「私はあなたに腹をたてたことなんかないわ」
ゆっくり紅茶を飲むと、カップを置いて若菜が言った。

「いつも、身勝手だったのは私の方じゃない。一年前だってそうよ。あの時は子どものことも幸せの備品のように考えていたし」
「備品？」
「ロールプレイングゲームのアイテムよ。そろえればコンプリートで幸せになれる、そんな風に」

高いはしゃぐ声にふたりとも視線をつられた。小さな子どもが二人、両親と食事を取っているのが見える。

「それだって彼が……直哉さんが欲しがっていると思ったからよ。私は心から子どもを欲しいなんて思っていなかった」
若菜の目が桐子に戻る。
まっすぐに。

「どうしてあなたに腹を立てるの？　いつも、誰に対しても、あの時までは私にすら優しかった人なのに」

ずん、と胸が重くなった。
息が詰まりそうだ。

「やめて、私はそんな人間じゃない、違うのよ」


自分は決して優しくもないし、思いやりがあるわけでもない。気まぐれな神様に人生を翻弄されながら、その時その時を必死で生きてきただけだ。そう、神様はいつだって。

ほとばしるように心がこぼれだした。

「この春から仕事に復帰するつもりだったの。復帰したかったの。ＣＡの現場は無理だけど、教育の仕事なら日勤だからって誘われて。うれしくて。夕花は保育園に行くし母の助けも借りて、社会に戻れるってわくわくしていたの」

止まらない。誰にも言えずに溜め込んでいた気持ちが、圧縮されて膨らんでいた感情が、どんどんどんどん吹き出して止められない。

「そしたら妊娠したのよ。二度目なのに悪阻にも気づかなかったわ。ようやく病院に行ったら、お医者様におめでたって言われて」

あの、地軸がずれた瞬間。

「どうしてって思った。呆然として怒りまで湧いた。どうして今なの。邪魔しないで、邪魔だわって」

そんな自分を、元の世界の自分が信じられないって顔で見ている。
今もだ。

「あなたや藤……子どもを欲しがっているたくさんの人から見ればただのわがまま、言語道断でしょう？　でも私は確かに思ったのよ。今もどこかで思っているのかもしれない」

一気に言葉を吐き出して、桐子は両手で顔を覆った。

「……私はあなたが、みんなが思ってるような人間じゃない。せっかく授かった命を喜べないような、邪魔に思うような、情けない人間なのよ」

鼻筋のてっぺんを両の指先で押さえて、肘をついた。ぐっと奥歯を噛みしめる。これ以上みっともないことをしないように必死だった。

なのに若菜は笑い出したのだ。
耳を疑い、手を下ろす。

「……どうして笑うの」
「ご、ごめんなさい、だって」
げほげほと咳までしている。

「東京から遥か離れた街で、私に逢いたくないはずの人が、わざわざ逢いに来たんですもの。てっきり文句を言いに来たんだと思うじゃない？　身構えて、罵倒されるのを覚悟してたのに」

おかしくてたまらない、という顔で若菜はこっちを見る。

「あなたったら文句を言うどころか、私じゃなくて自分を責めるんだもの、信じられないわ。笑わずにいられる？　あぁ苦しい」
「若菜！」

さすがに腹が立って大声を出した。周りの視線に背を丸める。笑いを納めた彼女は意外なほど穏やかに言った。

「ねえ桐子、あなたは神様じゃないわ。完全無欠なわけでも、あなたが世界を背負ってるわけでもないのよ」

まじまじと見た彼女の顔には、非難も敵意も見えない。

「子どもは授かりものでしょう？　時と場所と人を選ばないんだから、望まないタイミングで授かったら、当惑したり怒ったり嘆いたりするのは当然よ。そう感じたからって誰もあなたを非難できないでしょうに」

茫然としていた。まさか若菜に、そんな風に言われるなんて、想像もしていなかった。その間も若菜は平然と紅茶を飲んで、また聞く。

「それで、どっちにしたの」
「何のこと？」
「産むか産まないか」
ぎょっとして、庇うようにお腹に手をあてる。

「驚くことないじゃないの。怒って邪魔に思ったんでしょう」
「思ったわ。怒ったわ。でも産まないなんて思わなかった」
「どうして？」
「私の子どもよ。私とつながっている命なんだから、産むわよ」

叫ぶように言った。前のめりになるほどの勢いで。
すると若菜は微笑んだ。
魔女のように。

「昔、私は違ったわ。文字通り邪魔者として中絶したのよ」


ぎくっとした。光に聞いていたが本人に言われるとたじろぐ。
でもさらりとした口調に、以前と違う何かを聞き取る。

「お腹に宿った見知らぬ存在よりも自分が大事だったから、あっさり排除してしまったわ。悩みもせず罪悪感もなく。私はそういう人間だったの」
「若菜」
「あなたは、違う」
若菜の声が、強い。

「混乱しても理不尽だと怒っても、いざとなったら愛することを惜しまないし、命を切り捨てない。あなたはそういう人よ。気づいていないの？　口でなんて言おうと心に逆らおうと、あなたはとっくにその子を愛してるじゃないの」

ぽかんとした。

頭の中で若菜の言葉が渦を巻く。押されるようにゆっくりと椅子の背によりかかって、自分のお腹を見下ろした。

まだろくに膨らんでもいない。見た目ではわからない。
でもここに命はある。私の子がいる。

私はこの子を、愛している？


お腹を抱えた手にぽたりと滴が落ちた。
また、ぽたり。

ハンカチを差し出されて、涙に気づく。人前で泣くなんてと思っても、今は泣きたい。心の重石が溶けて、世界が元通りになっていく。


桐子が涙に暮れる間、若菜は何も言わなかった。目を逸らして広がる景色をみつめている。二人の間にゆったりと流れていく空気。思えば彼女とこんな風に語り合ったことも、向き合ったこともない。

温かくて、心地いい時間だった。





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