 番外編６ バトルbattle −約束はその向こう− 後編
すぐそこまで氷を持ってきていた美琴が、アイスペールを手にその場に立ち尽くす。 ウーロン茶を手にしていた羽矢は、そのグラスを宙に浮かせたままだ。 二人とも視線は早苗に釘付け。 そして早苗はその二人を交互にみやっている。まじめな顔。 「・・・かぁ・・さん・・？・・・なんで・・？」 どうして知ってるんだろう。 まだつきあってる人がいるともいってない。いや、それは気配で察せられるだろうが。 でも。美那子にもまだ言ってないのだ。 日頃忙しい母なのに。 「あんたね、そりゃわかるわよ。キスしてるのみれば。」 「・・へ・・？」 「言ったでしょ。あたし、昨日の体育祭昼直前に着いたの。で、あんた捜したけどいなくて。 煙草吸いたくなって、たまたま裏山の方へ迷い込んだのよね。」 「・・あ・・・」 「まさか娘のキスシーン見るとは思わなかったけどねー。でも学校はやっぱりまずいんじゃないの？」 美琴は真っ赤になり、さすがに羽矢も目を反らす。 やばい。あれを見られてたのか。 「どう見ても生徒には見えなかったから。誰だろうと思って。 そしたら借り物競走じゃない？ いやというほど名前を連呼してくれたし。」 母の涼しい声に頭を抱えたくなる。 当初の狼狽から立ち直るのは羽矢の方がまだ早かった。 ばれてたならしょうがないよな。潔く頭を下げる。 「申し訳ありません。最初からきちんとご挨拶すべきでした。」 改まった羽矢の態度に、今度は早苗が驚いたようだった。 「昨日の学校での狼藉は・・滅多にやらないんですが、つい。勘弁して下さい。」 「いや、狼藉って時代劇じゃ・・。」 「遠からずちゃんと、ご挨拶に伺うつもりだったんですが、 まさか先にお招きに預かろうとは思ってなかったので。」 「ご挨拶・・ですか？ 先生が？」 「ええ。」 「うちに？」 「・・・はい。」 「それって・・その。」 「いや、おつきあいしてるというご報告で」 キスシーンにもさして狼狽えなかった早苗が、羽矢の台詞に狼狽えてる？ 美琴と羽矢は視線を合わせて、ふたたびキョトンとする。 「・・・やっぱりまずいかな。」 独り言のように漏らしてから顔を上げた早苗は、もう一度繰り返した。 「やっぱり、美琴とのおつきあいは考えて頂いた方が。」 この場合の「やっぱり」は一体どこにかかるんだ？ 美琴も。羽矢も。 折角動き出した思考回路をまたぶった切られたようで、言葉がない。 だが、今度立ち直ったのは美琴が先だった。 「何なの？ お母さん、それじゃなにがなんだかわからないでしょっ。」 「・・・美琴・・。」 「そりゃ何も言わなかったのは悪かったけど、あたしだってずっと黙ってるつもりは。」 「あー、黙ってたのをどうこう言ってるんじゃないわよ。間違わないで。」 「え？」 「一から十まで報告しろなんて言ったことないでしょ？ 大体言ったって報告するわけないのに。」 「・・・そうだけど・・」 「お母さんはあんたに、自分を大事にしてsexには注意しろとは言ったけど、 彼氏を作るなって言ったことはないはずよ。まあ、先生だったのはびっくりしたけど。」 「なら一体何が言いたいのよっ！」 美琴の悲鳴を羽矢が遮る。その肩をつかまえて。 「美琴。ちょっと落ち着けって。」 「だって・・・。」 「聞かないとわかんないだろ。」 「先生はお母さん知らないからっ。 いっつも結論だけ先にドンって言って、理由はいくら聞いても教えてくれないことも多いのよっ。」 「でもさ。」 「お母さんっ。」 目が血走ってきている娘に苦笑する。 この子がねー。こんな目をするようになったんだ。恋する女の。 親として複雑に思いながら、早苗がようようと口を開く。 「先生は・・・私のこと、お聞きになってます？」 「それはもちろん。」 「いえ、母としてとかじゃなくて。私の・・昔。美琴を産んだ頃のこと。」 ビクッと美琴の肩が揺れた。 一瞬ためらった羽矢が、しかし頷く。 「・・・ええ。大ざっぱにですが。」 早苗は一度目を伏せ、それから視線をうつむいてしまった美琴に走らせる。 「この子の父親とは決して不真面目なつきあいじゃなくて。真剣に向き合っていたつもりでした。 でも、それはあくまでもつもりで。」 美琴が驚いたように視線をあげた。 これまでその頃のことはごく簡単にしか話してはもらえず、 ましてや母の気持ちなんて聞いたことがなかったのだ。 「妊娠して。私も彼も進学を断念し彼は就職。卒業してすぐ籍を入れましたけど。 私達はあまりにも幼かった。２年で別れました。」 羽矢は黙って聞く。 「高校生ってまだまだ子どもなんです、今の世の中では。 そりゃ個人差はあります。経験によって異なりますから大人もいるけど、まず子どもです。 あの頃の自分を含めて。先生は高校の教師なんだから、こんなこと釈迦に説法でしょうけどね。」 美琴は母が何を言いたいのか、聞き取ろうと必死だ。 「逆に言うと、高校生は人間としてはまだまだ粘土質で。これから創っていくんです。心も体も。 これから大学で、社会で、仕事で、恋愛で。それこそものすごく変わります。 今の形は原形でしかなくて、たとえば１０年経ったらどうなってるかなんて予想もできない。」 「・・ええ、それはわかります。」 「私と、美琴の父親が続けられなかったのは、 結婚と言う形に耐えうる自分をまだもってなかったからです。 自覚もなくビジョンもなく。ただやってきた事態に合わせようとだけして、 結果ついていけなかった。恋愛関係のまま後何年かしていれば、違ってたかもしれない。」 美琴が辛そうに眉を寄せるのを羽矢が気づく。 早苗は知らないのかも知れない。美琴がずっと抱えてきた負い目を。 今の母の言葉はまさしくそれだ。 「だからって私は娘を産んだことを後悔してるわけじゃないんです。 産むことを迷ったことはないし、産んだことを後悔したこともない。 この子は私の生きる理由だったから。」 「・・おかあさん・・。」 美琴が母を見る。その目。 「あんたは私の誇り。」 『誇り』 美琴の視線が羽矢に戻る。羽矢が微笑む。 それは呪文だった。自分を肯定できるように羽矢がくれた呪文。 今。母も同じ言葉をくれる。 それがまるで魔法のようで。奇跡のようで。どうしようもなく嬉しい。 「ごめんなさい。話がそれたわね。私が先生に言いたいのは、 美琴はこれからもっと変わるだろうって事なんです。」 早苗は美琴の涙から目を反らすと、言葉を続けた。 「いえむしろ、変わっていくだろう美琴に、枠をはめて欲しくないんです。」 羽矢が首を傾げる。 「枠？」 「先生はおいくつでいらっしゃるんですか？」 唐突な質問に詰まりながら、答えを返す。 「２９です。」 「結婚なんて考えたことはおありですか？」 なんだか突きまくられて、一体どこへ押し出されるのかという不安。 「・・それは・・。」 「おありになっても不思議はないんですけどね。 ただ、ずうずうしい言い方ですが、もし美琴をって考えてらっしゃるというなら、 ちょっと待っていただきたいんです。」 ぐえ。心の呟き。 なんだろうなぁ、このおふくろさんは。 「この子の進路希望はお聞きですよね？」 「ええ。」 「私も向いてると思ってます。 でも国家試験ですから結構厳しいですし、 取れるかどうかはそれこそ受験後のこの子の努力次第。」 その辺は実にドライでさめた言葉。 「大学か専門学校かわかりませんが、うかれば周囲もガラッと変わります。 友だちも先生も。行動範囲も。全て。」 むろんだ。 「新しい出逢いもあるし、新しい恋愛もあり得ます。」 「お母さんっ。」 「あのね、可能性を言ってるの。あんた可能性まで否定できないでしょ？」 「それは・・・。」 「つまり。」聞いていた羽矢の頭にやっとまとまってくる思考。 「まだ結婚はもちろん、あらゆる枠、というか前提に、 美琴をはめて欲しくないとおっしゃりたいわけですか？」 「あら先生、頭いいですねぇ。さすが物理化学担当。」 重い話から一転軽い口調がなんとも。 「そのとおりです。結婚は問題外ですけど、その予定も。約束も。 今の美琴とはして欲しくないんです。 この子がこれからどう変わっていくのか、親ですら想像はできない。 もちろん、変わらないところもあるでしょう。 それが愛情においてか、性格においてか、それとも？ わかるわけありません。 ですから変わったときに、変わったことに対して自分を責めたり、 負い目を持つような枠を与えたくないんです。少なくとも今は。もし約束なんてしていたら。」 早苗が美琴を振り返る。 「そんな時自分を責めますから、この子は。」 「・・・お母さん・・。」 美琴ですら、どう言えばいいのか、いやどう言いたいのか、わからなかった。 大体、『結婚』なんて言葉がいきなり出てくるなんて思いもしてなかったのだ。 考えたことがないとは言わない。そりゃあ普通に夢見る。 でも現実じゃない。 このところのモヤモヤして曖昧に隠されていたものを、母がベールをはがして、 見せつけたようにすら思えた。 あたしは。どうしたいのか。どうして欲しいのか。 「ってことは。」 そこに羽矢の声は、何故か軽やか。 「俺と、美琴がそういう前提なしでつきあうことには問題はないってことですね？」 「・・・っ・・・」 「・・・まあ・・・そういうことになるのかな。」 やっぱり似てるな。眼を白黒させる母子を見比べながら、そう思う。うん。 「他に何か、ご要望は？」 「え？ ・・・そりゃもちろん」 「あ、避妊については気をつけてるつもりですが。」 先生っ？ 声にならない美琴の叫び。 「・・・美琴。」母のひくーい声。 「は、はいっ。」美琴の背筋が伸びる。 「今度病院までいらっしゃい。」 「え？ ええっ？」 「ピルの処方箋書いてもらおう。ついでに検査もしておこう。」 「お、お、おかあさんっっ！！」 「検査・・・ですか？」頭をかく羽矢。 「身に覚えがなければ問題ないでしょ？」 「まあそうですね。」 何？ なんの？ なんか白刃がとびかってるような。火花が散ってるような。 「受験勉強にあんまり影響させないで下さいね。」 「気をつけます。」 「あーっと、学校にばれるとマズイでしょ。」 「マズイでしょうね。俺がってよりは美琴が。」 「先生だってまずいでしょう？」 「ですか。美琴の負い目は増やすわけに行かないですから。」サラッと言う羽矢。 「なら、やめた方が先生も楽じゃないんですか？」 「おかあさんっっ！！」 悲鳴のような美琴の声。半泣き状態。 でも。羽矢の声は至って平穏。 「・・・おもしろいことは大変なことなんだそうですよ。」 「は・・？」 「美琴がそう言ったんです。な？」 投げてきた視線は優しくて、軽いウィンクに胸が痛い。 「俺も、教師と言っても俄教師でたいしたことないんですよ。 実はここが初めてなんです。教師をするのは。」 「ええ？」 「人間的にもあんまり出来のいい方じゃなくて。去年当たりまでうろうろずっと迷ってて。」 思い出すように窓を見る。 「・・・美琴がいろいろ、教えてくれたんです。俺に。」 「そんなこと・・。」横で美琴は口ごもる。 「俺自身、昔の枷からなかなか抜けきれなくて。引きずってたんですよ。 そこから前に歩き出せたのは美琴のおかげなんです。」 早苗が驚いた眼で娘と羽矢を見比べる。 「ですから。」 羽矢が早苗に向かいあう。 「お母さんのおっしゃることも、その意味もわかります。それはもっともだと思う。 俺も美琴に枷をはめたくはないです。でもそれと、美琴を諦めるのとは又別です。」 「先生・・。」早苗の眼は見開かれたままだ。 「約束はしません。でもつきあうことはやめません。俺にも必要だから、美琴は。」 それははっきりした言葉。 「先生。」 早苗が言う。 「・・この子がこの１年で、ずいぶん変わったのはわかってます。 籠もっていた殻を破って、大人に少し近づきました。いろんな意味で。」 美琴の肩に手を置く。 「それは多分、先生のお陰なんでしょう。感謝してるんですよ。ただ、未熟でも親ですから。 老婆心だと思って下さい。できるなら・・・この子の願いが叶うといいですけど。」 羽矢は目を伏せてから、二人と向き合う。 「いえ。はっきり言って頂いてよかったんでしょう。 俺も彼女の受験で、いろいろ思わないわけじゃなかったですから。 お陰でなんだか、気持ちの整理がついたように思います。」 「・・・琉斗さん・・。」 その呼び方に、早苗が反応する。 「なんだ、やっぱり名前で呼ぶのね？ あたしはまた、二人の時も『先生』って呼んでるのかなって不思議に思ってたのよ。」 「えっ？ あっ、あのっ。」 「やっぱねぇ。二人でいるときに『先生』って呼ばれると、悪いことしてるみたいじゃないですか。」 「あら、してないんですか？」 突っ込まれて再び絶句した羽矢と美琴。 早苗はいかにもおかしそうに、眼を踊らせていた−。 その後の会話はいろいろ弾んだ。 気がつくと早苗は出勤時間になっていて。 「やばっ！ 美琴、あとお願いねっ。先生、ほんとに今日はありがとうございました。 言いたい放題で申し訳なかったですね。私、こういう性格なので。」 「いえ。楽しかったです。」 スリル満点で。 玄関にすっとびかけて、急に立ち止まった早苗が振り向く。 「まさかと思いますけど、今日は素直に帰って下さいね。怪我もあることですし。」 「おっ・・・かあさんっっっ！！」 釘をさされて美琴はまた真っ赤になり、羽矢はひきつって苦笑するだけ。 「じゃよろしく。行ってきまーす。」 車のキーをつかむと、早苗は部屋を飛び出していった。 見送った後、羽矢はソファに倒れ込んだ。 「あーー、参ったーーーっ！」 天井を仰いで眼を閉じる。 「琉斗さん、大丈夫？」 美琴が心配そうに聞く。 バスケットの試合を３，４本こなしたみたいな疲労感。参った。 あのおふくろさん、大したもんだ。 「お母さん、いくつって言ったっけ？」 「３６。」 「俺と７つしか違わないじゃん。」 俺の１０倍人生経験積んできてる感じだ。 ものすごい勢いで突きつけてきたいろんな事。いろんな現実。起こりうる未来。 その中で、自分の娘を囲いきらず、でも守りたいという願いが痛いほどわかった。 何もわからないうちに、結婚してしまった自分の後悔ももちろんあるのだろう。 それを失敗と呼ぶのは間違いかも知れないけれど。 できるなら、同じ轍は踏ませたくないというのは、親ならあたりまえだ。 早苗の話を聞きながら、自然自分自身に問いかけることになった。 俺はどうしたいのか。 結婚？ 約束？ そこまで考えてなかったというのが事実だ。でも。 思い出したのは、昨日のキス。 あの時襲われた不安は、早苗が突きつけた変化という未来に似ていた気がする。 それを怖がれば遅かれ早かれ多分ーー。。 早苗はつまり、二人の前にやがて来るだろう事態を、 かなり早めに唐突にではあるがさらして考えさせてくれたとも言える。 やっぱ年の功かなぁ。・・・って言うとぶっとばされそうだ。 「琉斗さん、コーヒー飲んで行くでしょ？」 「いいよ、もう帰るから。」 「あたしが飲みたいの。」 台所でコーヒーメーカーを用意する音がする。 考えさせられたけれど。 そこでためらいも迷いもなかったのが我ながらおかしかった。 『やめたほうが楽なんじゃないんですか？』 生憎自分の中にその選択肢はなかったのだ。かけらも。 そういう自分に、今満足してる。 囚われてるよなぁ、しっかりと。爪の先まで。 約束はしない。枷ははめない。 それと同じくらいの強さで望んでる。できるなら、自然に行き着ければ。 美琴がコーヒーカップを置いてくれる。 自分もカップを手に、隣に座った。 「・・・ごめんね。なんだか・・・。」 「別におまえが謝ることはなにもないだろ。」 「まさか・・・お母さんが知ってるなんて思わなかった。ましてやあんな・・。」 「さすがにびびったよなぁ。」笑い声の羽矢にホッとしながら。 「・・・ありがとう。」 「ん？」 「つきあうの、やめないって言ってくれて。」 「しゃあないじゃん。」 「しゃあない？」 ちょっと眇めになった顔に。 「必要なんだから。マジで。」それが事実だ。 「・・・ありがと。」すぐ声が潤む。泣き虫だよな。 「そういや、おまえの意見は聞いてないぞ。」 「えっ？」 「おまえはどうなの？ やめる気あった？」 「あるわけないでしょっ！」つい大きくなる声。 「なんで？」クスクス笑う。 「・・・なんでって・・。」 わかってて苛めてる。今日はちょっと疲れたから聞きたい。無理にでも。 「・・・あたし・・ほんとは・・約束が欲しかったのかもしれない・・。」 ズキンと。 胸が鳴るから困る。いきなり急所かよ。おまえはほんと、おふくろさん似だな。 「バーカ、遅い。もう宣言しちまったからな。当分それはない。」 額をこづく。 「・・・うん。」 うつむいた美琴を抱き寄せると、その顎をとらえて上を向かせて。 ゆっくり重ね合わせる唇。 釘を刺されたから帰るしかないが、これくらいは勘弁してもらおう。 柔らかくて甘い唇を味わいながら。 ふと思った。 あのおふくろさん、ああは言ったけど。 俺がちゃんと帰るってほんとに信じたのかな？ これも年の功か？ やっと離れた美琴の唇から、吐息と一緒にこぼれる言葉。 「・・・当分って・・」 「・・・ん？」 「・・・・どれくらい？」 見上げた瞳にまたやられた気分だけど。 「・・・さぁね。」 その先は言わない。 ずっと先の未来。誰にも見えないその行方。 約束はきっとその向こうーー。 ＜ battle / end ＞  |
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