「おい、鞍馬。大丈夫か？」
眼を開けると白い天井。白っぽい壁。保健室？
巡らした視線が巴と出会う。
「情けねえの。何ぶったおれてんだよ」
どうやら体育の授業中にこけたらしい。確かに情けない。
「あー、ちょっと寝られなくてさ」
「それもらしくねーよ。どした？」
素っ気ない口調だが心配してる、巴。
「紅子さんになんかあったのか？」
バレバレだな。
また閉じた両目を手のひらで覆う。
「プロポーズされてた」
「何だよ。珍しくもない」
巴の台詞はもっともだが。
「どうせその場で一蹴だろ。それともしつこい奴でおまえが殴ったとか？」
「返事は保留だ。３度目だし」
「……は？」
巴の驚いた声。
開けた眼に、天井を走る溝が黒ずんで見える。
「保留？ 初めて聞いたぞ、そんなの」
「３度アタックする奴は初めてだ。しかもマジ」
「そういうのがいたのか？」
そうだな。
そういう相手。
「もう３年かな。常連だよ。ずっと黙って彼女を見てた」
体を起こすと、巴に笑う。
「おまえみたいだな」
「ケッ。それでショックで眠れないわけ？」
「うるせえよ」
そっぽをむく。
「熱があるんだ−」
「ほんとかよ」
勝手知ったる様子で探し出した体温計を、巴は俺に手渡した。
ずっと微熱。
貴女に対しては。
幼い頃から変わらずそばにいてくれた唯ひとり。
後ろ姿しか覚えていない母親。
目の前で、命の潮を引いていった父親。
彼女がいなければ俺は、大海原で櫂もなくした小舟。
とうに沈んで朽ち果てていたかもしれない。
貴女はまるで、俺に残された一本の舫綱 もやいづな。
『 青 せい 』
だから。
刷り込み？ マザコン？ なんと言われようがかまわない。
惚れたのは、必然だったんだ。
同時に気づいてもいた。
彼女が俺の後ろに親父を見ていたこと。
紅子さんは元々、母親の友人。それだけだ。
とうの昔に別れた父母。何の義理も責任もないのに。
母親が出ていったあともずっとそばにいてくれた。
親父の死を看取り、小さな俺を引き取った。
それが彼女の意志だったのは知っているけれど。
後悔しなかったのだろうか。
俺を見つめる眼にはいつも切なさが隠れている。
親父を好きだった彼女の、深く深い想い。
俺をひきとったことは彼女にとって、支えだったのか毒だったのか。
幼い頃はただただそばにいて欲しかったくせに。
高校に入って一人暮らしを選んだのは、繰り返した綱渡りと押し殺した激情の果ての結論だった。
彼女の中で俺は決して親父を越えられない。俺が俺である限り、今も残る親父への想いと一緒に彼女を浸食するだけ。
俺には救えない。
それでも近くにいれば手を伸ばす。錯覚でも利用する。物理的に離れるしかなかった。そう言う意味じゃ巴よりずっと弱い。
店のバイトをやめなかったのは、せめて守りたかったから。
未練と言い訳。
彼女に恋する奴は数え切れないほどいる。シェーカーを振りながら何度目にしただろう。
誰にも落ちない彼女にホッとしてた。態度の悪い奴は睨み、牽制し、同じ立場の奴らに同情し、エールを送り。実は誰よりも彼女に近い自分に優越感があった。
待っていたのかもしれない。自分を押しのけて彼女にもっと近づいて、引導を渡してくれる、誰かを。
あの男の顔を見たとたんにわかった。ついに、と。
知っていた。感じてた。
秘めながらも噴き上げるマグマのような、同じ想い。
「貴船のさ、叔父さんなんだ」
「誰が」
「紅子さんにプロポーズしたの」
「はあ？」
巴の声が一段と素っ頓狂、わけわからんって顔。
「ちょいまち。なんでそこに夕緋子ちゃんの叔父さんが」
「話すと長いぞ」
「短く言え」
「偶然？」
「……あのなぁ」
貴船 崇 きふね たかし
叶わなかったあいつの想いの相手。
直接聞いた訳じゃないが。
ひとつの恋が成就することが、どれだけ難しいことかと考える。
紅子さんは親父に焦がれてた。
親父は別れた女を死ぬまで思ってた。
自分の叔父に恋してた貴船。 紅子さんに今も微熱の俺。
それらを全てを踏み台にしても。
これは偽善？ ごまかしだろうか。
「いい人なんだろ？ 貴船の叔父さん」
巴が聞く。
「なんでわかる」
「おまえが文句言ってないから」
「たぶんな」
「肝心なのはさ、紅子さんが幸せになることじゃん」
「あぁ」
「自分でそれができねえならさ」
行き止まりの想いを腐らせない。こいつは俺よりずっと偉い。
「わかってる」
ずっと微熱。上がらないけど下がらない。
でもいい。
貴女が満たされて、微笑んでくれるなら。
「もう見せろ。時間かけたって上がるもんじゃねーぞ」
その口の悪さは、俺のために投げられるロープ。
気づけばここにも、舫綱 もやいづな はある。
「忘れてた。 ……ほらな」
「ちぇっ、体温まで煮え切らねえ奴」
想いを計った体温計の目盛りは
３７．５
−「３７．５」 了
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１１話 「３７．５」