灯りのついた部屋に帰るのは久しぶりだった。

一人暮らしならあたりまえ。寂しいなんて思うこともなかったのに。
戻ろうとする部屋が明るい。そこで知る。
誰もいない暗さと冷たさが嫌いだったことを。

灯りが単純に嬉しかった。もっと嬉しかったのは、声。
「おかえり」

それから笑顔。



描くことは自然に覚えた。呼吸と同じ。
ひとりで出来る遊びだったし、身の回りに道具があったから。
これまでずっと、描きたいものだけ描いてきた。
人物で描いたのは紅子さんだけだった。

違う。
紅子さんなら許してくれると、わかっていたんだ。


描くことはみつめること、対象への自分の想いをさらけ出すことだ。そのどちらも場合によっては、相手に不快や苦痛や嫌悪を与えるかも知れない。
コミュニケーションが下手な俺は、無意識に人に臆病で。
だから。

彼女なら描けた。
彼女しか描けなかった？



「腹減った」
「はいはい。パスタだよ。いい？」
キャンバスの山の中から、彼女は軽やかに立ちあがる。

「ゆでるから、先にシャワーとかは？」
「サンキュ。そうする」

フワフワの髪を手早く髪留めでひとまとめにして。キッチンにむかう彼女の後ろ姿は細くて甘い。綿菓子のようだ。
着替えを手に、俺はバスルームへ直行した。


パスタはトマトソース。
「前にさ、トマトが苦手とか言わなかったっけ？」
「苦手なのは鞍馬君でしょ。味、どうかな」
「美味い」

お世辞じゃない。
濃厚なトマトソースは唐辛子とニンニクがぴりっと利いて食欲をそそる。

「料理うまいんだ」
「必要に迫られて。叔父さんと二人だったから。鞍馬くんもできるでしょ？」
「最低限はね。忙しいからあんまりやらない」
「そうだね。遅く帰ってひとりだとめんどくさいよね」

盛られたパスタはあっという間に消えた。
「ごめん。足りなかった？」
「いや」
「二人分って久しぶりで。やっぱ男の子は量がちがうよね」

そう言って感心する貴船の顔は柔らかくて温かい。
「ごちそーさん。片づけはやるから」
俺は腰をあげる。

「慣れてるから平気だよ」
「そりゃ同じ。絵、全部見てくれた？」
「もうちょっと」
「なら見て」


洗剤をつけたスポンジで皿を洗いながら、実はテストの採点を待つ小学生みたいに緊張してる。
絵には正解も不正解もない。判断はたぶん好悪だけ。そう思うと余計に怖い。

怖い？


自分のなかにある怯えに気づいて、皿をすべらせかける。
怖いのは期待してるから。拒絶されたくないからだ。

ひねった蛇口から吹き出す水が、汚れや洗剤と一緒に自分自身の混沌も洗い流していく。
水を止めると、残っていたのは俺の本心。
濡れた手を拭いてから、キャンバスに埋もれてる彼女にゆっくり歩み寄る。

「貴船」
「−うん」
座り込んでいる場所から、どこかあどけない顔が見上げる。彼女の周りを取り囲むたくさんの紅子さんは、俺の昔。

「鞍馬くんの絵って。　辛い」
ドキッとする。
肯定？　否定？

「間違ってるかも知れないけど、わかっちゃって辛いよ」
「わかる？」
「望みとか。願いとか。痛みとか」
見上げる瞳にまた出逢う。


望み。
願い。
痛み。


「俺はそれしか描けなかった」
「うん」
彼女は知っている。

「もしかしたら変わらないかも」
「うん」
「でも。貴船を描きたい」
必死で絞り出してもそんな言葉にしかならない。情けない。
返事を待つ間、視線をそらさぬだけで精一杯。

みたび俺を見上げた彼女はわずかに目を懲らした後、ふわっと綿菓子が溶けるように笑った。

「うん。描いて」

詰めていた息がホッとはき出された。安堵と共に。


「あたし、何をすればいいんだろ。ポーズとるとか？」
せっかちな言葉に顔が崩れた。

「締め切りのあるものじゃないから。時々逢ってくれればいい」
「それだけ？」
「十分。イメージが浮かんだらその時又」
「ちょっと怖いね」
「ん？」
「あたしの知らないあたしを見られそう」


思いがけなかった。
描くことは自分を投影するけど、あくまでもその人のつもりだった。
本人の知らない自分？

「いるのか、そんなの」
「そういうのもありかなって。鞍馬くんの絵を見て思ったの」

そう言われたら、ありかもしれないと思えた。
単純だ。

「どうかな。考えて描いてるわけじゃないから。でも」
「ん？」
それは。

「……迷いこみそうだ」　　彼女の中に。



人ひとりはとてつもなく大きい迷路で、時に自分すら見つけられなかったりする。臆病さが頭をもたげる。
それがもし、拒絶を産むなら。

「楽しいかも」
「え？」
「新しい遊園地に行くみたい」
「おまえって」
「あたし、迷子係が得意なんだよ。今度はあたしが迎えに行くね」


浮かんだイメージは、俺を見つけて貴船が微笑む瞬間。迎えが約束されているなら、確かに迷路じゃなく遊園地かもしれない。


俺の中の怯えを一蹴したなんて知るはずもない彼女。
その髪から漂う甘い香りはきっと忘れられなくなる。



真っ白なままだったキャンバスに、俺はやっと絵筆を下ろす。
描き上がるまでは言わないつもり。でも決めた。
タイトルは。


「おかえり」





−「おかえりーsei」　了