 Lastline5 合格発表 −出発地点−
誰もいない家に一人、たどり着く。 真っ暗な部屋。灯りもつけずにとぼとぼとリビングまであがると、 ソファにどさりと座り込む。 冬の真夜中。冷えた部屋に冷えた体が震える。 かじかんだ手をこすろうとして、思い出す。 この手を。 引き寄せて息を吐きかけて、温めてくれた。 溶けるような口づけをくれた。 あれはついさっき。なのに。 『おまえ、ほんとは。こんな面倒なつきあい、やめたいと思ってるんだろうっ！！』 思っても見なかった言葉にカッとして。気づいたらひっぱたいていた。 冷え切った手にはもう、その感触は残っていないはずなのに。 何故か痛い。じんじんとしびれのようなこの痛み。 ・・・琉斗さんの方が痛かったよね。 『おまえは全部否定して、『嘘』にしたいんだな！？』 そう言った彼の声が。 低く重く、傷ついていた。 噂を否定したあの夜、全部言えばよかった。 迷いも。ためらいも。自己嫌悪も。 咄嗟に言ってしまったのは仕方ないって、琉斗さんもわかってくれたはず。 あたしだって。 逆の立場なら傷ついただろう。 知らないうちにすべて嘘だ、ただの噂だと言われたなら。わかってる。 だからこそ否定してしまった自分がイヤだった。 それを彼に知られたくなかった。 なのに。傷つけたのは自分。 不意に携帯が鳴った。ハッとして着信を見ると・・・羽矢。 しばらくみつめてから取ってみる。 「・・・はい。」 「美琴？・・家に着いてるか？」 「・・・うん。」 「ならいい。勝手に呼んだのに・・・送らなくて悪かったな。」 「そんな・・・の・・。」 また沸き上がる涙。 「美琴？」 「・・・ひっぱたいて・・・・ごめんね・・。」 「・・・・・おまえの力じゃたいしたことない。」 「・・っ・・・」 「じゃな。」 「りゅっ・・」 それで切れてしまった携帯。 月明かりだけのリビングで、美琴は涙をこぼしながら唇を噛みしめるだけだった。 いつのまにか寝ていたらしい。ハッとリビングのソファで眼を開ける。 「・・・学校！」 時計を見るとまだ６時。 いつもの時間に目が覚めるんだ。主婦生活がたたき込まれてる自分が悲しい。 休みたい。 羽矢に逢ったらなんて顔を。何を言えば。でも。 逢えるとも限らない。顔を見られない日だってあるのだ。授業がなければ。 それはそれで辛い。 今日は羽矢の授業はなかったはずだ。 「・・・ずる休みしてもしょうがないよね。」 つぶやくと立ち上がった。 シャワー浴びて、朝ご飯食べて。ちゃんと登校しよう。 でないとおかあさんや美那子も心配する。合格発表だってこれからだ。 あたしはまだやるべきことを終えてない。 考えよう。 どうすればいいのか。何ができるのか。 自分と−−彼のために。 久しぶりの学校は、好奇の目でいっぱいだった。驚くほど。 二人がそれぞれに否定したことも伝わってはいるが、 どちらかといえば行事もなく卒業式のみがイベントの３学期。 生徒たちには格好の暇つぶしな話題だったとも言えた。 忙しかった３年もぼつぼつ進路が決まりだし、 それとともに、乗り遅れた噂に今更飛び乗って騒ぎ始めている人もいて。 ３年同士は面と向かって誰も聞かないのだが、 なんとなく遠巻きにこそこそ話しては笑う。 １，２年はとおりすがりに大声で噂を話したり。 中には名指しで聞きに来る生徒もいた。 美那子たちが追い払ってくれたけれど。 興味本位もいるだろうが、必死の子もいるだろう。 心は迷い込むばかりで、ますます羽矢に連絡は取りづらくなる。 ただそんな状態の中でも。 美那子と部の面々は何も言わずいつもどおりだったから、美琴は救われていた。 同時に別の思いもあった。 こんなに。やましい気持ちになるなんておかしいよ。 琉斗さんに逢えたこと、好きになったこと。 それを恥じたことなんてないのに。恥じてなんかいないのに。 なんでこんなに周りが気になるんだろう。 ううん。 気になってるのは自分。嘘だと言った自分の嘘。 それがこんなに重い。彼の言葉が重い。 噂ばかり先走って、その羽矢自身とはあれっきり。 電話も途切れて話もしていない。それが辛い。 後ろのささやき声に聞かぬフリをしながら、 だんだん美琴は追いつめられる気分だった。 やっぱり−壊れるんだろうか。 羽矢の悩みも深い。 気持ちをぶつけてしまったのは仕方ないと思った。でも。 一方的に、それも美琴の気持ちを聞かずに。 ぶつけて終わってしまったことは悔やまれた。 ひっぱたいたあとの、涙目の顔。 駆け去った後、送りもしなかったのが気になって入れた電話。 泣いているのがわかって、でも。何も言えなかった。 『・・・ひっぱたいて・・・・ごめんね・・。』 美琴の涙が目に浮かんで、言いかけた言葉も聞かずに切ってしまった。 あの夜は最悪だったなと思う。 ずっと。噂以来避けられている気がして、苛立っていて。 それが全部、悪い方へ出てしまった。 そんな感じだった。 あまりにもストレートにそれを出したことが気まずかった。 そんな気持ちが伝わっているのか、あれ以来美琴からも連絡がない。 校内の噂はさらに広まっていた。いつの間に？ 自分のことで手一杯だった３年生が、そろそろ落ち着きだしたのもあっただろう。 羽矢が焦ったのは、その噂がどちらかといえば美琴を直撃してるようだったこと。 理由はいろいろあるものの。 生徒にすれば教師よりは、同じ生徒の方が的にしやすい。 加えて羽矢は意識してなくても、ファン倶楽部があるほどの人気教師なのだから。 美琴の方が的になるのは当たり前かもしれない。 そう、これなら当たり前だよな。美琴が「嘘」と否定するのも。 これで「嘘」だって言ってなかったら、一体どういうことになるのか。 自分がぶつけた感情が、ただのわがままという気分にすらなる。 だからってここで何か言えば噂に、尾ひれも背びれもしっぽまでつくだろう。 羽矢はジレンマにじりじりしていた。 どうしてやれるんだ？ 俺はどうすれば、あいつを守れる？ 容赦なく日は過ぎて。 今日、美琴は本命大学の合格発表を見に来ていた。 冬に逆戻りした北風の中。 向かいあった掲示板に必死で目を懲らして探す自分の番号。 「・・・あった・・・。」 受験票をぎゅっと握りしめる。 嬉しいのに。 胸が痛い。 合格書類を受け取ってから、まず母に連絡を入れた。 「美琴？」 「お母さん？ 受かった！」 「ホント？ あんた見間違ってないでしょうね？ 大丈夫？」 至って冷静な母の確認はいくらなんでもと思う。 「ちゃんと書類もらったもの。」 「そう？ ホントね？ ならよかった・・・了解。 じゃ今夜は夜勤だから、お祝いは明日ね。」 母は母だ。あっさりそれで切りかけて。 「あ、美琴？」 「何？」 「・・・おめでとう。よく頑張った。偉いぞ。」 ぷつっと切れた携帯にきょとんとする。 「・・・やだ。小さい子じゃないのに・・・。」 言いながら胸に広がるぬくもりが実感させてくれた。 受かったんだ−−。 学校へ戻って担任に報告した。 「おー、柚華やったなぁ。おめでとう。」 相好を崩して喜んでくれるのが嬉しい。 そっと見回すと羽矢の姿は見えない。密かに期待してたのに。 「どした？」 「あ、あの。羽矢先生・・・は・・・。」 語尾が消える。もし噂が先生方まで届いてたら・・。 「んー、今日は所用で外出だ。」 いないのか−−。がっかりする一方で安心する。 まだ先生方には噂は届いてないんだ。 とりあえずクラスに戻る。美那子たちが合格を喜んでくれた。 「やったね、美琴。」 「柚華、すげえじゃん。」 変わらない彼らが美琴を慰めた。 放課後。美那子は用事で先に帰って行った。 今日は部活はない日だったっけ。・・・ちょっと実験室に寄ってこようかな。 誰もいない方がいい。こんな噂の中なら。 美琴は久しぶりに、理科実験室に足を向けた。 久しぶりの実験室。 窓からすでに傾いた日差しが斜めに差し込んでいる。 ずいぶん来てなかった。噂以来、部活にも顔を出せなくて。 好きだったんだけど。ここが。 窓から校庭を見下ろすと、やっぱり思い出す。 ここで一緒にキャンプファイアーを見たっけ。 闇に赤々と踊る火は、一人だと遠かったけど二人なら温かかった。 夕陽があの時の炎の色に似ている。 ガラッと戸があいた。一瞬羽矢かと思ったのに、そこにいたのは。 「桐辻くん？」 彼と逢うのも久しぶりだ。戸口でためらっている。 「今日は部活ないよね？」 「ええ。俺、テニス部行こうとしたら、先輩を見かけたから。」 入ってきた桐辻は、机を回り込みながらおずおず尋ねてくる。 「先輩。受験は？」 「終わったよ。」 「え？」 パッとあげた心配そうな顔に、微笑む。 「今日、最後の発表だった。・・・受かったの。」 「ほんとですかっ？ おめでとうございます！」 満面の笑顔になって、我が事のように喜んでくれる。 「ありがとう。嬉しいな、そう言ってもらうと。」 「よかったですね。先輩頑張ってたし。」 「運がよかったのよ。」 「そんなことないですよ。・・・あ、でも・・。」 「ん？」 「・・・卒業しちゃうんですね・・。」 その声の寂しそうな響き。 「先輩がいなくなっちゃうのは僕・・・嫌だな。」 「桐辻くんたら。子どもみたい。」 母親のように美琴が笑うと、桐辻が真面目な顔になった。 切り替わった雰囲気にぴくっと退く。 彼は美琴の真正面に立つと、まっすぐみつめて言った。 「美琴先輩。僕は先輩が好きです。 卒業してからもつきあってもらえませんか？」 差し込む夕陽が、今日最後の矢を射込んでくる。 桐辻の頬がそれを受けて、オレンジ色に紅潮してる。 年上とか。 年下とか。 そういうことには関係なく、格好いい男の子だと思ってる。 ずっと変わらぬ態度で、美琴に想いをぶつけ続けてくれた。誠実に。 そういうのが嬉しくない女の子なんていない。 なのに。 どうして心は動かないんだろう。 どうしてあたしは、琉斗さんだけを求めるんだろう。 理由はあってないようなもの。 ただ−−。 「・・・ごめんなさい・。」 深々と下げる頭から、さらっと流れ落ちる髪を、桐辻は見下ろす。 その髪に、何度触れたいと思ったことか。 手に入らないからこそ。 「やっぱり・・・羽矢先生ですか・・？」 いきなり出される名前。 「噂、聞いてます。ずいぶん広まっちゃったですけど。」 「・・桐辻くん。」 「僕はわかってたから。でも、部内の女子とか、結構騒いでますよね。」 「・・・うん・・・」 「先輩も部長に、嘘だ、って言ったんでしょ？」 ビクッとする。 「こないだの部活の時、みんなに聞かれて羽矢先生もはっきり言わなかった。」 美琴は黙ったままだ。 「・・・やめた方がいいんじゃないですか？」 顔を上げた美琴に、早口に桐辻がしゃべる。 「あの先生はそりゃ見た目かっこいいかもしれないけど、 中味は僕と変わらないですよ？ 下手すると僕よりガキかも。 ヤキモチ焼きそうだし、わがままそうだし、勝手だし。それに・・。」 言い募っていた桐辻は急に黙った。美琴が笑い出したから。 「・・・先輩？」 「ご、ごめんね。でもよく知ってるから・・・先生のこと。」 「知ってるって・・。」 美琴の反応にとまどう。 「桐辻くんの言うとおり。もちろん年上で大人なんだけど。 ガキっぽいとこいっぱいあって。困ったりするの。でも。」 今までほのめかされても、桐辻に確たる答えを返さなかった美琴。 何故か今日は、ごまかせなかった。 ごまかしたくなかった。自分を。 しっかりと。桐辻の顔を見て、一語一語確認するみたいに。 「あたしは。先生が−−そんな琉斗さんが。・・・好きなの。」 言い終えたら、桐辻がゆっくり笑顔になった。 目を丸くする美琴。 「桐・・・辻くん？」 「覚悟はしてました。わかるから。 先生だからってわけじゃないでしょ。たぶん。 僕が先輩を好きなようにーー先輩は先生を好きなんですよね。」 その言葉に。 自分の中に淀んでいた澱が、出口を見つけて流れ出すのがわかった。 眼は心の窓という言葉どおり、一緒にあふれ出す涙。 桐辻がぎょっとする。 「せ、先輩っ？ 僕、なんか悪いこと言いました？」 眼をこすりながら、ぶるんぶるんと首をふる美琴。涙は止まらない。 「ち・・がうの・・・ごめん・・・うれ・・・しかったから・・。」 桐辻に悪いと思いつつ、認めてくれた彼に感謝して。 ああ、これでいいんだと。胸に落ちたすべて。 好きだから。 それが理由。それだけ。それだけでいい。 隠すことも。打ち消すことも。しなくていいんだ、きっと。 「先輩、泣かないでくださいっ。は、ハンカチっ。えっと・・」 おろおろして焦る桐辻の声を聞きながら。 結局戻ってきた出発地点で、美琴は自分の想いを確認し直していた。 桐辻と分かれて家に帰ってから。 携帯を取り出すと、羽矢にメールを打った。 『 大学、合格しました。ありがとう。琉斗さんが大好きです。 美琴 』 ピッと送信したメールと一緒に、飛んでいきたかった。 −−彼のところまで。 
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