 番外編４ Anniversary −ふたりの始まり− 後編
羽矢達が居酒屋へ向かったのも、似たような時間だった。 まだ仏頂面をしている羽矢。 うしろで、草太と藍が仕方ないという顔を見合わせている。 「羽矢くん、思い出さない？」 「何を。」 「だから、今日がなんの日か。」 「特に意味なんてないだろ、多分。」 「そうかなぁ。女の子って記念日が好きじゃない？」 「おまえだって好きだよな。」 草太が混ぜっ返すように藍に笑う。 「あたしはうるさくない方よ、これでも。」 「あいつだってそういうのは言わないぜ。誕生日なんて危うく知らずじまいだ。」 思い出して羽矢が苦笑いする。 「ならよっぽど大事な日なんじゃない？」 「だったら言うだろ？ 大体俺とあいつって、まだ記念日言うほど長くもないぜ。」 「うーん。」 だって１年経つか経たないか・・・？ 羽矢の頭を何かが掠めた。でもつかみきれない。 曇り空を見上げると、気分までめげる。 今頃、美琴と桐辻がどんなデートをしてるのやら。 やっぱりちょっと短気すぎたかな。こないだの電話を悔やみそうになる。 あいつはちゃんと謝ってたのに。 このあと逢えればこんな不安も消えたんだろうに。つい、ヘソを曲げたから。 でも、なんで今日に拘ったんだろう。 考えながら歩いていて、降り出した細い雨に気づかなかった。 後ろの気配に振り返ったら、さしかけられた傘。 ふいに重なった光景−。 羽矢よりずっと背の低い美琴が、つま先立って傘をさしかける。 『これ、どうぞ』 そのくせ自分はびしょぬれだったあの時。 『あたし、今いらないんですよ。だから。』 『いらない？』 『さしても濡れちゃうんです。だからいらない。』 笑ってるのに泣いてるようにも見えた顔−。 「羽矢くん？」 藍の声に我に返る。 「濡れるよ。あたし、２本持ってきたんだ。１本貸して上げる。」 「あ・・・あ。」 「夏らしくない雨だね。」藍が傘の柄を渡してくれながら見上げる。 「羽矢くんの涙雨かな？」 クスッと笑ったその言葉に、こんどは声が重なる。 『泣いてる人がいると、空も泣くって。昔母が。』 『ふ・・・ん。』 『今日はたくさんいるのかな。』 今よりも長い髪がぬれそぼって、肩にはりついていた横顔。 あれは去年の夏。 ちょうど・・・今頃？ 「藍、悪い。この傘借りてく。」 「え？」 「おまえ当たりだ。今日は記念日だったかも。」 「は、羽矢くん？」 「草太、今日は当たって悪かったな。また今度埋め合わせするから。 みんなによろしく言っといて。」 羽矢はそれで身を翻すと走り出した。 ポカンと見送った二人が、顔を見合わせて笑い出す。 「やれやれ。相変わらずベタ惚れだよなぁ。」 「しょうがないわよ。いい子だもん。幸せじゃない？」 「ま、そっか。振り回されてもＨＡＰＰＹならいっか。俺みたいに？」 「あたしはあなたを振り回してないでしょ？」 腕を組んで居酒屋に入っていくふたり。 こっちだってアツアツなのは変わりなかった。二人に負けないくらい。 桐辻と別れた美琴が向かったのは、あの鉄橋だった。 初めて羽矢に逢った。 いや、それまでも知ってはいたのだが、 羽矢の素顔に美琴が初めて出逢ったその場所。 あれは、１年前の今日だった。 自分が神岡憲一に振られた直後、通りかかったここで。 羽矢が知らない女性にひっぱたかれるのを目撃したのだった。 それまで見ていた羽矢とはあまりにかけ離れた表情が、 自分の心とシンクロするようで見過ごすことができず、傘をさしかけた。 あの日が始まり−。 あれがなければ多分、今の二人はないと思う。 何度学校で出逢っても、話しても。それは表面的なものだけで。 お互いの中へ踏み込むことなんて、なかったと思う。 だから。今日は羽矢に逢いたかった。 できれば一緒にすごしたかった。わずかな時間でもいいから。 やっぱりあたしがいけなかったかなぁ。 ちゃんと言えばよかった。きょうが出逢った日なんだって。 琉斗さんが日付を覚えてるわけないんだから。 あたしだって、去年の予備校のスケジュールを残してあったからわかったようなもの。 自分から誘ったのに。 それを反古にして他の人とデートって言えばそりゃ怒るよね。当たり前。 でも怖かったあの時。泣き出したいくらい。美琴の中に潜在している怖れ。 だから、助けてくれた桐辻の頼みは断れなかった。 これまでの経緯もあっただけに。 鉄橋の上で線路の川を眺め下ろす。 たくさんの種類の電車が、霧のような雨に煙って眼の下を行き交っていく。 銀の糸は紡がれ続けて。 美琴の髪を、肩を、すっかり濡らしてしまって尚、止む気配はなかった。 遠ざかる電車の灯りが、闇に沈み始めている。いくら夏でももう暗くなる。 もう一度、ちゃんと謝ろう。 美琴は携帯をとりだしかけて、降り注いでいた雨を感じなくなったのに気づいた。 眼を上げたら、藍色の綺麗な女物の傘。 誰？ 振り返ったら−。 「・・・琉斗・・さん？」 「バーカ。ぐっしょりじゃねえか。」 羽矢が傘をさしかけて、決まり悪そうな顔をしている。 「どうして・・・ここに？」 「おまえさ、ちゃんと言えよな。肝心なことは。」 「え？」 「・・・アニバーサリーってやつか。」 羽矢が視線を傘に向ける。 「あの時は、おまえがさしかけてくれたんだよな。傘。」 美琴の眼が丸くなる。 「でもやっぱりびしょぬれだなぁ。・・・今日も。」 ニヤッと笑う顔。 「『さしても濡れるからいらない』って言うなよ。風邪ひくから。」 美琴の顔がクシャっと崩れる。 「・・・ごめん・・なさい・・。」 「悪かったな、ちょっと言い過ぎた。・・・俺も逢いたかったからつい。」 美琴が体を投げてきて、片手で傘をさしたまま、羽矢は片手で抱きしめた。 「・・今日ね・・どう・・しても・・逢・・いたかったの・・・ごめ・・んね・・。」 「もういいよ。わかったから。・・・先に言えば良かったのにさ。」 「・・・笑われるか・・と思ったんだ・・もん。」 びしょぬれの美琴。ここまで走ってきた羽矢も似たようなものだ。 藍の傘に目をやって苦笑する。役に立ってないな。 ま、しゃあない。 「ほら、風邪ひくから。帰るぞ。」 「・・どこへ・・？」 その声にドキッとする。１年前には決して聞くはずもなかった艶にやられる。 いつのまにか誘うようになってるんだからな。女って奴は。 「・・俺んとこ。服、乾かしてやるから。」声が掠れた。 美琴はわずかに頷いて、やっと歩き出す。 濡れてるけど、一つの傘に一緒に入って。 二人を行き過ぎた自転車があった。 フードをかぶっていた乗り手は、通り過ぎてからキッとブレーキをかけて振り返った。 「・・・え？・・・嘘・・。」 フードを取ったそれは１年生の沖 鳴見。 「あれ・・・羽矢先生・・？」 もちろん二人は気づきもしなかったが。 羽矢の部屋に戻るとすぐ、羽矢は美琴をバスルームに押し込んだ。 「さっさと浴びて出ろよ。」 バスルームへ押し込まれることが多いなぁ、私。 なんでかな。最初が雨だったから？ シャワーを浴びながら思う。 着替え変わりの大判のＴシャツを着て出ると、入れ違いに羽矢が入っていく。 「濡れた服、ハンガーにかけて置けよ。」 部屋の中はクーラーが効いていて、シャワーで温もった肌には気持ちが良かった。 １年前には知らなかった部屋。１年後こうしてるなんて夢にも思わなかった。 クッションを抱いてソファの上で猫のように丸くなる。 ああ、琉斗さんの匂いがする。安心して眠くなりそう。フワフワと・・・。 「こら」 耳元で不意に声がしてパチッと眼を開ける。その間に抱き起こされた体は腕の中。 「煽っといて先に寝るなんてズルするなよ。」 「えっ？ 煽った・・・っけ？」 やっぱり無意識だよなぁ。ほんと、女は怖い。 「煽られた。」 後は聞かない。 染めた頬に。額に。顔中にキスを降らせ始める。 「・・っ・・りゅっ・・・さ・・ん・・」 暑かったのか、気づけば羽矢は上半身裸のまま。 それを恥ずかしがるヒマすら与えてくれなかった。熱が伝わる。 触れるといつも一瞬だけ固くなる美琴の体。 それから柔らかく力が抜けていくのを感じるのが好きだ。 触れられることにあれだけ抵抗のあった美琴が、自分にだけ開く体と心。 喉元をゆっくりと辿る舌に、ため息のように漏れ出す声。 まだ半分濡れている髪を指で梳くと、羽矢の指先に滴る雫。 その感触が欲情に拍車をかける。 美琴の着ていたＴシャツ１枚の隔てに焦れて、それを脱がせてしまう。 素肌を重ねる気持ちよさは、気持ちがあるからこそのもので。 美琴の脳裏にまた甦る。 １年前に憲一に言われた言葉。 『そんなんじゃ男は納得しないよ。』 そう思ってた。あたしも。 でも。 待ってくれた。解いてくれた。頑なに、独り結んで握っていた哀しみ。 決して今も自信があるわけじゃないけれど。 こうして体と心を、一緒に委ねられることが嬉しい。 あなたが求めてくれることは誇りにして。それにふさわしい人になろう。 きっと。 「・・・ふっ・・んんっ・・ぁあっ・・」 そのあたりで思考は途切れ、溶けていって。 同時に体もとろけている。強く弱くつかまれる胸に、いつのまにか赤く咲く印。 この夏は焼くヒマがないままの白い肌に、なんとも鮮やかで。 つけた羽矢にも満足感を与える。所有印のように。 溶けているそこへ打ち込んだ指に、高く鳴き声があがって。 「ひゃっ・・ぅうっ・・！・・はっ・・だめ・・ぇっ・・」 「・・ん・・・この・・奥・・なっ・・」 「あんっ・・やっんんっ・・・りゅっ・・！」 ここ数日意地を張っていたせいか、どちらも性急だったかもしれない。 跳ねる体を撃ち落とすように貫いて。 「ぁぁあああっ・・！！！っ・・」 そのまま一気に高みへ駆け上がっていった。もつれ合いながら。 美琴はもう一声鳴いて、羽矢の腕に落ちた。 それを見つめながらまた、羽矢も美琴の中に崩れて行った。 ひらひらと羽を舞い交わす鳥のように。 「美琴？」 名前を呼ばれてやっと開いた眼に映る人は笑顔。 微かに恥じらいを含んで微笑み返す。 「水。飲むか？」 ペットボトルを差し出されて、頷くと体を起こす。 冷たい水が唇にも喉にも心地いい。 羽矢の指が髪を梳く。 「また伸びてきたな。・・・逢った頃に近づいてきた。」 「うん。あのあと切ったんだもんね。」 思い出す雨ー。 「ねえ、でもあれ、ほんとになんだったの？」 「ん？」 「証文。」いきなりされたキス。 「何って言われても・・キスだろ。」 「だから・・・なんで？」 真顔で聞かれると苦笑するだけだ。 「多分、俺が先だったんだろ。惚れたのは。」 「え？」 「それが−悔しくて。ちょっと取り戻そうと思ったんだ。」 「え？ え？ どういう・・？」 「取られた分は、取り返す主義ってこと。」 そう言ってニヤッと笑うとまた重ねられる唇。 よくわからないけど。 でもね。 あたしも、もう心半分持って行かれてた気がするよ。 あの日に。 １年前の今日、出逢ったふたり。 ”anniversary ” これからまた重ねていく日々。新しいふたりへ−。 ＜"anniversary"／end ＞  |
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