夜明け近く。
　停滞していた鈍い痛みが、ふっつり綱を切ったように調子が変わる。ぐんぐんと強く、きつく、押し寄せて、腰骨を鉄の棒でグイグイと突つかれるみたいだ。

　それでもなんとか分娩室まで、光と藤尾に助けられて、葵は歩いた。
　途中で何度も立ち止まりはしたが、存外歩けるものだ。頭の隅に残っている冷静な部分が感心する。

　「がんばって、しっかり、もうちょっとよ」

　後ろからひっきりなしの小町の声援や、おっかなびっくりで見守っている鋼のまなざしも、そこにちゃんと刻んでいた。雀は階下で、源の実家に連絡しているはずだ。

　どこを見ても家族がいる。
　自分はすごく、恵まれていると思う。


　分娩台に上がると、あとは怒濤だった。内側から生まれるリズムに必死で自分を合わせる。押して、引いて、また押し寄せる陣痛の波に、荒々しく翻弄されるのを耐え、痛みを逃す。

　体の中が海になり、宇宙になった。息すら自分のものではない。新たな命が生まれでるための、定められた理ことわり　に従っている。

　陽が上るのを感じた。
　見えないのに、紫のグラデーションで染まる空が、脳裏に映る。
　ちょうどその時、医師の指示がとんだ。

　「今よ、いきんで」
　「葵！」
　「葵さん！」

　光の声に藤尾の声が重なり、呼応するように外からも声が聞こえた。小町と鋼と、それからそれから。

　「葵さあーん」
　「負けんなっ、葵！」
　「頑張れ」「姉ちゃん！」「葵」「葵さん」

　入り混じるたくさんの声に励まされ、握りしめた両手から力をもらって、疲れきった体にもう一度、力を込めた。

　出ておいで。
　たくさんの人たちが、あなたを待っている。
　迎える世界は、こんなにも温かくて優しい。

　呼応するように、体の中で何かがくるりと弧を描いたと思うと、隔てを破って、股の間から飛び出してきた。

　泣き声が響きわたる。

　「……っぎゃ、んぎゃあ、んぎゃあー」

　室内を声だけが満たした。
　命の賛歌に聞き惚れる、一時。

　「おめでとう、女の子ですよ」
　「……生ま、れた？」
　先生の声に、小さくつぶやいた光が、大きく叫んだ。

　「生まれた！　生まれたんや！　お姫ひい　さんやて？　葵、でかした！」

　葵の手を包んで頬ずりする彼の、頬に涙が滝のように流れている。
　光を見つめ、葵は心の底から安堵した。
　誰にともなく湧き上がる思い。

　ありがとう、ありがとう。
　私たちに、命を、ありがとう。

　光と反対側の手は、藤尾とつながれたままだ。ずっと、葵を支えてくれた人に、なんて言えばいいのか、わからない。

　「藤尾さん」
　「良かった。ほんとに良かった」
　目を潤ませて繰り返す藤尾の顔に、なぜか母が重なる。気づいたら自分も泣いていた。

　産湯をつかい、綺麗にくるまれた小さな生き物が、助産師の手で葵の腹の上に載せられた。皆の目がそこにだけ集まる。

　初めて触れた小さな小さな体。まだ見えない目。小さな口が懸命に乳を捜して吸いつく。授乳することに、母としての原始的な喜びを覚えた。

　信じられない奇跡のように、赤子を見つめている光。
　彼と赤ん坊、そして家族への愛情で。葵の胸ははちきれそうだった。





　赤ん坊は新生児室へと運ばれ、葵も病室のベッドに収まった。贅沢ながらも個室にしたのは、ほかの患者に迷惑がかからないようにという、光の深慮だ。

　集まった家族は今、光を先頭にして、新生児室の窓ガラスに貼り付いているらしい。
　「うるさくしてなければいいけど」
　藤尾はやっぱり葵のそばで笑って言う。　

　「光ったらもう、この子は嫁になんぞやらん、ですって」
　「親バカの始まりかしら」
　「なんぞ言うたか」
　先に戻ってきた光が、葵のそばに飛んできた。

　「眠らんでええんか？」
　「なんだか目が冴えちゃって」
　「大仕事のあとですもの。そう言えば、名前は決めてあるの？」
　「それや。あれこれ仰山考えたんやけど、あないに可愛い子ぉやろ？　どないな名ぁがええか、わからんようなって」

　葵が微笑んで見たので、光が目を瞬いた。
　「なんや？　決めたんか？」
　「光がいいって言ってくれたら」
　「ええに決まっとる。聞かせてえな」

　光が勢い込んだところに、どっと、残りの家族も入ってきた。
　「やーっぱり生まれたてはなんとも言えないわね」と小町。
　「あんたがうるさくてゆっくり見られなかったじゃねえか」と鋼。
　「まあまあまあ」と雀が仲裁に入る。

　「葵に似てるな」「すっげえ美人シャン　」
　銀と鉄がうなずきあうと、
　「目は光よ」「そうそう、くりっとしてる」
　鈴音を抱いた初音と、乙女が、そう反論する。

　「赤ちゃんかわいー、鈴ちゃんや秋と、同じくらいかわいいー」
　早起きした夕花は興奮気味だ。出張帰りの守は感慨にふける。
　「夕花の生まれた時にそっくりだな」
　「秋がおっきく見えたわねぇ。育つのって早いわ」
　息子をのぞきこみ、桐子は異なる感慨にふけっている。
　こっちに向かっていると連絡のあったキヌと、叔母たちが加わったら、どれだけにぎやかになるだろう。

　「葵、笑うとらんで、早う教えてえな」
　催促した光が、家族に向かって言った。

　「静かにせんかい。とびきり別嬪さんの名前が決まったんや」
　「ほんと？」
　「なになに」
　「どんなの」

　ベッドの周りに集つど　った、たくさんの顔。
　しみじみと幸せを覚えながら、葵はゆっくり口を開いた。

　「……あの子の名前は、ね」



　窓の向こうは春の青空。
　新しい一日を照らして、太陽が輝いていた。





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