ストローに吸い上げたジュースが落ちるように、その手から何かが落ちていくのがわかった。

待てよ。
なんでだよ。
俺にこの感触だけ残していくのか。

何のために？





「……ま。　鞍馬？」

我に返ると、そこはいつものファミレス。横に巴が、向かいには貴船が座っていて、どちらもポカンと俺を見ている。

「何ボーっとしてんだよ」
「あ、あ、悪い。ちょっとトリップ」
肩をすくめる巴。貴船が心配そうにのぞき込んでくる。

「具合でも悪いの？　大丈夫？」
「あー、夕緋子ちゃん。気にしない。こいつ時々こういう感じ」
「そうなの？」
「そう。唐突に自分の中へはまりこむ」
「巴、それじゃ馬鹿みたいじゃん」
「馬鹿だろ」
即答されてムッとしたが、巴は構わず腰を上げる。

「さて、俺はボツボツ」
「おまえさ、部活はもっと早く行かなくていいのかよ」
「へーきへーき」
「なんでおまえが副部長なんだかなぁ」
「そりゃ当然、顔と実力」

本気で言うから脱力する。

「……さっさと行け」
「へえへえ。夕緋子ちゃんも適当に帰っちゃいな」
「うん」
あっさり頷いた貴船はくるりと眼をまわして微笑んだ。


巴とふたり、もしくは緑と３人が常だったファミレスに、いつのまにか貴船も加わったが違和感はない。誰も異議を挟まないので日常になりつつあった。
巴を見送ってから貴船がコップのストローをくわえた。せり上がっていくジュースが見える。

「トマトジュースってうまい？」
トマトは好きだが、俺はジュースは飲みたくない。

「うーん。美味しいとは思わないけど体にいい感じ」
「美味しくなくても？」
「まずくはないから」
彼女がしゃべると当然ストローから口は離れ、吸い上げられていた液体が落ちる。

鮮やかで血の色を連想させる。

だから思い出したのだろうか。



「手が」
「え？」
「手が冷たい人はさ、心が温かいなんて言うじゃん」
「うん」
「あれって、冷え性の誰かが流した迷信だよな、絶対」
「なんで？」
「冷たい手は冷たい手だろ。心とは何の関係もないし。ほんとに冷たかったら死んでる」

貴船の驚いた顔。そりゃそうだな。
なんでこんなことしゃべってんだろう、俺。でも。

言葉が止まらない。


「俺の親父はガンでさ。みつかった時は手遅れで。おまけにまだ若かったから。進行はあっという間だった」

窓ガラスの向こうへ視線をやる。
冬枯れの空はグレーの斑。陽は封じられている。

「俺は最後までそばにいた。それが親父の意志だったらしい。衰弱していく自分を見せ続けることがさ。本人は告知を受け入れて痛みを抑えられてたから、見た目は穏やかだったのが救いだったけど」



浅くなる呼吸。死へ向かうだけの体。
わずかに開いた眼で俺を捜して、みつけると笑ったっけ。
その顔は複雑すぎて、俺には読めなかった。



「最後の最後。息がどんどん落ちていって。脈を計る機械音の間隔がどんどんあいて。とうとうピーッとしか鳴らなくなった。俺が握りしめてた手から、力と意志が抜け落ちていくのがはっきりわかった」

そう。
まるで、ストローから引いていくトマトジュースみたいに。


「実際はまだ温みがあったはずだけど、俺にはもう。　ただの冷たい手だった」

耐えられたのはそこまで。
病室を飛び出して廊下を走りぬけた。
外は激しい雷雨だった。


「……親父はなんで俺に見せ続けたんだろう。　自分を」


痛みだった。傷だった。雨のように。
時が経っても。いや、経つに連れ余計に何故と。
ひょっとしたら親父は、俺を憎んでいたのかとすら思った。



「……いいな」

黙って聞いていた貴船から漏れたのは、この上なく不似合いな言葉。

「は？」
俺の話聞いてたのか？　そんな顔だったと思う。
貴船はちらっと眼を上げて苦笑した。これも場違いな表情。
「ごめん。でも。あたしは、冷たい手も知らずじまいだったから」

思い出した。
こいつの親も死んでるんだ。



「うちの両親はね、事故で。ふたり一緒に逝っちゃって。留守番してたら突然『死んだのよ』って。連れて行かれたところにふたり並んで寝てて」

カラカラと。
ストローがかき回す氷の音の虚ろさ。

「あたしはそこで半狂乱になって倒れたらしいの。一週間熱でうなされて。気がついたら終わってた。通夜も葬式も全部。ふたりは四角い箱に入っちゃってた」
貴船の眼は遠い。

「その後もなかなか死を受け入れられなくて叔父を困らせたの。仕方なかったって言われたけど。弱かったと思うよ。見送れなかったのが今は悔しい。だから。鞍馬くんが羨ましいよ」

俺を見る、フワフワした外見とは真逆の眼差し。


「あなたのお父さんが、あなたをそばに置いたのは、あなたの強さを信じてたからだよ。自分の生と死を見せることが。温もりが冷たくなるのを感じさせることが、お父さんに出来る最後の愛情だったんだと思うよ」


溢れることはなく。
でもその眼に湛えられた涙は、誰のためだったんだろう。





親父の墓は町はずれにある。高台の上。
年に１度、命日に紅子さんに引きずられてくるのがせいぜいだったそこに、一人で来ようと思ったのは、初めてだ。

紅子さんがこまめに来てるんだろう。きれいな墓所。枯れてない花。
伸ばした指先に墓石は冷たい。

あの手のように。



心配だったんだろうか。ひとりになる俺が。
ふがいなかったのだろうか。ひとりにさせるしかない自分が。
だからって、幼い俺に伝えられるものは少なく。
できることは。


親父。あんたには今でも文句がある。恨み辛みも山ほど。
それも兼ねて。

「これから時々来るから。観念して聞けよ」


冷たい墓石なのに、触れていた指先がわずかに温もったように思えた。
癒えずに疼く傷であっても。
記憶の中の俺を温めてくれるのは、あの日の冷たい手。

紛れもない親父の心。





−「冷たい手」　了