俺が雨が苦手なことを、知っているのは紅子さんだけだ。

嫌いなわけじゃない。
拒絶もしない−できない。


空は俺に頓着せず晴れたり曇ったり。
当たり前だが雨も降らせる。
濡れるのはどうってことないし、具合が悪くなるわけでもない。
苦手なだけだ。


元々友達は多くない。その分付き合いは深い方かもしれない。
でも誰も気づいたことはなかった。
雨が降ると錆びた蝶番のように、俺のどこかが軋むのを。



巴と、緑と、俺。
年明け初めて顔合わせをしたのはいつものファミレス。
３年の緑は俺たちと違って受験目前。キリキリしてていいはずだけど。


「又彼女と別れたって？」
浮かべてる笑み。ほんと、マイペース。

「年の初めの挨拶かよ、それ」
「年明け初っぱなに耳に入った噂よ」
「緑さん。遅れてる。最新があるんだ」
巴の訂正に緑が首を傾げる。

「へえ？」
「又彼女が出来た」
さすがに目を丸くして、緑が俺を見る。

「速攻ね」
「それは誤報」
「誤報？　二人で遊園地ってのも？」
巴が突っ込む。

「いや、それは事実」　
だからめんどい。緑が呆れてる。
「何それ」
「大体さ、転校生が紹介されて、次の瞬間ちょっかい出してんだぜ」

俺は黙った。どこから説明すりゃいいんだ。
そもそも、説明すべきなのか。

「あれ」
突然巴が立ち上がって、外へ飛び出していった。
「どうしたの」
「さあ？」
顔を見合わせた俺と緑が、再び巴の声を聞くまで１０秒。

「こっちこっちー」
「なに？　と、巴くん、だよね？　どした……鞍馬くん？」
「貴船」


俺の誤報と事実の証人、貴船が巴にひきずられて現れた。
ああ、めんどい。
貴船は俺から巴へ、巴から俺へと視線を往復させてから、緑に気づく。

「え・・・っと・・？」
「あー、こっちは３年の千川　緑　せんかわ　みどり　サン。俺の部活の先輩で鞍馬とは幼なじみ。で、こっちが最新情報の転校生。貴船　夕緋子ちゃん」

貴船はあわてて頭をピョコンと下げる。緑は意外そうに眺めてる。
顔をあげた貴船はそこでいきなり。

「あーっ、鞍馬くんの『年上の美人妻』ってこの人？」

沈黙の後、巴と緑が爆笑し、俺が頭を抱えた。
『美人妻』って何だ？


「き、貴船さん……お、おもしろすぎっ。それ、今度俺も使おうっとっ」
「やめろって。緑、おまえも笑ってないで訂正しろよな」
全身から力が抜けそうな俺に、貴船がきょとんとする。
「違ったの？」

爆笑第２弾だ。真顔で聞くなよ。
ああ。　めんどい。


１０分後。貴船は巴とすっかりおしゃべりに興じていた。いつのまにやら巴の呼び方は「夕緋子ちゃん」になってる。女の子大好きな奴だから不思議はないが。あれはかなり気に入った様子。

「可愛いわね」
緑の言葉が意外で、隣を見る。
「珍しいな」
「何？」
「おまえって気に入らないと歯牙にもかけないから」
「それはあなたでしょ」
「は？」

「興味なければシカトのくせに。珍しいじゃない。関わってるなんて」
「いや、めんどいんだけど」
俺ってそうだっけ。

「今までの彼女だって、全部告られてつきあったクチでしょ」
緑には全部筒抜けだからなぁ。
「別に貴船とつきあってねえぜ」
「だから珍しいって言ってるのよ。理由もなく構ってるの？」


俺は眉を寄せて考え込んだ。
理由なんて考えるヒマもなく、どっちかっつーと否応なしの接触だったのだ。始めは。

確かにこないだの遊園地は自分でも予定外。行くつもりもなかったのだが。
行ってしまったのは俺なりの経緯が。



「緑はさ、かくれんぼ。うまかったよな」
「何よ。急に」
面食らった顔になる彼女。

「すげえ変なとこばっか隠れんの」
「悪かったわね。そのあたしを必ず見つけたのは青でしょ」
「俺は見つける方の天才だったから」
「なのに隠れるのは下手なのよね。必ずみつかってたじゃない」
「まぁね。知ってたから」
「え？」

見つけてもらえない怖さをさ。


「何？　じゃあ遊園地って、夕緋子ちゃんが誘ったのぉ？」
巴の素っ頓狂な声が、俺と緑の話をぶった切った。
「うん。ほんとに来てくれるなんて思わなかったんだけどね」
貴船がえへへと鼻の頭をかく。今更だけど主張しておこう。

「俺だって行く気はなかったんだ」
「でも行ったんだろ？」
巴が突っ込む。
「あの、あたしが落としたバスの定期券、拾ってくれたんだ。それを届けるついでにって」
確かにそれが発端だったのだが。

「ふーん。青ってずいぶん親切だったのね」
どこか皮肉な緑の言葉に、そっぽを向いた。
「気が向いたんだよ」

迷子のお迎えにさ。



ファミレスから出ようとして、雨に気づいた。
チッ。　微かな舌打ちは教室に置いたままの置き傘のせい。

「あら、気づかなかった」
「傘ある。緑さんは俺が送るよ。道一緒だし。夕緋子ちゃんは？」
「あたしも折りたたみ持ってる。鞍馬くんは？」
俺を見上げた貴船の瞳がちょっと不可解な色。

俺と貴船は同じ方向だけど、貴船の折りたたみじゃどうせ濡れる。
なんとなく今日は濡れたくない。濡れるなら一人がいい。

「俺、そこのＣＤショップに寄るから。じゃあな」
キュッと爪を噛んでみんなより先に、ＣＤショップへ突っ切った。
「あばよーっ」
巴の声を背中で流した。





母親がいなくなったのは、雨の日だった。
遠くなっていく後ろ姿だけ覚えている。髪からしたたる冷たい滴しずく　と共に。
それが最初の、傷。


親父が死んだのも雨の日だった。
「嶺りょう　さんっ！」
紅子さんの悲鳴が細く高く響いて。飛び出した俺を稲光が切り裂いた。
また、傷が残った。





硝子窓の向こう。雲に隠れた太陽はとっくに沈んだだろう。貼り付く雨粒を模様に店内が浮かび上がってる。
たっぷり１時間は油を売ったってのに、雨は止むつもりはないらしい。わがままなガキみたいだと八つ当たりしかけて気づく。
ガキは俺か。

降る雨に理由はない。雨を見る俺に理由はあっても。
ため息を吐いて出口まで来たらそこに。

貴船がいた。
赤い傘をさして人待ち顔で。誰かを待ってる？
一言も発せず立ち止まった俺を見て、即座に歩み寄ってきた。

「やっと出てきた。はい」
差し出すのは紺色の。
「何？」
「傘」
「……俺？」
「他に誰かいる？」

貴船はすでに私服。ベージュのコートは首元がフワフワした羽根のようで、よく似た髪に沿っていた。足元のスニーカーはでも、水が浸みている。

「なんで？」
「濡れるの嫌いかなって」

俺は目を見ひらいた。誰にも気づかれず、誰にも言ったことはない。
それにやっぱり。
「なんで？」

貴船は赤い傘ごと天を仰ぐ。真っ暗な空から、間断なく落ちてくる雫がその髪に光を散らす。
「こないだの御礼？　迎えに来るのって好きなの」

笑いながら、もう一度差し出される紺色。
知らないうちに手を伸ばした俺はそれを開いていた。


「帰ろっか」
パシャパシャと先立つ赤い傘が、くるっと振り向いて揺れる。
「途中まで一緒だよね。早く」
苦笑して歩き出すしかなかった。

変な奴。





雨は苦手だ。いつになっても。
でもこんな日もある。

フワフワと揺れる赤い傘は、行く手を照らす灯りのようで。
導かれる俺は、ひととき雨を忘れていた。





−「雨」　了