ここ数日　俺の頭は空っぽだった。

学校とバイト先を往復しながら、適当な受け答えと口の端を上げるだけの笑み。ひとりで部屋にいる時も何をするわけでなく、ただ部屋のまん中の真っ白なキャンバスをみつめていた。


浮かんで消えるのは親父の死に顔。
俺を見て眉ひとつ動かさなかった紫里ゆかり　。

それから紅子さん。
彼女と貴船の叔父さんとの距離が縮まっていくのがわかる。きっともうじき彼女は頷く。もう返事をしたのかもしれない。そしたら−？

『　青　せい　』

俺を呼ぶ彼女の声に、どれだけ安心しただろう。親父が死んだ後、眠れなくなった俺を幾晩も抱きしめてくれた優しい腕。まっすぐな髪。赤い唇。



瞬きするとキャンバスに淡い光が差し込んでいる。何時間そうしていたのか。真っ暗な部屋。いつのまにか夜。さすがに腹が減った。冷蔵庫が空なのはわかってる。

「……コンビニ行ってくるか」

根を張っていたフローリングから尻を引きはがした。


意識が目覚めている真夜中。知ってる。こんなタイミングが危ない。昼間は自動制御されてる俺の心が、鞘を抜かれて抜き身になる。苛立ちに研ぎ澄まされる。

夜中のコンビニの周りで意味もなくたむろってる奴ら。いつも行きすぎるだけの互いが火花になるのも、たぶん俺のせいなんだ。

「……んだよ」
「るせぇ」
「やるかよ」
「待てっ」
「っ……のヤローっ！」

やめろという理性のささやきは、聞こえたところで用を為さない。５，６人じゃ悪いが負ける気もない。今の俺は牙を剥いたオオカミ。ほらみろ。立ってるのは俺一人。

やっぱりひとり。


切れた息を肩で継ぎながら、こみ上げてくる想いは行き場がない。
見上げた空の、煌々と光る満月。
その冴えた光が、体中を切り刻むようで。

「…っ……そっぉぉおおおっ！！」


月に吠える俺は、一体何なんだろう。



「……警察くるぞっ」

誰かの叫び声。その向こうから響くサイレンの音を虚ろに聞いていたら。
「バカ、早く！」
不意に腕ごと引っ張られた。走り出したら全力疾走。夜の町の迷路をくねくねと。俺の手を引きながら前を行くのは、フワフワの糖蜜みたいな髪。

同じ月の光がこんなに甘く見えるのか。呆けた頭で考える。


心臓が破れそうなほど走り続けた。やっと小さな川にかかる橋にもたれた俺たちは、ひたすらに酸素を補給している。甘い光を湛えた髪を起こして、彼女が俺を見上げた。

「…け、がし…なか…った……？」
「……貴船」


満月はさっきと少しも変わらぬ位置。
俺の叫びを吸い込んで尚、輝きを増していた。





−「Cry　for　the　moon」　了