 Lastline-1 噂 −美琴−
誰が発信源なのかはわからない。 新学期とともに、その噂は忍びやかに広がって行った。 表だってではなかったが、確実に口から口へと。 「・・・聞いた？」 「嘘・・・まさか。」 「でもさぁ・・・」 「見たって話・・。」 「えー・・？」 ３学期。３年生はろくに姿を見せなくなる。 受験シーズン本番なのだ。推薦。センター試験。大学。専門学校。就職。 それぞれの望みと目標に向かって、必死な季節。３年生に噂はなかなか届くわけもなく。 なのに美琴がそれを知ることになったのは、知らされたからだ。 その日。頼まれていた卒業文集の作文を提出に来た美琴は、職員室を出た。 すでに放課後。校庭では運動部がめいめい汗を流している。 冷たい風が真冬の季節を主張して、身震いが出る。 「早く帰ろう。」 ひとり呟いた美琴の前を、遮るようにした生徒。 「美琴先輩。」 「・・・桜井さん？」 ３年が引退した後を引き継いで、 理科実験部初めての女子部長となった２年の桜井絵里香。 見た目はおとなしく地味だが、研究熱心でしっかりもので。 彼女に任せた３年生は、その後の心配をする必要がなかった。 他の１，２年生もまとまって、部活は円滑に引き継がれているはずだ。 桜井絵里香は、特に美琴と美那子になついていた。 引退後も顔を見れば必ず部活の様子も話してくれる。 二人もそれが嬉しく可愛がっていた。 だから、声をかけてくることは不思議じゃなかったのだが、その顔が。 いまだかつて、こんな眼で美琴を見たことはなかった。彼女は。 「・・・どうかしたの？」 いぶかしげな声に一瞬ためらったあと、爆弾が投げられた。 「先輩と羽矢先生がつきあってるって・・・・ほんとですか？」 美琴は言葉を失った。 「た、ただの噂だってわかってるんです。でも。」 美琴の反応をどう解釈したのか、絵梨香が焦って言葉を続ける。 「なんか、新年にどこかのパーティーでふたりが一緒だったとかいう噂が、 みんなに広まってるんです。新学期が始まってすぐ。」 焦っているのは美琴のほうだ。 あの、カウントダウンパーティーで誰かに見られたんだ−。 「あ、あたしは絶対そんなの嘘だってすぐ否定したんですけど、なんか。 面白がってる人もいるし。こういう噂ってどんどん広がる一方で。」 それはそうだろう。 「先輩、違いますよね？ ただの噂ですよねっ？」 真正面から問い掛けられたその瞬間。 絵梨香の眼に美琴が見たのは、信用と疑いと、かすかに・・・嫌悪？ どちらかといえば真面目で潔癖な彼女は、 意識してなくてもそんな噂自体好ましくないのだろう。 これまで素直に慕ってくれた後輩のそんな視線は、思いがけなくて。 「う・・・そに決まってるでしょ、そんなの。」 考えるより先に言葉は飛び出していた。絵梨香の顔が急に明るくなる。 「やっぱりそうですよねっ？」 その嬉しげな声にハッとするが。 「あ、あの・・さくら・・・」 「あたしもそう言ったんですけど。うちの部って、 半分は羽矢先生ファンクラブじゃないですか。 それ目当てで入った人達がもううるさくて。このところ部内が大変だったんです。」 あたしのことで？ 部内がぐちゃぐちゃに？ 「先輩がはっきりそう言ったって伝えれば大丈夫です。 すみません、受験前に変な噂を耳にいれちゃって。 あの、もう気にしないで下さいね。あたしがはっきり言っておけば、じき収まります。 広まってるのは１、２年だけだし。」 「え・・と。」 「考えればわかりますよね。教師と生徒なんて大問題だし。 ホントなら退学とか、先生はクビとか大騒ぎになっちゃう。 あたしも羽矢先生がそんなことになるの嫌だし。」 ギクッとまた固まる美琴。 「じゃ、あたしこれで。ほんとにすいませんでした。先輩、受験頑張ってくださいね。」 打って変わった明るい笑顔で、絵梨香はぺこっとお辞儀をすると走って行く。 「・・っ・・桜井さ・・・」 呼び止めそうになって、でもできなかった。 何を。言うの？ ホントはって・・・・そんなこと言ったら。琉斗さんが。 そこへかかる声。 「柚華？」 心臓が飛び上がった。だってその声は。 「・・・羽矢先生・・。」 「どした？ なんだか顔色悪いぞ。」 首をちょっとかしげて心配そうにのぞきこむ羽矢。 眼に映る彼の顔をまじまじと見つめながら、さっきの自分に傷ついてしまう。 『う・・・そに決まってるでしょ。』 咄嗟に出てしまったその言葉。 撤回したかった。嘘なんて言いたくない。でも。それで先生が責められたら。 まだ教職員まで届いてない噂かもしれないけれど、もし−−。 「柚華？ ほんとに具合でも悪いのか？ 熱は？」 すっと差し出された手が額に当てられるのにはっとする。 こんなところ、他の誰かが見たらまた−−。 「な、なんでもないですっ。」 あわてたせいで、思いっきり手を振り払ってしまった。びっくりしている羽矢。 「あ・・の・・。」 「あーっ、いた！ 羽矢先生〜〜〜っ。」 駆け寄ってくる集団の足音。 「先生、補習なのに何やってるんですか？ 早く！」 「え？ あ、悪い。今行くから・・。」 「早くってば！」 1年生らしい女子が５，６人。 強引なまでに羽矢を引っ張りながら、美琴に向けた視線がやけに鋭い。 この人達も噂を知ってる−？ 「お、おいっ。そんなに押すなって。柚華、気をつけて帰れよっ。」 「いいからー、行きますよーっ。」 一番後ろにいた女生徒二人が、スイッと美琴にすれ違いざま。 「先生に近づかないでくださいね。」 名前も知らない彼女たちはそれだけ言うと走り去った。 廊下を曲がって見えなくなった羽矢と女生徒たち。 美琴はやっぱりそこからなかなか動けなかった。 自分が好きなのは先生だと言葉にするのは、それでなくても勇気がいるのに。 後輩の、周りからの非難の眼。相手にかかる迷惑。 だからって否定するの？ それしかできないんだろうか。琉斗さんのためには。 とぼとぼと帰宅した美琴を、夜勤明けで戻っていた早苗が迎えた。 「お帰り・・・・どうしたの？」 見るからにしょげた顔の娘にちょっと驚く母。 「ううん、なんでもない。」 「あんた、卒業文集出しに行ったんでしょ？ なんか問題あったの？」 「そんなことないよ。」 「なら何？」 「なんでもないって。遅くなってごめんね。晩ご飯作るから。」 台所へ直行する。 「・・・なんか変よね。」 いぶかしそうな顔で早苗はリビングに戻っていった。 食事の支度に没頭しているように見えても、 美琴は噂と自分の感情に振り回されていた。 『先輩と羽矢先生がつきあってるって・・・・ほんとですか？』 あの瞬間。 自分を支配したのは、決して羽矢への思いやりじゃなくて。 絵里香の目に浮かんでいたあの色。 嫌悪。疑い。軽蔑？ それに駆り立てられて『嘘』だと言った自分の弱さを自分で責める。 言えば羽矢の迷惑になるのは確かでも。 ぼーっと考え事をしながらの食事の支度はやっぱり危ない。 「いけない！ あっ・・つっ・・・！」 「美琴？」 娘の上げた声にあわてて台所へ早苗がすっとんだ。 「やけど？ 冷やしなさいっ。早く！」 蛇口に腕をさらさせて確認する。その手際はやっぱり現役看護師。 「・・・たいしたことないわね。」 「平気。スバゲッティ、伸びちゃう。」 「はいはい。あんたはそのまま冷やしてなさい。いいわね？」 それでも鍋を気にする娘に苦笑しながら、 すでにのぼせあがっていそうなスバゲッティをざるにあげる。 「ミートソースはできてるのよね？ ならオリーブオイルと塩こしょう・・と。」 こちらはほどほどの手際だが、さほど危なっかしくもなく下ごしらえをすませる。 「もういい？」 この季節に冷水にさらした腕は冷えてしまう。 「アイスノンでいいから痛みが引くまで冷やすのよ。座って。お皿に盛るだけだし。」 おとなしく母の言うことを聞いて、 冷凍庫から出したアイスノンとともに美琴はリビングへ移動した。 美琴のミートソースは美味しかった。母の好物だ。 夜勤明けの彼女はいかにも美味しそうに、ワインとともに腹に入れる。 「飲み過ぎちゃだめだよ。」 「なにを今更。夜勤明けはいつものことでしょ。」 「そりゃそうだけど。」 母と娘の遠慮のない会話は心地よいものだ。 二人分にしてはゆですぎたかな、と危惧した量を早苗はぺろっと平らげた。 「あー、ごちそうさま。やっぱりあんたの作るミートソースは絶品ね。」 「お世辞言っても何も出ないから。」 言いながら片づけようとする美琴を制する。 「座ってなさい。」 テキパキとお皿を流しへ運んでしまうと、再び座り込んだ母。 「で？ 何があったの。」 斬り込まれた侍みたいに、美琴が驚いて体を退いた。 「な、何って・・。」 「帰った時から妙だと思ったんだけど、台所で怪我するほど？ さっさと言ってごらん。」 「・・・別に・・・。」 「美琴。悩みはさっさと言った方が楽だって。受験前に抱えてる方がまずいわよ。 どうせ羽矢先生がらみでしょ。」 こういう時の母の勘の良さは美琴の比ではないのだ。 うつむいて黙り込む娘に、図星なのがわかる。 「どうしたの。先生とケンカでもしたの？」 「違うの。そうじゃなくて・・・・噂が。」 言ってしまってから唇を噛んだ。 「噂？」 意外な言葉に早苗はそのまま繰り返す。 「・・・カウントダウンパーティーの時、誰かに見られたみたいなの。 知らないうちに学校で・・・噂になってるらしくて・・・。」 そういうことか、と早苗は頷いた。 誰かに気づかれるのも、それが噂になるのも、考えてみればありそうなことだ。 今までばれなかったのが不思議なくらい。 つまり、ああ見えても羽矢はそれなりに気を遣ってきてくれたんだろうと思う。 「噂って・・・先生方にも？」 「ううん。先生まではまだ・・・たぶん。」 思案しながら。 「で？ あんたは何を落ち込んでるの？ 噂になっちゃったことがイヤだったの？ それともそれで誰かになんか言われた？」 しっかり急所を抑えてくるのは早苗らしい。美琴がまた、即座に首を激しく振ったのも。 「違うの。そりゃ言う人もいるけど。そうじゃなくて・・・。」 「なら？」 「あたし、後輩に聞かれて・・・嘘だって言ったの。」 「それはそうでしょ。羽矢先生の立場を考えれば。 こういうのって先生の方が責められるだろうし。」 「そうじゃないの。後輩に聞かれて咄嗟に・・・隠そうとしたの。 なんだか悪いことしてるような気がしたから。」 早苗の目が軽く見開かれる。 わからなくはなかった。この年頃特有の潔癖さ。憧れを守ろうとする防衛本能。 「どっちにしろ打ち消すしかないでしょ。先生相手なら。」 「そうなんだけど。そうだけど・・・・自分で・・・否定してるんだよ？ 自分の気持ち。 琉斗さんへの気持ち。」 早苗にはおぼろげながら、娘の葛藤が見えてくる。 「・・・大事なのに否定するなんて。自分が嫌なの。そう言った自分に腹が立つの・・・。」 早苗は黙る。 相手が教師で同じ学校に二人がいる以上『仕方ない』ことだと思う。 後輩に聞かれてついそう言ってしまった美琴の態度も、ごく普通の感覚だ。 美琴がそれを納得できないのは、相手を強く思ってるから。 大事な人だからこそ、嘘をつくことそれ自体悲しい。 その感情は早苗からみれば、幼くても真摯で好ましいものだった。 「あんたはほんとに。羽矢先生が・・・好きなのね。」 母の声は優しい。 「世の中、矛盾することっていっぱいあるわ。それに屈しろとは言わない。 納得できなければ向かっていくのは大事。ごまかすよりはいいわ。 でも我慢するのも必要よ。」 「・・おかあさん・・。」 「あんたが高校生でいるのもあと２ヶ月ちょっと。受験にちゃんと受かって、卒業して。 誰はばかることなく逢えるのもすぐよ。でしょ。」 「・・うん。わかってる。」 「しっかりしなさい。受験がおちつくまで学校も自由登校でしょ。 幸いじゃないの。その程度の噂ならほっといて、今は受験。いい？」 「そう・・よね・・・はい。」 踏ん切りをつけるようにつぶやく。 「ありがと、おかあさん。」 「どういたしまして。後かたづけはやるわ。腕、大丈夫？」 「ちょっとヒリヒリするけど、冷やしておくから。」 「ちゃんとね。」 部屋に消えた美琴を見送って、早苗はほっとため息をつく。 「・・・噂ね。面倒なことにならなきゃいいけど・・・。」 まだ閉めていなかったカーテン。窓の向こうはとっぷり暮れて。 遠い灯りの明滅がどこか不安を誘っていた。 
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