病院を出て歩いている間も、初音の心には喜びより、疑いが大きかった。その後ろには不安が隠れている。妊娠？　私が子どもを産む。
　ほんとうに？

　安堵もある。先日の鋼をやっぱり思い出す。
　『孫だ、初孫だ、めでてえ！』
　あの時のチクッとした痛みは嫉妬だった。

　ちゃんと見抜いて、慰めてくれた銀。彼は必ず喜ぶはずだ。
　喜ばなかったらただじゃおかない。

　拳を握りしめて歩いていると、落ち着くどころか気が高ぶってきた。走ろうとして、走っちゃだめよと自分を抑える。かごをかぶせられた鳥のような気分だ。
　安定期だ、心配ないと言われたものの、妊娠のことなんて何も知らない。四ヶ月なんて。つわりもろくに感じなかったのに。

　「丈夫な証拠だ。ごく順調だよ」

　念のために内診もしたあとで、落合は太鼓判を押してくれた。お産もあそこで、ううん、お産のことはまだ考えたくない。とにかく銀だ。最初に知らせるのは彼に決まっている。その思いが強すぎて、外階段は駆けあがってしまった。

　初音の店と同じビルの二階、銀の事務所は簡単な改装をすませ、すでに開業していた。『日高建築事務所』　と看板のあるドアを、ノックもせずに勢いよく押し開ける。銀がぎょっと顔を上げた。眼鏡の奥の目が細くなる。

　「驚かすなよ、病院は？　先生はなんて？」
　「二月よ」
　どれほど頭の切れる夫でも、これだけで悟るのは無理だ。
　「二月って引っ越しの話か？　気の早い」

　言われて思い出した。日高の実家の竣工予定も二月だった。引っ越しがある。引っ越しと出産？
　三月には乙女たちが結婚式をあげる。葵の出産は三月末か四月だったはず。店は五月に開店するつもりだった。やらねばならないこと、やるべきことが目の前に次々押し寄せてくる。

　「初音！」

　気がつくと来客用のソファに寝かされていた。銀の顔が青ざめている。
　「だから病院は？　先生はなんてったんだ？　悪い病気か？」

　矢継ぎ早に聞きながら、大きな手が初音の額を、頬をさする。大きくてしなやかで気に入っているこの手が、やがて。

　「……ん坊が」
　「はつね？」
　「二月にね、あなたはお父さんになるの」

　いきなりの告白に、前髪を払っていた手がぴたりと止まった。まじまじと見下ろしてくる彼は、さっきの自分と同じ気持ちだろう。よくわかる。
　めまいは治まったようだ。よっこらしょと起きあがった初音は、銀を横に座らせて、説明した。

　「妊娠四ヶ月。ごくごく順調だって」
　「……四ヶ月？　二月っておい、葵より早く？」
　「うん」
　「なっ、っんで今まで！」
　彼の狼狽は当然だが、言われても困る。

　「つわりがなかったもの。生理不順は今までにもよくあったし、忙しいせいだと思ってた。私だって妊娠は初めてだから」
　「だからっておまえ」
　珍しく絶句した銀の目が、初音の顔とお腹を行ったり来たりする。まだ自分にも、妊娠の実感などない。彼にとっては空想妄想夢物語と同じ。そうだ。

　初音は床からバッグを拾って、もらってきたエコー画像を取りだした。つい先日、葵にも見せられたやつだ。素人目には何がなんだかわからないけれど、先生が赤ペンを入れてくれたので、説明はできる。
　「これが赤ちゃん。ここにいるんだってよ」
　写真を見せながら彼の手をつかんでお腹に当てる。銀の目は今度は写真とお腹を行ったり来たり。どうやら信じ始めたらしい。

　「ほんと、なんだな」
　「うん」
　「ほんとに、赤ん坊」
　「うん」
　「……嘘みてえ……」

　座りなおした銀に抱きしめられた。しっかり、でもこわごわと。彼の心臓の音が聞こえる。強く激しい鼓動が、驚きと喜びを伝えてくる。遅ればせながら初音にも、じんわりと喜びが湧いてきた。そっと聞く。

　「嬉しい？」
　「あったりめえだ」
　動揺すると銀は、べらんめえ口調になる。義父そっくりの。

　「お義父さんも喜んでくれるかな」
　「あったりめえだ」
　「順番でいうとこっちが初孫になっちゃいそう。がっかりしないかな」
　「何だって？」
　「だって、光と葵さんが来たとき、初孫って連呼してたから」
　「初音」

　のぞきこまれて思わず引く。彼の真顔が咎めてくる。
　「たとえば俺たちに、ふたり三人恵まれたとして、二番目三番目が、一番目に劣ると思うのか？」
　恥ずかしくなった。どうかしている。

　「親父は息子から見ても困った奴だけど、そういうことはしねえよ」
　「ごめん、そうじゃなくて、その」
　「その？」
　「……喜んでほしいなぁって」
　「間違いなく酒盛りだ。阻止するけどな。そんなことより自分の体を心配しろ、四ヶ月まで気づかないなんて信じらんねえ。馬鹿」
　「ひどい」
　耳を押し当てた胸から伝わってくる鼓動は、やっぱり早い。

　「ほんとに大丈夫なんだな？」
　「先生が太鼓判だって」
　「そうか……怖いな」
　急に眠気がしてきた。これも妊娠のせいだろうか。昨日までなんともなかったのに。

　「ごめん、ねむ……」
　「寝てろ」
　ソファに寝かされてすうっと寝入った。何が怖いのと、聞くのは忘れてしまった。代わりに夢の中で、あれこれ考え悩んだ。

　小町さんに、光や乙女にも知らせなきゃ。母子手帳をもらって、準備って何するんだろう。ちゃんと産むためには？　何にも、何も知らないのに、私。

　喜びよりも、やっぱり不安の方が大きかった。





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