生だって。噂がホントだったら−。」 学年主任も言いかける。 自分のことは元々どちらでもいいと思っているから、それは聞き流した。 美琴は怒るだろうけれど、大事なのは美琴の卒業と進路だけ。 『やめないですむなら、あたしのこと否定してもいいから。』 やめてもいいんだけどな−。 ようやく口を開く羽矢に、３人は滑稽なくらい固唾をのんで身構えている。 否定すればそれでいい。わかっていてもその言葉が自分自身に痛い。 あいつも。こんな風に痛かったわけか。ーごめんな美琴。あんなに怒っちまって。 胸の中で詫びながら、羽矢は言い切った。 「デマですよ。そんな噂−。」 その言葉を。 廊下、応接室の引き戸のわずかな隙間から、駆けつけた美琴は聞いていた。 否定されることが、こんなに辛いなんて知らなかった。初めてわかる。 羽矢の言葉は自分のためだと知っているのに。 こらえてもしゃくりあげそうになる美琴の肩を、抱いてくれたのは・・・美那子？ 葛西も吉澤も。息を切らして皆そこにいた。 「そ、そうですか。そうですよね。よかった。」 一気に安堵の空気になる教頭。他の二人ももちろん。 「ホッとしました。教師と生徒なんてスキャンダルですし。」 「ですが、ずいぶん噂になってしまって。」 「噂だけならそのうち消えますよ。」 「噂が出るって事は、先生の日頃の言動に問題があるんじゃないでしょうか？」 教頭が渋い顔で言う。 「羽矢先生はまだ若いですし人気もあります。生徒達の噂の的にされるんですよ。」 美琴の担任がフォローする。 「とはいえねぇ。そういえば先生が顧問の部はファン倶楽部とか言われてるって。 今回の生徒もひょっとしてその部ですか？」 困ったように羽矢に視線を走らせてから、美琴の担任がうなずく。 「そうですが、あの子はごく真面目に部活動に取り組んでました。 ですよね、羽矢先生？」 「ええ。今年の３年は真面目なのばかりでしたよ。」 これは本音だ。 「じゃあ噂が出ること自体、あなたの不徳ってことですか？」 安心した反動か、教頭は羽矢を責めだしている。 不徳に反論はないが、そうですと言うのもおかしなものだし。黙るしかない。 「事実無根は何よりですが、こうも広まるとやっぱり責任ってものもありますから。」 「きょ、教頭。事実無根なら。」 今度は学年主任があわてる。 「人気があるのは羽矢先生のせいってわけじゃないですし。 男子生徒にも彼は受けがいいわけですから。」 「こんな噂が外部に漏れたら大変なんですよ。わかってらっしゃいますか？」 「それはそうですが・・。」 「やっぱり校長と相談して。まだ外出中ですが。」 「教頭、そりゃ大げさすぎますって。」 「問題の芽は早い内に摘むべきです。すでに遅いくらいなんです。」 「しかし。」 「とにかく、羽矢先生には自粛して頂いて、それなりの・・。」 「待ってくださいっ！」 平静な顔で沈黙を保っていた羽矢が、目を剥いた。 廊下側の戸を開け放って飛び込んで来たのが、他ならぬ美琴だったから。 「みこ・・・柚華っ、おまえ何しに・・。」 羽矢の声が上擦る。開いた戸の廻りには理科実験部が集まってる？ 「柚華？ 柚華美琴ですか？」 突然現れた美琴に驚いていた教頭が、羽矢の言葉を聞きとがめる。 美琴の担任もただ焦る。 「ゆ、柚華。先生達の話に口をはさむんじゃない。外に出なさい。君たちもだぞ。」 「そ、そうだ。早く。」 学年主任も訳がわからないまま、ただ追い出そうとする。 「柚華、出ろ。」 羽矢がさらに言う。なんでおまえが飛び込んでくるんだか。 美琴はそこを動かない。静かに教師達を見つめ返して。 こいつ−。 「柚華っ、聞こえないのかっ？」 焦る羽矢を振り返った美琴がにっこり笑った。その笑顔に言葉をなくす。 「いいの、先生。あたしさっき、みんなに言っちゃったから。」 「・・・おまえ・・。」 「大丈夫だから。」 ３人に向き直った美琴は、数刻前と同じ言葉を、やはり怯むことなく言い切った。 「噂はほんとです。あたしは羽矢先生が・・・琉斗さんが好きなんです。」 教頭と学年主任、それから美琴の担任は茫然。 羽矢は目を閉じた。 不謹慎なのはわかっていても、美琴が宣したその言葉は耳に甘く響く。 ・・・ばかやろ。ほんとにこいつは。 再び開いた眼に映った美琴はやっぱり微笑んでいたから。 羽矢も覚悟を決めた。でなければ意味がない。 出逢ってから二人で歩いてきた道。 その、軌跡の意味。 美琴のそばに並んだ羽矢は、隣に並んで３人の方へ向き直る。 「・・・申し訳ありません。さっき俺が言ったのはごまかしです。」 「は、羽矢先生っ？」 「まさか。」 「俺はこいつ・・・柚華とつきあってます。それは事実です。」 ３人の教師は、パクパクと言葉を探すしかなかった。 開いたままの引き戸の向こうで。それを見つめている生徒達。 美那子は一人携帯を手に、そこを抜け出していく。 一方、絵里香は自問自答していた。 羽矢は美琴のために、美琴は羽矢のために嘘と言い。 でもお互いのためにさらなる勇気で翻す。 それほど強い想いをあたしが責められるんだろうか？ 教師と生徒ってだけで？ その場の空気は硬直しきっている。 騒ぎは廻りにもバレバレで、教師達も職員室からのぞき込んでいる。 当の二人が一番落ち着いているようにも見えた。 淡々と教師達の前に立ちつくしている。 「・・きっ・・みたちは一体何をっ・・！」 怒りに震えるようにして、教頭が言葉を絞り出す。 「言ってることがわかってるのかね？ そんなスキャンダルが許されるとでもっ！？」 「はっ、羽矢先生っ！ あなたもあなたです！ 生徒相手に！」 「柚華っ！ 君は。」 一人をきっかけに叫びだした三人だが、支離滅裂だ。 激流のような叱責を、羽矢も美琴も黙って聞くだけ。 そのあまりの反応のなさに。 叫びだしたのと同様、三人はピタリと黙って顔を見合わせた。沈黙が雄弁に語ること。 はーっとため息をついたのは誰だったのか。 やっと落ち着きを取り戻した教頭が、改めて口を開いた。 「事実なのは間違いないんだね？」 二人は眼を上げて共にうなずく。 「・・・どういうつきあいなのかね？」 「どういう・・って・・。」 なんて言えばいいのか、口ごもる美琴。羽矢があっさり言う。 「普通の−恋愛だと思ってますが。」 「普通・・・かね。」 二人を見比べる教頭。 今時、年の差だけなら確かに珍しくもない。 休日、私服で並べば普通の恋人同士にしか見えないだろう。だが。 背広の羽矢と制服の美琴。その図は−。 「教師と生徒ってのは、普通の範疇とは言い難いと思うが。」 美琴がわずかに顔をゆがめるが、必死で目をそらすまいとする。 「君ら二人の気持ちをここでとやかく言っても仕様があるまい。 言うべき事でもないし。だがここは学校で、 学校という集団生活には最低限の規律が必要だ。それはわかるね。」 「・・・は・・い・・・。」 微かな声。 「教師と生徒が恋愛してはならないと定めた規則などないが、 本来あり得ないことだからだよ。 君らとて、当事者でなければそう思うんじゃないのか？」 教頭の言うことはわかる。怒りにまかせて怒鳴られるより辛い言葉だ。 「すでに君たちのことは校内に広く噂になっているようだ。 学校側としては君らに何の処分もなくこのままという訳にはいかない。 ＰＴＡや世間の手前もある。君らのことはあまりにも刺激的だ。」 ギュッと唇を噛む美琴。 覚悟はしていたのだが、震えそうな体。 「教頭先生、おっしゃることはよくわかります。 俺も自分について弁解する気はないし、弁解することでもないと思ってます。ですが。」 羽矢の声が真剣だ。 「柚華は、あとわずかで卒業です。大学も合格してるし、 これまで何一つ問題があったわけじゃありません。 俺についての処分はお任せしますし異議を挟んだりしません。 ですから、こいつに関しては不問で−卒業させてやってください。」 「先生！」 「琉斗さん、駄目！」 上がり書ける生徒の悲鳴よりさらに大きな声で、美琴が遮った。 「教頭先生、処分ならあたしも一緒です。」 「いいから！ おまえ卒業できなかったら全部パーだぞ。せっかく合格したってのに！」 「それで琉斗さんだけ処分なんて絶対駄目！ そんなんで卒業できない！」 「俺はどうにでもなるって。」 「違うでしょ！？ 言ったじゃない。羽矢先生のこと慕ってる人がいっぱいいるの。 あたしのことであなたをみんなから奪っちゃうなんて駄目よ！」 「それどころじゃないだろうが！？」 「だって！」 「君たちはそんなことで揉めてる場合か！？」 「き、教頭先生、落ち着いてっ。」 「柚華もちょ、ちょっと・・。」 「先生ーっ、やめちゃいやですーっ。」 「先輩！」 再び騒然とした応接室に。 「静かにしなさいっ！！」 響き渡った声があった。 思わず全員が、声の主を捜して振り向く。美琴が絶句する。 「・・・お・・・かあさ・・ん・・？」 応接室の引き戸の向こう、生徒達の後ろで。 にっこり微笑んでいるのは紛れもなく、美琴の母・早苗だった。 
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