いつもと違う銀に気づいたのは、夜になってからだ。

　夕食は乙女も一緒だった。まとめて知らせられて好都合だ。葵と光の気持ちがよくわかる。いい知らせを伝えるのってわくわくするんだ。素知らぬ顔で落ち着いて見せる。

　妊娠四ヶ月で、二月に産まれる予定だと伝えると、鋼も鉄も乙女も、口をぱくぱくさせて驚き、それから喜んだ。案の定、鋼はすぐ電話をかけようとしている。だが。

　「妊婦は労れっつってんだよ！」

　銀の剣幕にびっくりした。そういえば昼間も何か言ってたような。
　『……酒盛りだ、断固阻止するけどな……』
　どうして？

　おかげで夕食は妙に静かな、祝いにしてはぎこちない雰囲気になった。それが悪いというんじゃないけど、初音はなんだか損した気分になった。

　酒盛りでも良かったのに。
　みんなでどんちゃんしてくれた方が。


　乙女と鉄に後かたづけを任せ、自分たちの部屋に戻った。リビングのソファに座ったら、疑問と苛立ちが大きくなる。どうして。お気に入りのクッションをボスボスと攻撃する。

　バスルームから銀が出てきた。エアコンがかかっていても、風呂上がりは暑いのだろう。裸の上半身の首から下げたタオルで、濡れた髪をガシガシ拭いている。眼鏡をはずした彼の瞳は、少し茶色っぽい。

　毎日力仕事をしているわけでもないのにゆるみのない体が、今日に限って憎らしい。私はこれから太るんだわと考える。どれくらい？　見当もつかない。初音は不機嫌な声を隠さなかった。

　「さっきのどういう意味？　あんな言い方しなくても良かったじゃない。お義父さんがせっかく」

　なんのこと、なんて言ったら蹴ってやる。

　初音を見返した銀は、すぐには返事をしなかった。Ｔシャツを着ると、冷蔵庫からウーロン茶を取りだし、コップに二つ注ぐ。一つを初音の前に置き、手に持っていたのを飲み干して隣に座った。

　「……悪かったよ」

　ぽつりぽつりと彼が語ったのは、母親にまつわる思い出だった。彼はあまり実母のことを言わない。以前、一度だけ聞いたくらいだ。

　昔、彼の母親が鉄を妊ったと告げた夜も、葵の時とそっくり同じように、鋼は酒盛りをしたという。はしゃいでご近所を呼び立てて呑んで騒いで。ただ、立ち働いていたのは当の母親だった。それが銀には腹立たしかったのだと。

　「昔のことだし下町だし。妊婦はお産まで動き回るのが普通だった。おふくろだって三人目だし、まだ腹が大きいわけでも苦にしてたわけでもない。むしろ嬉しそうだった。まだ小学生の葵が、ここぞって時はおふくろの代わりに立ち向かってたしな」

　小さいのに凛々しい葵が想像できる。

　「でも俺は気になった。なんだろう、妙な勘だったのかな。実際、だんだんおふくろは体調が悪くなった。お産も大変だったし、産んだ後は確実に弱っちまって」
　そこで口をつぐんで、銀が遠くを見た。

　初音は知っている。ある日突然、死なれるほどひどいことはない。でも、少しずつ弱っていくのを見ながら何もできないのも、劣らず辛いだろうか。

　「わかってるんだ。誰も悪くない。親父は喜んでただけだし、あの時おふくろの調子が悪かったわけじゃない。今日だって」
　銀が初音を見て、眉を寄せた。
　「……ごめんな。せっかくのお祝い気分をぶち壊しちまった。葵の時と同じにして欲しかったよな」
　「銀さん」
　寄り添って肩にもたれると、昼間の呟きが思い出された。
　
　『怖い』

　彼からそう聞いたのは初めてかもしれない。母親が弱っていった記憶に初音を、重ねてしまうのだろうか。妊娠も出産も経験のない自分では、説得力には欠けるけれど。

　「心配しないで。私は元気よ」
　「産むのは代わってやれねえし」
　「大丈夫」
　繰り返すしかできない。初音にだって不安はあるから。
　
　「ねえ、産むときはそばにいてね」
　「ああ」
　「絶対よ。絶対」
　「絶対だ」
　銀の目が初音をのぞきこむ。
　「無事に産んでくれよな」

　不安はあるけれど、今の彼に漏らすのはためらわれた。ええい、女は度胸。虚勢と見栄はこういうときに張るのよね、たぶん。
　「もちろんよ。家族が増えるんだもの」
　笑って見せると、銀は目を見張り、それから微かに微笑んだ。

　「そうだよな、増えるんだ。男と女、どっちだと思う」
　「どっちでもいいけど、そうね、銀さんに似た男の子」
　「最初は女が楽だって言うぜ？」
　「銀さんに似た女の子？　ハンサムガールね」
　「なんで俺だよ。そこは初音似だろ」

　やっと彼が笑い声をたてたので、初音はホッとした。優しく、しっかりだきしめられる。二人の間で赤ん坊も抱きしめられている。うん、だから。

　大丈夫。
　きっと大丈夫。

　宥めているのは銀なのか、自分なのか、自分の中に隠れている不安なのか、初音は今は考えようとはしなかった。





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