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参  蓮華草 (いち三つ



春が来た。
風も水も陽も、全てが柔らかくなる。

芽吹いて地を彩る草花は、子どもにとっては格好の遊び道具だ。この頃いちは蓮華を摘んでは娘のところまで走ってくる。

「おかあ、あぐる!」

小さな子どもにありがちな行為だが、いちの場合は理由がある。



数日前のこと。
今年最初の蓮華をみつけた侍は気まぐれに娘に摘んでやった。

「ありがとう。もう春なのね」


ひどく喜んだ母の顔と照れくさそうな父の顔を、行ったり来たりしているいちの眼に気づいて、あとで侍が笑ったものだ。

「あいつ、なんだか悔しそうだったぞ」


その後、道ばたに蓮華を見つけるといちはすっ飛んでいくようになった。摘むや戻ってきて娘へと差し出す。

「おかあの!」

張り合ってるらしいと話す侍に亭主が大笑いしたが、娘には別の物思いがあった。


蓮華といちを見るたび、誰かに重なって落ち着かない。眠ると夢を見る。たぶん同じ夢なのに覚えていなくて。ほらまた。


ぼんやりと霞がかかった中、誰かが問う。

幸せ?


幸せよと娘は答えるが、また問われる。

ほんとに幸せ?


ほんとうだと繰り返すと、声は嬉しげに変わる。

良かった。良かったね。


色がぼやける。
笑い声がこだました。



むくっと起き上がった娘は、あれと思った。また消えている夢。眼が覚める直前まではっきりしていたのに。

眉間に皺を寄せてみるが、形のない夢は尻尾だけ残して逃げていくとかげみたいなもの。こういうときはいくら考えても無駄とあきらめた。

名残は残っている。
とても暖かくて心地よくてまるで。 まるで?


頭を振りながら辺りを見回した。囲炉裏端で寝てしまったようだ。侍もいちも見あたらない。耳を澄ますと家の中はしんとしている。散歩にでもでかけたのだろうか。


侍とそろって休みの一日。ゆっくりと過ぎる時間にいつになく眠気を誘われてしまったが、まぶしい春の日差しもぼつぼつ傾こうとしている。遠くには行くまい。立ち上がった娘は家の裏手に向かった。


物干し場で白くはためく襁褓むつき も数が減ってきた。そのうちいらなくなるのだろうと思うとちょっと寂しい。

物干しの向こうは小さな畑だ。春の種付けに向けて鍬を入れ、冬の間固くなった土をひっくり返して肥やしを入れたばかり。黒々とした土からは冬にはなかったみずみずしい匂いがする。いちが毎日汚してくるのと同じ匂いだ。


三つになったいちは言葉も増えて、侍を「おとう」娘を「おかあ」とよぶ。「じい」「ばあ」は老師と内儀だ。「だんしゃん」は亭主を指す。自分だけ特別長いと亭主はご機嫌だ。

足取りもしっかりした、というより鉄砲玉だ。ちょっと目を離すと糸の切れたタコよろしくどこまでも飛んでいく。今は目に映るもの全て面白いのか、近づいて触って叩いて確かめずにはおかない。

「野良の犬よりタチが悪いぞ」

侍が苦り切った顔で言うのを何度聞いたやら。


「繰り返し言って聞かせるしかないのよ」

内儀も老師も、宿屋の仲間達もそう言ってねぎらってくれる。誰もがとおる道なのだろう。そういえば妹たちも。


はたと娘は立ち止まった。
ずっとひっかかっていた何か。今更に思い出した遠い昔。


母が亡くなった時、妹たちは小さかった。二つと三つ。今のいちと同じくらいだ。母親の死もわからぬ妹たちを、父とふたりで懸命に世話をした。よく遊ばせたっけ。秋には木の実で、春には、そう。


畑のむこうの鮮やかな光景に目を遣った娘は、卒然と幼い声を聞いた。

『ねえちゃん』


瞬きして周囲を確かめたものの、わかっていた。
これは思い出からの声。

『ねえちゃん、きれいー』


田植え前の田んぼを一面に彩る蓮華。濃い桃色と緑の彩りは江戸の東であろうと京のはずれであろうと変わりはしない。


その真ん中に妹たちがいた。ひとりは座り込んで花冠を編み、ひとりは小さな手に持ちきれぬほど花を握りしめている。摘んでも摘んでも咲き揺れる蓮華は無数。


『ねえちゃーん』


よみがえり重なる夢。


忘れたことはなかった。忘れてなどない。ずっと思い出すのが辛かっただけ。その後、日々の暮らしに追われてしまい込んでいただけ。


自分が確かに死を見届けたふたりが、手をふる。笑っている。その後ろに父の姿まである。


幸せ?

ほんとに?

良かったね



「おかあ!」


もう一度まばたきした。背中を向けて寝ころんでいる侍。その横からいちが、さっきの妹たちそっくりに、持ちきれぬほど両手に摘んだ蓮華をぶんぶんと振り回しながら呼んでいる。

「げんげー、はっくおっでー」


ほろりとこぼれた滴をあわててぬぐった。
泣くことじゃないのに。泣くのはおかしい。だって。


「はっくってばー」

しびれを切らしたいちが駆けだした。なんて力強い足取り。起き上がった侍が胡座をかきながら笑って見守る。その頭にも蓮華の花。きっといちが乗せたものだ。


「おかあっ」

飛びついてくるいちを、強く抱きしめた。


こぼれおちる蓮華は、尊き仏が天から振りまくように。

はらはらと。
ひらひらと。

緑萌ゆる地に降りそそぎ、降りそそぐ。





遠くで、鐘が鳴った。





                     < rengesou / End >





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