契約書を取り交わしたあと、佐田菜摘さだなつみ の顔にやっと笑みが浮かんだ。小町への声に興奮が隠しきれない。

　「チャンスをくださってありがとうございます」
　「お礼を言うのはこちらの方よ。お客様に大好評ですもの」

　三ヶ月前から＜ワールドエンズ＞に焼きドーナッツを置いた。いわゆるお試しだが評判がよかったので、本契約になった。まだ二十代、独創性のあるパティシエは、都心近くに小さな工房を持っている。小町が今後を期待している一人だ。

　「いい商品ができたら是非教えてちょうだい」
　「喜んで」
　二人は固い握手を交わした。


　車を発進させてから、小町はほうとため息を付いた。今日の予定はあと一件、新しい茶葉の仕入れが残っている。藤尾にはあれこれ言われているが、これは店主としての判断だ。とはいえ少し予定を詰めぎすたかも。

　葵の出産が近づいて、なるべく家を空けないようにしていた。頼まれたわけではない、小町の意志だ。初音の時にすぐ駆けつけられなかったのが悔しく、心残りだったから。

　初音もすぐ呼んでくれればよかったのに。うるさいから？　そりゃまあ、ちょっとやそっとは騒ぐけど。桐子にも散々言われたけど。
　「お産はそれっくらい大事件よ、いいじゃないの、ねえ？」

　話しかけたのは、フロントガラスにぶら下がっている融の写真だ。いつまでも若い彼の顔を見ると、時々悔しくなるが、しょうがない。

　あなたは損してるんだものね。桐子の産んだ夕花に護秋、初音の産んだ鈴音、あんな可愛い孫たちに会うことも、抱くこともできないんだから。

　小町の目にふと、融が桐子を抱いた姿が浮かんできた。


　初めてのお産を控えて小町は怯えていた。妊娠中はつわりもなく、融の気遣いを楽しむ余裕すらあったのに、予定日が近づくにつれて怖れが募ってきた。

　子どもを無事に産めるのか。
　それどころか、自分が死んでしまうのではないかと。

　小町の人生には早くから死がつきまとった。両親を事故で早くに失い、祖父母に育てられたが、祖父は数年前に亡くなっている。

　通っている病院の先生は出産に太鼓判を押してくれたし、祖母も励ましてくれた。自分にも繰り返し言い聞かせたけれど、怖れは消えるどころか、次第に強くなる。これに、経験したことのない痛みが加わったら、私は耐えられるんだろうか。

　とうとう耐えかねた小町はある夜、胸の内を洗いざらい、融にぶちまけた。半泣きの小町の訴えを、いつもと変わらぬ穏やかさで聞いたあと、融は言った。

　「小町さん。君のお腹には生が宿っているんだよ」

　そんな風に考えたことはなかった。膨らみきった腹に触れると、ピクリと動く。ここには命が、生がある。死とは真逆の。

　「我慢するから怖くなるんだ。今みたいに全部言えばいい」
　「言う？」
　「怖れを抱え込まないで、全部吐き出して叫べばいい。きっと怖れも逃げていく。僕も一緒に追い払ってあげるから」

　寝室のベッドに小町は横になっていた。隣に腰掛けた融が手を握ってほほえむ。

　「約束だ。君の怖れと痛みはすべて、僕が受け止めるよ。何度でも」

　二人しか知らない二人だけの約束を、融は確かに守った。陣痛の間中、罵倒し暴れ、わめきらす妻に文句一つ言わず、最初から最後まで付き添ってくれた。娘の産声を一緒に聞いた。

　産まれたばかりの娘を抱いた融の姿を忘れない。
　「新しい命をありがとう。君は最高の女性だよ、奥さん」
　彼のくれた言葉も。

　だから小町は五度のお産を耐え抜けたのだ。（耐えてなかったと、子どもたちには言われそうだが）　

　桐子が結婚して夕花を身ごもった時、誰にも言わなかったけれど、小町は再び怖れた。娘のお産、娘の人生だ。母親の自分がおびえさせてはならないと、必死で自分を律したが、怖れに囚われそうになった。
　助けてくれたのはやっぱり融だった。

　『全部吐き出して叫べばいい』

　その言葉のとおりにすることで、融がいなくても、大事な娘のお産を乗り切ることができたのだ。

　うるさくて悪かったわね。
　死に神よけなんだからしょうがないじゃないの、ねえ？

　もうじき、またひとり増えるのよ。光が、私たちの長男が、初めての子どもを迎えるの。あきらめていた頃もあったのに、あの子は前に進んでくれた。素敵なひとに出会って、私を許してくれた。

　あの子が我が子を抱く姿に、私はきっとあなたを見るわね。あなたが桐子を抱いた姿を重ねるわ。どうか無事に産まれますように。こうしちゃいられない、早く用事を終えて帰らないと。葵さんが。

　携帯端末が震えるのを見て、舌打ちした。
　なんだろう、仕事かしら……まさか。

　いやな予感がして、車をわき道に停めた。相手は藤尾だ。ますますいやな予感が強まる。
　「もしもし？」
　「小町さん？　葵さんが陣痛なの。今、病院」
　「うそ」
　うめき声が出る。どうしてこのタイミング？

　「あわてなくても初産だから、産まれるにはまだかかりそうよ」
　「光は？」
　「葵さんが今日は大事な仕事があるからって、ＬＩＮＥに入れておいたわ」
　「……初産だってのに、余裕のお嫁さんねぇ」
　「本人曰く、目年増耳年増だそうよ」
　吹き出しながら思った。葵はほんとうに強い人だ。

　「なるべく早く行くから」
　「急がなくていいって。小町さんはうるさいもん」
　「ひどいっ、藤尾までそんなこというのね」
　「桐ねえの時、私だって閉口したもの」
　「だってあれは」
　「じゃあね」
　プツッ。

　通話の途切れた携帯端末をにらんで数秒、ひとりきりの車内だからこそ、小町は叫んだ。
　「藤尾のばっかああああーっ」

　怒りの風圧で、ルームミラーに下がった融の写真が揺れた。笑っているようでにらみつける。
　「人の気も知らないで、もう！」
　頭から湯気を立てつつ、これから行く予定だった相手先に断りを入れた。仕入れは後日、藤尾も連れて行こう。病院へ急がないと。

　車を発進させようとしたら、まだ写真が揺れている。ハンドルを一旦離して、小町は一呼吸入れた。
　「わかってるわよ融さん、安全運転。私が着くまで、葵さんを見守っててね」

　改めて車を発進させると、小町は大声で歌って怖れを追い払っていた。





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