沈黙を破ったのは桐子からだった。

「どうしてここで働いているの？」
「どうしてかしら。自分でもよくわからないのよ」
首を傾げた若菜が苦笑してみせる。

「東京を離れて旅をしていたら、たまたまここに来て、あの店に入って。色々あって働くことになって」
そこで口をすぼめる。
「双葉さんのおかげね、きっと」

若菜がカップに寄りかかると、切りそろえた髪がカーテンのように目元を覆う。低い声になる。

「一年前のこと」
すっと上げた目が桐子を射る。
「私はあなたに謝るべきだと、そう思っているんでしょう？」

桐子の肯定も否定も待たず、視線は逸らされた。
追いかけると、どこまでも広がる森と空の睦みあった景色。

「謝ったらあなたは許すのよね。少なくとも許さなければと思ってしまう」
彼女の厳しい横顔が、空をにらんでいる。
「間違ったことをたくさん、私はしたわ。どれも、簡単に許しを請うてはいけないことばかり」
目が翳った。

「ずっとそれがわからなかった。気づかなければ口先だけでも謝れたと思うわ。でも気づいてしまったから。抱えて、自分に問い続けるしかない。罪ってそういうものなのね」

ふっと視線がこちらに返った。
訴えるようなその目。

「だから謝らないわ。許さないで。勝手な言い分なのは百も承知よ」

口元によぎった笑みは自分自身を嘲って見える。
「私はこういう人間なの」
「若菜」
思わず呼びかけてから、言葉を探した。

「一年前のことを私は許していないわ。ずっと許せないかもしれない。あの時のあなたは理解できないし、理解したくもない」
うなずく若菜に、続ける。
「でも今日、会えてよかった」
彼女が疑わしげに眉を上げた。

「会いに来て良かったわ。一年前の、ううん、これまで知っているどのあなたよりも、今日のあなたを私は好きだわ。ほんとうよ」

しかし若菜は首を振った。

「そう言われても嬉しくはないわ。私は罪を知っただけ」
「若菜」
「知らなければそばに居られたのに、知ってしまったらあまりにも自分が醜くて、逃げるしかなかった。知らないままでいたかったと思うことが今でもあるわ。やっぱり勝手ね」

誰のことを言っているのかは、聞かなくてもわかった。

「離婚したって聞いたけど」
「ええ」
「それで良かったの？」
「言ったでしょう？　そばには居られなかった」
唇が少しだけわなないたような、ほんの一瞬。

「彼が、幸せなら」

それからあわてたように立ち上がった。
「やだ、こんな時間。戻らなきゃ」
身を翻すと、ストールとワンピースの裾も翻った。波のような風の中で、若菜の背中だけが凜と、まっすぐだった。


二時を過ぎていて、驚いた。若菜と一緒に店まで行って詫びた。
「遅くなってごめんなさい双葉さん」
「私のせいなんです。つい話し込んで」
「見てのとおりヒマだったわ、問題なしよ」

あっさり手を振っていなすと、休憩してくるわと双葉は消えてしまった。鮮やかな女性だ。もっと知りたかった気もする。

帰ろうとすると、若菜が本を持ってきた。さっき桐子が見ていた『アリス』の絵本だ。
「これ夕花ちゃんに」
「買うわよ。高価なものだし」
「夕花ちゃんにはあなたからって言ってちょうだい。私はもう会うことはないから」
「若菜」
言いよどむ桐子に若菜が苦笑する。
「無事に生まれるよう祈ってるわ」

きれいに包装して紙袋に入れた本を渡される。

「来てくれてありがとう。さよなら、桐子」
「……さようなら」

シャララン。
ドアは来た時と同じ音色で閉じた。




桐子がホテルの部屋に戻ってほどなく、小町と夕花も戻ってきた。

「おかえりなさい、楽しかった？」
「楽しかったあ！」
「夕花にお土産があるのよ」
飛び出す絵本を見て興奮する夕花の声が嬉しい。
「コチママー見て見て」
「良かったわねぇ！」
ひとしきり騒いだあと、ふたりが目配せしあうのが見えた。

「ゆーかもね、ママにプレゼントがあるの」
差し出したのはリボンのかかった小さな包みだ。
「なぁに？」
「開けてみて」
小町まで急かす。

それは綺麗なブレスレットだった。つやのある色とりどりのパワーストーンを、細く編んだひもでつなげたのが、大小ふたつ。

「夕花が作ったの。コチママに手伝ってもらったけど」
「夕花が？」
「ママに、一日早いけどお誕生日プレゼント！」
ぽかんとした。そういえば明日は。

「ほーら、忘れてたでしょう？」
小町がまた目配せしている。体験教室って。
「今日はこれを作るために？」
「うん！　ちっちゃいのはねえ、赤ちゃんにあげるの！」
「赤ちゃんに？」
「作戦大成功ね、夕花」
「だいせーこー！」

くるくるふたりが桐子の周りを回る。笑いながら桐子は不意に泣けてきた。やだおかしいわ、昼間も散々泣いたじゃないの。けど。

「桐子？」
「ごめん、嬉しいの、嬉しくて」
「ママー？」
夕花を抱きしめた桐子を、小町が抱きしめてくれる。
「みんないっしょー！」

泣きながら笑って、幸せを噛みしめる。
シャララン。
魔法の音色を聞いた気がした。





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