二月でしょ。臨月よ。
　そうなんだけど。

　陣痛だと気づいた瞬間、初音の中でエアバッグのように、不安の風船が膨らみ始めた。

　『予定日なんてただの予定で、その通りに来るとは限らないのよ』

　姉の桐子に言われていたのに、信じていなかったらしい。大きなおなかのてっぺんを、丸く撫でながら、時計とにらめっこする。

　そもそも気づくのが遅かった。思い返せばしくしくと痛みを感じていたのに、なんとなく意識の外へやりすごしていた。だって予定日まで、まだ二週間あるから。

　よりによって今日、滅多にない出張で銀が不在の今夜、産まれるなんて、ありなの？

　「へそ曲がりね、あなたは。誰に似たのやら」

　声が上擦ってないのが不思議なくらいだ。秒針がのろい。鼓動は速い。ほんとに陣痛だろうか。ようやくリフォームが終わった実家へ、週末には引っ越しの予定なのに、間違いじゃ。

　「いっ、たた来た来た、間違いない、かも、……どうしよう」

　落ち着かなきゃ。新たな家族が増えようとしているだけ。自分に言い聞かせても、覚えたはずの呼吸法は出てこない。陣痛なら、痛みは一旦収まるはず、ほら。

　「今、のうち、に電話、しない、と」

　誰かがいるってありがたいと心から思った。たとえ銀がいなくても、助けを求められる家族がそばにいてくれる。隣に電話をかけながら、初音は神様に感謝した。

　直後、それを撤回したくなった。

　忘れていた。鉄は乙女と出かけて、居るのは鋼だけ。風船がまた大きくなる。いつだって頼りになる鋼だが、お産ばかりは門外漢だろう、などと言っている場合じゃない。荒々しい足音を立てて飛び込んできた鋼が、割れるような大声で叫んだ。

　「はーちゃん！　産まれるのか？　大丈夫か！」

　シャツと股引ももひき　に寝間着代わりの浴衣、さらにどてらを引っかけた鋼の、あわてふためいた顔。自分よりあわてた人を見ると、少しだけ風船が萎む。

　「病院には、連絡、しました。カバン、もって、一緒に」
　「車だな。今取ってくる。待ってろ」
　「お義父さ、でも、あの、晩酌、して？」
　聞かないわけにはいかなった。飲んでいたら運転はさせられない。ところが。

　「銀も鉄もいねえんだ。飲めるもんか」
　「え？」
　「今夜は俺がはーちゃんを守んねえとな」
　思いがけない台詞がじんと響く。風船がさらに萎む。
　
　「そうだ、銀にも電話しとけよ」
　「でも」
　「初産は時間がかかるもんだ。間に合うかもしれねえし、間に合わなくても、知らされなかったら怒るに決まってるぜ」

　閉まったドアをみつめ、初音は言われたとおり携帯端末に指を滑らせた。銀は最初は眠そうに、だがすぐ怒鳴りだした。

　『だから嫌だったんだ、よりによって今夜か？　絶対そいつはへそ曲がりだな、畜生』

　しかめた顔がほころんだのは、彼が自分と同じことを言うから。また風船が萎む。きっと彼は来てくれると思うと。

　ああ、だから鋼は。

　たとえお産でも、どうやら義父は頼りになるようだ。
　居てくれてよかった。改めて初音は思った。


　病院で診察を受けると子宮口は三センチ、まだまだかかるとにこやかに言われて、ため息になった。病室で待つしかできない。

　鉄と乙女は今夜に限って、どちらも携帯端末の電源を切っているらしい。メッセージは残したが、数日遅れのバレンタインデート、式を控えた熱々カップルじゃしょうがない。

　実家にも連絡しろと言われたものの、初産は時間がかかるというし、葵だって身重だしと躊躇する。

　「おふくろさんが居た方が心強いんじゃねえのかい」

　困ったことにそうとは言い切れなかった。小町は自分の時だけでなく、娘のお産でもテンションを跳ね上げ、大騒ぎする。桐子が夕花を産む時も、そりゃあすごかった。

　『しっかり、もうちょっとよ、いっそ帝王切開してもらったらいいのに、桐子、しっかりぃいい』
　『お母様、落ち着いて下さい』
　『落ち着いてなんかいられますかって、桐子、桐子しっかり！　融さんったらなんでいないのよ馬鹿っ、桐子ぉおーーーっ』
　『ぁあああもう！　小町さんうるさいっ、黙っててよ！』

　いつでも優しい姉が、母を怒鳴りつけるのを聞いたのは、後にも先にもあのときくらいだ。去年、二人目の護秋もりあき　の時は、産んでから連絡したらしい。初音だってあれをここでやられると思うと、二の足を踏む。だが鋼にどう言えばいいのか。

　「小町さんは、その、騒ぐから」
　「ああ、不安を表に出す方が楽なんだな、きっと」
　なるほどとうなずいた。短い間にずいぶん母のことをわかっている。
　「そうか、も、っ」
　痛みが強くなった。とりあえず何かにつかまってなんとか乗り切る。目を開けると鋼の手が真っ赤だ。なのに心配そうな顔。

　「でえじょうぶか。先生、呼んでくるか」
　「いえ、たぶん、まだ」

　申し訳なく思った。産婦人科で陣痛に付き添うなんて、鋼でなくても男なら逃げ出したいに違いない。でもひとりは嫌だし。彼と自分の気を紛らわせるため、ぽつぽつと話した。

　「末っ子の乙女が産まれた時、私もそこにいたんです。父も姉も兄も、家族みんな。小町さんは五人目だっていうのに、ものすごく騒いで、でも父は全然平気で。小町さんも父に言いたい放題で」
　「そりゃあ……すごそうだ」
　鋼の言い方がおかしい。

　「小町さんはいつもそうだったから、子どもながら時々首を傾げてたんです。父はどうして小町さんと結婚したんだろうって。でもあの日、悪口雑言文句を並べる小町さんと、それを笑って受け止める父を見て、いいなあって」

　思い出したのは、憧れのような感情。

　「乙女が産まれる瞬間を見たの。とてつもなく小さい生き物が、とてつもなく大きな声で泣いてたわ。父が抱いて小町さんの胸にそっと下ろして。乳を含ませる小町さんは、三分前まで鬼の形相だったのに、女神のようにきれいだった」
　「鬼はいいやな」
　鋼と一緒に笑いながらも、浮かんでくるのは聖母子のようなふたりと、誇らしそうな父の姿。

　「あの時決めたんです。私がいつか赤ちゃんを産むときも、旦那さんと、父に居てもらおうって。そしたら絶対大丈夫って。なのに、父はとっくにいないし、銀さんは、出張、だ、し」

　また波がきた。前より大きい。息が切れる。浚われそうな気がして風船がまた膨らもうとする。怖い。浚われたら、弾けたらどうなるの？　どうしよう。だって、いないんだもの。
　銀さんのバカ。
　父さんのバカ。

　「思う、よ、に、い、かない、も、の、ねっ」

　目をつむって手にすがる。痛みはさっきより強い？　同じ？　どっちにしても痛い。痛い痛い。でもまだのはず、引いていくから。

　汗まみれで目を開けた初音はぼんやりと手を見た。鋼の手と一緒に、いつのまにか握らされているお守り袋。安産祈願の文字が色あせている。問いかけるように見上げた鋼の顔が、少し青い。

　「千代が、鉄を産んだ時のだ。御利益は保証済みだぜ」
　「日高の、お義母さん、の？」
　「おうよ。親父さんだってここにいるさ」
　「え？」
　思いがけない言葉に瞬きした。眉根を寄せた鋼はごく真面目だ。

　「親が先に逝くのは世の習いだが、早過ぎると残して来た子が心配だからな。大事な時は来てくれるさ。ここで、はーちゃんを守ってる。親父さんも、千代もだ。間違えねえ」

　守り袋を握りしめて、初音の目の奥が熱く潤んだ。さっきのはただの愚痴なのに、情けないって笑い飛ばしそうな人が力づけてくれる。お守り袋を用意して、お義母さんが、父さんもここにいるって言ってくれる。

　初音の涙目にあわてたように、鋼は銀を罵り始めた。

　「それにしても銀は何してんだ、全く。スピード違反でもなんでもいいから、タクシーを吹っ飛ばさせりゃいいんだ。パトカーに先導させてさ」
　「そ、れはま、ずいっ、じゃっ」
　笑いかけたらまた来た。もっと大きい波。

　「いたっ、いたたたっ」
　「はーちゃん、頑張れっ」
　「はいっ、うんんっ」

　握りしめた守り袋と、鋼の大きな手。
　さっきより痛みは強く大きいけれど、負けるもんか。

　私が、この子を産むんだ。
　鋼に助けられ、初音は懸命に痛みと、不安と、闘い続けた。





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