銀が酒瓶を起こして床を拭く間も、鋼の声はうわずっていた。
　「ほんとか、はーちゃん？　医者は？　行ったのか？」
　「赤ちゃん？　初ねえに？　きゃあああ」
　乙女の歓声は悲鳴になる。

　鋼が初音を「はーちゃん」、乙女を「おーちゃん」と呼ぶのは、彼女達の姪っ子の夕花に倣ったものだ。
　「さんづけとか呼び捨てよりずっといいだろ」
　夕花はすでに孫同然、その弟も可愛がっている鋼だが、とうとう実の孫が産まれる。しかもふたり？

　先週、葵と光から妊娠を報告されたばかりで、鋼にすると盆と正月が一緒に来たようなもの、上擦るのも無理はない。比べると銀の声が憎らしいくらいに冷静だ。

　「予定日は二月だそうだ」
　「光のところより早いの。もう四ヶ月だって。つわりもなかったから気がつくのが遅くなっちゃった」
　「なっちゃったあ？」
　自分の体なのにそういうものか？　そういうものなのか？　女は神秘だ。しかも。

　「葵たちより先？　順番が違わっ、いてっ」
　後ろから頭をはたかれた。
　「計算は合ってる。俺たちの方が時間を有効に使っただけだ」
　にらまれて言い返す。
　「とにかく初ねえは座った方がいいんじゃね？　ご飯の支度なんか兄貴がしろよ」
　「わかってる……こら親父、酒盛りを召集すんなよこんな時間に」
　銀の顔が急に険しくなった。家電の受話器を握った鋼とにらみあう。

　葵の時も、舞い上がった鋼はすぐ仲間を呼び集め、ドンちゃん騒ぎで飲み明かした。嬉しいほど羽目をはずすのが父だ。銀だってわかっているだろうに。

　「るせえ、めでてえ話は酒に決まってる」
　「初音が休めねえだろ」
　「銀さん、私は」
　「おふくろだってそうだったじゃねえか」
　「はあ？　おめえ、何を」
　「妊婦は労いたわ　れつってんだよ！」

　珍しいくらいの剣幕だった。初音も乙女も、鉄まで驚いて見守る。怒るというよりも驚いたように銀を見ていた鋼は、がちゃんと受話器をおくとテーブルに戻った。　折れた？　親父が？　雪でも降るんじゃねえか？

　「……さっさと飯にしろ。はーちゃんにやらせんなよ」

　初音が右に左に、どうしようとうろたえた様子だ。それも初めてかもしれない。乙女が立ち上がって姉を座らせ、銀がコンロの前に立つ。鉄もあわてて手伝った。お膳立ての間、奇妙な沈黙が場を支配していた。


　片づけは乙女と鉄で引き受けたので、食事が終わると初音と銀は隣室へ引き上げた。銀はすでにいつもの顔だった。父も寝てしまって、ふたりだけだ。

　鉄が洗う食器を、布巾で拭いて食器棚に戻しながら、乙女が聞いた。
　「銀さん、なんで怒ってたの？」
　「わかんねえ」
　鉄は首を振る。ほんとうにわからないから。

　「おふくろって、日高のお母さんのことよね」
　「まあ、ほかにおふくろはいねえよな」
　「いつ亡くなったの？」
　「俺が五つんとき」
　「前にも聞いたっけ。あたしと同じだね」
　「そっか」
　目が合う。早くに親を亡くしたことも、自分たちの繋がりのひとつかもしれない。

　「病気だったの？」
　「そう聞いてる。もともと丈夫じゃなかったらしい。あんまり覚えてねえからなぁ、俺は」
　「お母さんのこと？」
　「ああ。葵や銀の方が覚えてる分、しんどかったんじゃねえかな」
　「うん、わかる。きょうだいがいて良かったよね」
　「同感」
　今度は笑いあう。実際、鉄にとって母の記憶は、ぼんやりした春霞のようなものだ。ただ母を思うと、暖かくて優しい心地が蘇る。それもひとつのよすがだろうか。


　「……ちゃんてば。鉄ちゃん？　好きな花って何？」
　「は、なぁ？」
　自分の声がまぬけだ。片付けを終えて座ったテーブルで、乙女は話題を変えたらしい。だからって花？　なんで？　乙女の期待満々の目に思わず引く。

　「……なんでも」
　「じゃなくて、好きな花よ」
　「特に、っていうか嫌いな花もねえし」
　「ええー？」
　乙女は尚も必死な顔で迫ってくる。
　「でもでも、ひとつくらいはあるでしょ？」

　うーんと腕組みした。考えて出てくるものでもないだろうが、ふと口をついたのは。
　「……さくら」
　「さくら？　さくらって、桜？　なんで？」
　意外そうに乙女が聞き返すから、にらんでしまった。

　「なんだよ、桜じゃおかしいか？」
　「そうじゃないの、そうじゃないけど」
　「けど？」
　「……桜って探すの難しそう」
　「は？」
　困ったように乙女がうつむいてから、小声で言った。
　「ほら、ドレス。どうせなら鉄ちゃんが好きな花のイメージがいいなぁって思ったのに」
　決まり悪そうな乙女をみつめて、鉄はぷっと吹き出した。

　「笑った？　笑ったわね？　ひどーい」
　「違う違う、馬鹿にしたわけじゃねえって」
　「うそうそ」
　「嘘じゃねえよ」
　容赦ない拳固をかいくぐり、手の早い彼女を抱きしめた鉄は耳元でささやいた。
　「乙女ならどんなドレスを着たって、綺麗に決まってんじゃん」
　「……鉄ちゃんて時々、たらしになるわ」
　そう言いながらも拳固をほどいた乙女は、鉄に抱きついて大きく息を吐いた。

　「さくら、かあ」
　「だから気にするなって」
　「ううん頑張る。理想は高く持たなくちゃ。当たって砕けるなら本望よ」
　いつだって前向きなのが乙女だ。そこに惚れたんだが。
　「鉄ちゃんもタキシードね」
　「は？　タキ？　タキシード？」
　ぼやっと聞いていると、何を放り込まれるかわからない。

　「だってあたしがドレスなら、鉄ちゃんもじゃん」
　「……神社で神主だぞ？」
　「おしゃれー。友達に自慢できそう……いや？」
　こういう時だけ上目遣いだもんな。必殺だ。
　ハートにドキュン、一発コロリだ。
　「そりゃ、まあ、いいけど」
　「ありがと！」

　正直に言えば鉄は、タキシードより羽織袴の方が気楽だった。滅多に背広も着ない鉄にとって、タキシードはかなり敷居が高い。でもしょうがない。
　「うん。白がいい、白のタキシード」
　「白ぉ？」

　父のせせら笑いが聞こえてきそうだ。七五三かお笑い芸人の自分が思い浮かぶ。鏡は見ない方が。そういえば。
　「……俺のサイズ、レンタルにあるのか？」
　「任して、見つけてくる」

　目をきらきらさせた乙女に逆らうことなどできるはずがなかった。





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