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  26話  「パンドラ」


たぶん。
開けるのを恐れていたのは自分自身。

<midori-side>


お店以外で彼に会ったことはなかった。しかも昼間。
きっとこれが最初で最後。

明るい並木を見下ろす2階席のカフェで、グンを待ってる自分に酔う。
憧れていたこんな光景。

「悪い。待った?」

そう言って目の前に座るあなたを夢見てた。叶った訳じゃないのに、錯覚を楽しんでいる。
そう錯覚。

あたしは背筋をのばして、息を吸い込む。

「あなたが好きです」


言わなければ、許されるつもりだった。でも。
初めての欲求は野火のようにあたしを焼いて広がる。このままだと、黒こげの醜さしか残らない。
蠢く暗い感情でいっぱいの箱を、陽の下で開けてしまおうと決めた。


「知ってたよ。ごめん。でも、ありがとう」

グンの視線は変わらない。懐いてきた野良猫をあやすような、逆立った毛を撫でるような。
でもきっぱりと告げている。彼の手はあたしを決して抱えないと。

もう言葉を紡げない。漏れる息を呑み込むだけで精一杯。


すっと伸びた手があたしの髪に触れる。
シェーカーを振る指。グラスを差し出す指。リングのはまった指。
彼女だけを抱きしめる手。

「又、店で」


2,3度梳いた髪を軽く叩いて、立ち去って行く後ろ姿を焼き付ける。
涙で揺れる目の、心の奥。


そうして、あたしは箱を閉めた。





<beniko-side>


鳴ったインターホンに首を傾げた。日中お客なんて滅多にない。彼とも約束した覚えはない。誰だろう?
ドアを開けると背の高い影。

「青?」
「紅子さん。突然、悪い」
ほんとにでかくなっちゃって。見上げなきゃ視線が合わないわ。
「珍しいわね。急用? 入って」


以前は二人で住んでいた2LDK。
一人暮らしを始めた時に青は合い鍵も置いていった。
理由はわかってた。


コンロにやかんをかける。
「コーヒーでいい?」
「ああ」
「でもどうしたの? 学校は?」
そうよ。平日の真っ昼間。

「試験休み」
「あー、そうだった。3月もすぐだものね」
ドリッパーにコーヒーを多めに放り込んで振り返ると、そこに。
「……何? びっくりするでしょ」
目の前のあたしをのぞきこむようにして、彼は言った。

「俺さ、ずっとあなたが好きだった」
コーヒーメジャーが宙で止まる。

「あなたが欲しかった。知ってたよね」


そう、わからないほど馬鹿じゃない。わかっていたけれど。
向かい合うあんたの顔も声も。
昔あたしが望んだ彼そのままで。だからこそ。

「……ごめん。あたしは嶺を重ねちゃうから」

きっと傷つける。 …もう傷つけてる?
生き写しの顔が微笑む。

「わかってた。俺はあなたの中の親父を越えられないんだよな、どうしても」


こんな時に泣くのは狡くて嫌なのに。
滲む視界に、青の困った顔。

「ごめん、情けないけど。ちゃんとふられなきゃ先へ進めなかった」


そうね。あたしも進歩がないわ。同じ轍を踏ませてどうする気だったんだろう。
覆って隠していた箱の中の自分を、露わに見せる勇気。
彼の持つそれは昔のあたしになかったもの。


「……あなたはあたしよりずっと強い」
「いや。背中けっ飛ばされてやっとさ。でももう一つ言いたかったから」
変わらぬ優しい瞳を向けてくれる。

「あなたのおかげで、俺はこうして生きてこられたんだ。感謝してる」


涙を堪えてあたしは首を振る。
逆なの。あなたがいたから、あたしはここまでがんばれた。
あなたはあたしの支えで、自慢。


「貴船さんに返事したんだろ?」
「ええ」
「よかった。お祝いしなきゃな、今度」
「い、いいわよ」
「だーめ。覚悟しとけよ」
笑った青がすっと真顔。

「抱きしめていい? 一度だけ」


答えるまえに包まれた腕。肩の、胸の広さに驚く。
あぁほんとに。もう一人前の男なんだ。寂しさは少しの贅沢。
呟きは彼の声か、自分のものかわからなくなった。

ありがとう。



あけた箱から飛び出せば、そこに道があった。
それぞれの明日への。

空っぽで清々しい空虚さは怖れていたほど辛くない。
次の恋は、もっと綺麗で温かに満たされると信じて。


もう一度しまう、心の箱。





−「パンドラ」 了



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