目には見えなくても、境界はある。
それは隔てと守り。

国と国の間に。　街と街の間に。
人と人の間に。

俺と彼女の間に。





「巴ともえ　−」

俺を呼ぶかったるい声。
鞍馬はダチだ。
たぶん、ほんとの意味ではただ一人の。


こんな風に言うと誤解を招くか。俺はバリバリのストレートだ。
自慢じゃないけどモテる。

鞍馬はあくまでもダチ。親友。
俺がそう思ってるなんてあいつは夢にも思わないだろう。
言う気もサラサラない。

俺と鞍馬の間にだって境界−ラインはある。あたりまえだ。
あいつはそれを尊重する。踏みにじらない。無視しない。そのくせ俺が堕ちると思えば即座に踏み越えてくるだろう。ためらうことなく。

知っているから、俺は俺でいられる。
ラインの向こうから俺を奮い立たせる唯一の奴。だからダチだ。


パカッと頭をはたかれた。
「おい。聞いてないだろ」
あー確かに聞いてなかった。
「なんだよ」
「緑が今日、部活に出てるぞ」

げ。　さっさと言えよ。
俺の腰が浮く。

「マジ？　受験直前じゃん」
「だからだろ。精神統一したいってさ。憂さ晴らしもありか」
「らしい……ってこうしちゃいらんない。じゃなっ」
「はいはい。帰り、送ってやれよ−」

言われるまでもないって。


鞍馬のせいで後れを取った。弓道場はすでに人だかり。部外者も言うに及ばず。３年まで。
そりゃ緑さんに憧れる奴なんて、星の数ほどいるわけだけど……俺もスターダストか？　もうちょっとましなつもりだが。

「入れてくれ」

副部長の権限で人波をかきわけ、更衣室へ急ぐ。最短記録で身支度をすませると、髪を縛りながら射場へすべりこんだ。


しんと静まりかえっている的前。構えている４，５人。
もちろん緑さんは一目でわかる。自ずと注目される所作の美しさ。構え。凛とした姿。

肩を覆うストレートの黒髪は、ひとつに結わえられて背に流れている。
左手に弓と矢。弓構えの彼女。眼はまっすぐ的を見据え、整えられる呼吸が聞こえそうだ。

すっとあがる両手。打ちおこしに入る。右手が矢を取り、弓につがえて掲げられて、キリキリしぼられていく。
しなる弓。引かれる矢。微動だにしない視線。

どこまで絞る？　　どこまで耐えられる？
その問いは彼女にか。
自分自身にか。


だんっと。
気づけば放たれた矢が的に突き刺さって、矢羽根が震えていた。彼女の残心はただ美しい。ギャラリーからほう、と漏れるため息。
何立かすませてから俺に気づいてくれた。

「巴。サボりかと思ったわ」
「緑さん。来るなら教えてよね」
「ちょっと息抜き。本番近くなるとさすがにね」

彼女の成績で不安があるのか？　いや、違う。
放っても放っても届かない矢を、彼女もまた射続けているのだろう。
遙かに遠い的へ。


「久しぶりに、一緒にどう？」
「光栄だな」


彼女の背中を視界に構える。
射るときは見ないけれど、全身に彼女を感じる。その幸せ。

人が発する気は千差万別でも。彼女の気だけはわかる。５月の若葉のような、むせ返るほどの命のオーラ。決して踏み込めない。踏み込ませない。

彼女は部活の先輩で。鞍馬の幼なじみで。
俺の想い人。
ずっとずっと。光の矢も届かぬほど遠い心。


鮮やかなオーラははっきりとラインを示して、さらに彼女自身の想う人へ向かってる。
知っているから。知っていても、俺は俺の想いを止めようとはしない。

ラインを踏み越えることなく、ラインを守って尚。
俺は彼女を包囲する。広く。深く。高く。それだけは誰にも負けない。


満月のごとく引き絞られた弓から、彼女は耐えきれぬように矢を放つ。
追いかけて俺の手からも矢は放たれる。

離れはいつも一瞬。どちらも射抜くのはそれぞれの的。
決して射抜けない心とは裏腹。
それでもいい。



彼女の想いも。
俺の想いも。
ラインが守って閉じこめる。

矢羽根の震えは、自分だけが知っている。





−「境界（ライン）」　了