”Rouge　ルージュ”は夜の店だ。
午後７時に開店し午前３時に閉まる。

「一見さんお断り」ではないものの、看板もなければ宣伝もない。そんなことする必要がない。
今風に言うなら「隠れ家的」とでも表現するのか。

不思議な店。



店主は紅子。
ボーイッシュなショートとモデル並みの背。はっきりした顔立ちは美人。
言い寄る客を実に明るくバッサバッサと切り倒してしまう。そりゃもう見事に。
料理も紅子が作る。なめてはいけない。絶品だ。晩飯代わりにやってくる客がいるほどだ。


バーテンはグン。
客を惹きつけて放さない華麗なシェーカーさばき。ルックスも上等でファンも多い。年齢不詳の浮気者。その実愛妻家。３人の子持ちなのは知る人ぞ知るところだ。
昔は海外を渡り歩いたらしく、カクテルへの情熱と造詣はいまだ掘り進む井戸のごとく。


レイラはシンガー。
小柄で可愛い彼女がグンの奥さんで、３人子どもを産んでるなんて初対面で信じる奴はいない。わかったところでファンは減らない。
レイラの声を聞きたくて駆けつける数多あまた の連中に、琥珀の瞳で甘く切なく人生を歌ってくれる。


これだけで客が引きも切らない理由は足りているってのに。
たまにしか顔を見せないバーテンがいた。

個性の見本市みたいなこの店でも負けていない、イケメンの彼は”Rouge”の裏メニューだ。カクテルの腕前はグンにかなうわけもないが、カウンターの向こうでシェーカーを振る姿は人目を惹く。時折グンが苦笑してるほど。


「あー、セイってなんて華があるんだろうな。黙ってれば」
「ほっといてください」

『セイ』と呼ばれる容姿が華なる男は舌に毒もたっぷりで、騒ぐお姉さん達をものともしない。鉄壁のカーテンは紅子の斬り捨てぶりといい勝負。
作るカクテルはまだ未熟なのに甘く熱くとろけそうなものばかりで、そのギャップがまた魅力らしい。


かくして"Rouge”は客が溢れる。
明るくにぎやかな店内に優しいジャズと美味しいカクテルと料理。
美人にハンサム。
こんな贅沢どこにもない。そう思う常連でいっぱいだ。





年末の土曜。
一段とごった返す店内をさばきながら、紅子がセイに囁いた。


「ね、あれってあなたの知り合い？」
「どれ」
「いきなり見ないでよ。向こうのスピーカーのそば。趣味の悪いネクタイの横から睨んでる」
「俺を？」
「……あたしかしら」


振ったばかりのシェーカーを洗うついでに、紅子の言った方向へセイはさりげなく眼を走らせた。
確かに趣味の悪いネクタイの男の横から、あれでも隠れてるつもりなんだろうか。その視線はまるでナパーム弾だ。


柔らかそうな赤茶の髪。はっきりした眉とまつげ。パープルのシャドウと濡れたルージュ。
あでやかだな、でも−−なんだ？　すごいアンバランスを感じるセイ。
なんだか変だ。似合わない。
視線がふとセイに移ったが、怯んだのかスイと反らされた。


「あなたじゃないわね」
「紅子さん、心当たりあるの」
「ない、けど」
「単なる美人の鑑賞じゃない？」

笑いつつどっちもわかっていた。あれは敵意だ。


だからその後も注意していた。
女は隣の男をあしらいながら料理を味わい、酒は口をつけるだけで歌に聴き入り、時折視線を紅子へ注ぐ。だが敵意は次第に揺らいだ。
変わりに現れる色はセイにも覚えがある。切なさと悔しさと憧れ。

そこでまた目があって、今度はセイが反らした。
やばいかも。





レイラのステージが一段落すると、人がかなり退く。
空いたカウンターへやってきた彼女は、まっすぐセイの正面。


「オリジナルも作ってくれるの？」

細くて華奢な声。いくつだろう？


「お望みなら。グンさんの方がお奨めだけど」
「自信ないんだ」
「事実だから。俺のはまだまだ出来に幅がありすぎるらしいよ」

自覚している。


「今の、あたしの気分に合うものを」

３０代前後のＯＬによくある挑発的な態度。大方はセイの気を惹こうとするものだが。この娘のは違う。
まるで勝負するみたいなその眼を見て、セイはシェーカーを取った。


「文句言っても聞かないぜ」
「カクテルって詳しくないもの。美味しければＯＫよ」

その台詞は聞こえたのかどうか。
手元と足元からいくつかの瓶を次々抜くと投げ入れ、見る間にセイはシェーカーを振り始めた。


『華がある』
そう言われるのは伊達じゃない。彼女も息をのんだ。伏せた視線。シェーカーを抑える指。据える腰。未成熟な色気が零れて、みとれる−。


気づくと彼女の前のグラスに、白とピンクを重ねた淡い色のカクテルが差し出されていた。小さく点々と浮かぶのはタピオカ？
問いかけるような彼女にセイはグラスを促した。口に含んだその味。優しい甘さと懐かしさ。つい漏れた本音。

「美味しい」
「ハッシャバイ」
セイが告げるカクテルの名前。


「それって」
「子守歌、だね」
「なんで？」
「頭をなでて欲しそうだったからさ」

飛び上がった彼女の真っ赤な顔。


「ば、バカにしてる？　あたしは大人よ。Lady　に向かって失礼だわ」
「Lady　は自分をLady　とは言わない」
いかにもセイらしい素っ気なさ過ぎる答えに詰まる。

「第一、子守歌は大人も子どもも関係ない。誰だって欲しくなる時はあるさ。必ず」

言葉もなくにらみ合っていたら例の趣味の悪いネクタイが声をかけてきた。


「何熱くなってんのー？　ゆいちゃん、行くよ」
紅子がハッと見た。彼女はそのまま店を飛び出していく。
「待ってあなた」
「ちょ、ちょっと、ゆいちゃん？　まちなってば」
ネクタイが追いかけて、紅子の声はかき消された。


見送ってから、グンが聞いた。
「知ってる子？」
「……違う、かも知れない。高校生って聞いてるし」
「高校生？　人違いじゃねえの？」


そう言って、セイは彼女の残したグラスを含んだ。
甘い−甘すぎだな。俺の子守歌も。





片づけて店を出たのは午前４時近く。今日は日曜。休みだ。

「お疲れ」
「又月曜」
３人と別れて帰りかけたセイが、ふとふりかえると眼にした人影があった。

帰っていく紅子をつけるそいつの口を、背後から手で塞ぐ。予想もしてなかったんだろう。じたばた暴れるけど細いから抵抗にもならない。


「どうみたってLady　のすることじゃねえよな？」
そう言って手を離す。パッと飛びすさってバツ悪そうに向かい合うのはさっきのハッシャバイな彼女。

「どういうつもりだ。洒落にもならない」
こんなときは凄みのある声が役に立つ。追いつめられた彼女は叫んだ。

「あたしの彼氏が、紅子って人に惚れたのよ」
「彼氏？　さっきの？」
「ちがう。あれは……ナンパされてつきあってもらっただけ」

「彼氏っていくつさ」
「……３９」
「はあ？」
「言っておくけど、援交とかと一緒にしないでね」

まあ恋愛は自由だが。


「じゃなにか？　彼氏がとられそうだから偵察に来たってわけ？」
「偵察じゃないわ。ろくでもない人だったらって思って」
「ろくでもある人だったろ？」

また黙る。


「なのになんであとつけてんの？」
「子どもがいるって聞いたから……」
さすがに苛立たしくなったセイが髪をかき上げる。目つきの悪さは三割増しだ。

「俺はあんたの相手が３９でも５９でも別にいいと思う」
驚いた顔の彼女。

「同じようにあんたの彼氏が本気で惚れたら、ろくでもなくてもガキがいても関係ない。そういうもんだろ」
食い入るような眼は三割増しの睨みにへこたれない。


「第一、紅子さんはろくでもないどころか天下無敵のいい女だ。悔しいかったら負けないぐらいの女になれば」

その台詞をどうとったのか、視線を伏せる。

「あなたも彼女が好きなの？」
「もちろん」

ためらいはない。
それがどういう意味でも。どれだけラビリンスでも。


「……わかってるわよ。彼女、Ladyよね。正真正銘。あたしはBabyなのに」

見れば涙をためて、でもそれを潔しとしないのだろう。必死で堪えて。意地がその眼を鮮やかに彩っている。

綺麗じゃん。セイは珍しくそう思う。


「Ladyになるのは今からだろ。でもうちはBabyは入れない建前でね。今度来ても高校生はお断りだぜ」

驚いた彼女の顔に吹き出す。泣いた顔なら年も一目瞭然だな。

「あんたと彼氏の問題は、あんたと彼氏で決着しろよな。もう来るなよ、Baby」

それだけ言って背を向けたのに。
「ねえ、あのカクテル美味しかった」
足が止まる。

「今度行ったときも作ってくれる？」
ふりかえったセイは、ニヤッと笑った。

「Ladyになってたらな」

悔しそうに、でも少し嬉しそうに。彼女は潤んだ眼をクシャッと細めた。初めて見た笑顔が心のどこかに焼き付いた。ポラロイドみたいに。


片手をあげて歩き出す。もう逢うこともないだろう。
「バイ」
後ろから追いかけてきた微かな声は泣き笑いに聞こえた。
「バイバイ」





紅子さんにも言わない。
名前も知らぬ彼女との、それは冬休みの秘めごとになった。





−「秘めごと」　了